ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第54回)

2015-07-15 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(2)

商人資本そのものは剰余価値を生まないのだから、平均利潤の形でその手に落ちる剰余価値は、明らかに生産的資本全体が生みだした剰余価値の一部分である。だが、いま問題なのは、どのようにして商人資本は、生産的資本が生みだした剰余価値または利潤のうちから自分のものになる部分を自分に引き寄せるのか?ということである。

 マルクスが挙げている簡単な具体例で言えば、3000ポンド(スターリング;以下省略)を取引資本とする商品取引業者が、この資金で30000エレのリンネルを1エレ当たり2シリングでリンネル製造業者から買ってこれを販売するとして、年間平均利潤率が10パーセントで、すべての経費を差し引いて10パーセントの年間利潤を上げるとすると、年末時点で3000ポンドは3300ポンドに転化することになる。この利潤はいったい何に由来するのか、というのがここでの問題である。

・・・彼(商品取引業者)は彼の利潤を流通のなかで流通によってあげるのであり、ただ彼の購買価格を越える彼の販売価格の超過分によってあげるのではあるが。しかし、それにもかかわらず、彼はそれらの商品を価値よりも高く、または生産価格よりも高く、売るのではない。というのは、彼がそれらの商品を価値よりも安く、または生産価格よりも安く、産業資本家から買ったからにほかならないのである。

 商人は一見すると、商品の価値を吊り上げて儲けているように見えるが、そうした詐欺的販売行為は一部に過ぎず、正常な販売においては、商人は価値よりも安く購入して、価値どおりに販売しているというわけである。

つまり、生産価格または産業資本家自身が売る場合の価格は、商品の現実の生産価格よりも小さいのである。あるいは、諸商品の総体を見れば、産業資本家階級がそれを売る価格は、その価値よりも小さいのである。

 ここで、マルクスは本来の生産価格と現実の生産価格という二種の生産価格概念を持ち出しているため、わかりにくくなっている。ここでの「現実の」生産価格とは、「商品の費用(商品に含まれている不変資本価値・プラス・可変資本価値)・プラス・それにたいする平均利潤に等しい商品価格」と言い換えられる。

平均利潤率には、総利潤のうち商業資本の手に落ちる部分がすでに算入されている。それゆえ、総商品資本の現実の価値または生産価格はk+p+h(このhは商業利潤)に等しいのである。

 そうであれば、ここでの「総商品資本の現実の価値」は生産価格と呼ぶべきではなく、端的に商品価格もしくは商業価格と呼ぶほうがよいであろう。しかし、マルクスには「生産価格」という名辞へのこだわりがあるようで、やや紛らわしいが、産業利潤と商業利潤とを次のように対照・総括している。

われわれは以上に述べたようないっそう詳しい意味で生産価格という表現を保持しておこうと思う。そうすれば、産業資本家の利潤は商品の費用価格を越える生産価格の超過分に等しいということも、この産業利潤とは違って、商業利潤は、商人にとっての商品の購買価格であるところの生産価格を越える販売価格の超過分に等しいということも、しかし商品の現実の価格は、商品の生産価格・プラス・商業利潤に等しいということも、明らかである。

 このように生産価格概念にマルクスがこだわるのは、商業資本も産業資本を含む総資本の中で生産物=商品から生じる利潤の分配に参加的に与るという草刈場的な仕組みを表現したいからかもしれない。要するに―

・・・・商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにもかかわらず、(それが総資本の中に占める割合に比例して)剰余価値の平均利潤への平均化には参加する。それゆえ、一般的利潤率は、すでに、商人資本に帰属すべき剰余価値からの控除分、つまり産業資本の利潤からの控除分を含んでいるのである。

 ある意味では、商業資本は産業資本に寄生して、そこから利潤を吸い上げるような存在である。そのため、「産業資本家にたいする商人資本の割合が大きければ大きいほど、産業利潤の率はそれだけ小さく、逆ならば逆である」し、元来労働の搾取度を常に過少に表わしている利潤率の「割合は、いま商人資本の手にはいる分けまえを計算に入れることによって平均利潤率そのものがさらに小さいものとして・・・・・・・・現われるかぎりでは、さらにいっそうかたよってくる」という形で、資本主義経済の桎梏ともなる面を有していることになる。

コメント