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原発=神殿説

2015-08-12 | 時評

なぜこの時期に原発再稼動か?という問いに対する合理的な回答は何も示されないまま、ついに原発再稼動のプロセスが始まった。合理的な理由が示されないということは、この再稼動は再稼動そのものを自己目的としているとしか考えられない。特に再稼動第一号の川内原発は再稼動の既成事実を作り出すという象徴的な意味を濃厚に帯びている。

このように再稼動のための再稼動が世論の反対を無視して強行される背景には、多くの利権を生む原発ビジネスの旨味という利欲的動機もあろうが、新規原発の誘致ならいざ知らず、既設原発が新たな利権を生み出すわけでもないので―稼動停止に伴う逸失利権の回復の意味は小さくないが―、それだけでは説明がつかない。

おそらく冒頭の問いへの最も合理的な解答は、「原発は推進派にとって一種の神殿だから」だろう。本来の原発は高度の科学技術を駆使した科学施設であるが、日本の原発は単なる科学施設ではなくして、「原子力教」という名の新宗教の神殿なのである。

原発推進派にとって、原子力は超自然的な力なのであり、それには経済成長のご利益があると信じられているのだ。だから、かれらは「原発は経済成長に不可欠」との言説を明確な根拠を示すことなく繰り返している。かれらにとっては科学的根拠よりも宗教的信念のほうが重要である。宗教的信念は一回の事故程度では揺るがない。

ただし、原子力教の信者らにお願いがある。それは信者としてぜひ原発=神殿の近隣圏内に居住してほしいということである。言うまでもなく、原発近隣圏は事故に際して最も放射線の危険にさらされる地帯であるが、信念ならそれを回避するはずもなかろう。原発近隣圏に原子力教の信者ではない市民だけを住まわせるというのでは、納得されない。

集団的安保法案もそうだが、常に自分以外の他人を危険にさらし、自分は安全地帯に退避しながら危険行為を是認・推奨するという態度はフェアーでないし、その信念の程度が疑われる。旗振り役は自ら率先して危険に身をさらすべきであって、そこまでされれば、反対派といえども一定の敬意は持たざるを得ないだろう。


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