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晩期資本論(連載第59回)

2015-08-24 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(3)

他の事情はすべて変わらないとすれば、すなわち利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば、機能資本家は、利潤率の高さと正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし、また支払うことを辞さないであろう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、したがってまた一国の利子率の高低の産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる。

 より一般化すれば、「利潤の平均率は、利子を究極的に規定する最高限界とみなされるべきである」。これが利子率決定の一般原則である。また資本主義の発展段階で見れば、資本主義が発達するほど利潤率は低下し、従ってまた利子率も低下することになる。

しかしまた、利子率が利潤率の変動にはまったくかかわりなしに低落する傾向もある。そして、それには次のような二つの主要な原因がある。

 ここでマルクスが挙げているのは、まず発達した資本主義社会における金利生活者や年金生活者の増大現象である。すなわち、「古くて豊かな国では、新しくできた貧しい国でよりも、国民資本のうち所有者が自分で充用しようとしない部分が、社会の総生産資本にたいしてより大きい割合をなしている」(ラムジ引用)。
 次に、「信用制度が発達するということ、またそれにつれて社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄を産業資本家や商人が銀行業者の媒介によってますます多く利用できるようになるということ、またこの貯蓄の集積が進んで、それが貨幣資本として働くことができるような量になるということ、これらのこともやはり利子率を圧迫せざるをえない」。
 これら二つの要因は、まさに晩期資本主義社会においては定在化していることである。これに、中央銀行による政策的な金利操作という政治的な要因も加わるであろう。

・・・絶えず動揺する利子の市場率について言えば、それは、商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとして与えられている。なぜならば、貨幣市場ではすべての貸付可能な資本が総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給と他方ではそれにたいする需要との関係が、そのつどの利子の市場水準を決定するからである。

 別の角度から言い換えれば、「利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇であるにもかかわらず、独特な種類の商品となり、またそれゆえに利子は利子生み資本の価格となるのであって、この価格は、普通の商品の場合にその市場価格がそうであるように、そのつど需要供給によって確定される」。
 このように、利子生み資本とは利子を市場価格として資本そのものが商品化されたようなものである。「資本はここでは、産業資本がただ特殊な諸部面のあいだの運動と競争のなかだけで現われるところのものとして、階級のそれ自体で共同的な資本として、現実に、重みにしたがって、資本の需要供給のなかで現われるのである」。

 他方、貨幣資本は貨幣市場では現実に次のような姿をもっている。すなわち、その姿で貨幣資本は共同的な要素として、その特殊な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊な部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分される。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現われるかぎりでは、個別資本家、すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によっては代表されなくなり、集中され組織された大量として現われるようになるのであって、この大量は、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制下に置かれている。したがって、需要の形態から見れば、貸付可能な資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給から見ても、この資本は、それ自体、大量にまとまった貸付資本として現われるのである。

 ここでは、銀行を中心とする金融資本の支配する構造が簡明に描写されている。利子率と利潤率とが一致しないことは、このように、生産資本家階級と相対する形で、金融資本家階級が形成され、主導権を握る構造を作り出す。

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