ザ・コミュニスト

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デモ不参加の理由

2015-08-30 | 時評

集団的安保法案に反対するデモが、(近年では)「空前」の規模になっている。参加しないと時流に取り残されかねない勢いだが、私は一度も参加していない。というより、これまでデモの類に参加したことは一度もない。

その理由には個人的なものと理論的なものとがあるが、意義の低い個人的な理由は後回しにして、理論的な理由を述べてみよう。

第一;デモはその主張内容が単純化され、いわゆる「ワンフレーズ」になりやすいこと。

今般の集団的安保法案をめぐっても、反対デモは「戦争法案反対」というスローガンを掲げている。わかりやすく、それがデモ参加者を増やす要因でもあろうが、今般の法案は「戦争法案」のひとことでくくれるほど単純ではない。

その詳細は法案成立間際の記事で論及するつもりであるが、今般の法案の意義や成立後の予測に関しては、もっと深い分析が必要である。しかし、デモという集団行動にそうした「わかりにくい」分析はなじまないだろう。

ちなみに事象としては性質が異なるが、10年前の「郵政民営化」政局の時には、政権側が「ワンフレーズ」を駆使し、与党内「抵抗勢力」を含む反対派が縷々説明を試みたが伝わらず、、「ワンフレーズ」が勝利した。今回は、政権側が縷々説明を試みるも伝わらず、反対派の「ワンフレーズ」が浸透する逆の現象が起きている。

第二;デモは、それが法的に禁止されている場合でなければ、政権に対して真の圧力とはならないこと。

逆言すれば、デモはそれ自体が非合法であるとき、はじめて真の圧力となる。なぜなら、デモをすれば処罰されるリスクを犯してでも、大衆が街頭に繰り出せば、当局はパニックに陥るからだ。政権は鎮圧部隊を投入して流血覚悟のデモ粉砕に出るか、デモを容認し、その要求を受け入れるかの決断を迫られる。

それに対して、合法デモは政権にとってはある種のガス抜きと、反対デモをも容認したうえでの方針決定であったという民主的アリバイ作りの手段として利用できるのである。現在の日本でデモは基本的に合法であるから、今般の安保法案反対デモもこのような利用の仕方をされる可能性がある。

第三;デモはプライバシーに開かれた街頭で行なわれるため、当局に情報収集されやすい構造を持つこと。

大規模なデモでは、市民に扮した公安要員が紛れ込んで、秘密裏の写真撮影や録音によって情報収集することが容易である。デモに参加する場合は、そうした不利益を甘受する必要があるが、その不利益は合法デモの場合、その限局された効果に比して大きすぎる。

以上のような点を考慮に入れつつも、デモという方法は、特定の意見を持つ人が多勢であることをアピールし、また言論の形で意見をまとめることが苦手であったり、何らかの事情でそれができない立場の人にとっては、最も手っ取り早く意見表明することのできる集団的な表現手段としての意義を認めることにやぶさかではない。

蛇足になるが、デモ不参加の個人的理由は、まさにデモンストレーション=自己顕示という行為が生来苦手なことによる。良く言えば控えめ、悪く言うなら引っ込み思案である。

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