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晩期資本論(連載第55回)

2015-07-27 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(3)

 商業資本が隆盛な現代資本主義にあっては、商業資本の下に雇用される商業賃金労働者の割合が高まっている。かれらはマルクスの時代にはまだ少数派であったが、マルクスは時代先取り的に商業賃金労働者の問題にも考察を進めていた。

一面から見れば、このような商業労働者も他の労働者と同じに賃金労働者である。第一には、労働が商人の可変資本によって買われ、収入として支出される貨幣によって買われるのでなく、したがってまた、個人的サービスのためにはなく、ただそれに前貸しされる資本の自己増殖という目的だけのために買われるというかぎりで、彼は賃金労働者である。第二には、彼の労働力の価値、したがって彼の労賃が、他のすべての賃金労働者の場合と同じように、彼の独自な労働力の生産・再生産費によって規定されていて、彼の労働の生産物によって規定されてはいないというかぎりで、彼は賃金労働者である。

 つまり、不払い剰余労働を強いられる点では、産業労働者と商業労働者の違いはない。とはいえ、両者の間には、産業資本と商業資本の構造的な相違に照応する相違点が存する。すなわち―

商人は単なる流通担当者としては価値も剰余価値も生産しないのだから・・・・・・・・・、商人によって同じ諸機能に使用される商業労働者も商人のために直接に剰余価値をつくりだすことはできないのである。

 この相違点は前回見た「商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにもかかわらず、(それが総資本の中に占める割合に比例して)剰余価値の平均利潤への平均化には参加する。」という定理に対応して、「労働者の不払労働が生産的資本のために直接に剰余価値をつくりだすのと同様に、商業賃金労働者の不払労働は商業資本のためにこの剰余価値の分けまえをつくりだす。」という形でまとめられる。その結果―

彼ら(商業労働者)のための出費は、労賃の形でなされるとはいえ、生産的労働の買入れに投ぜられる可変資本とは異なっている。それは、直接には剰余価値を増加させることなしに、産業資本家の出費、前貸しされるべき資本の量を増加させる。なぜならば、この出費によって支払われる労働は、ただすでに創造されている価値の実現に用いられるだけだからである。この種の出費がどれでもそうであるように、この出費も利潤率を低下させる。なぜならば、前貸資本は増大するのに剰余価値は増大しないからである。

 利潤率低下を避けるために、分業が進展する。また、マルクスも例に挙げているように、歩合制のような賃金形態が現われる。また現代的な非正規労働者への置換も類例である。結局のところ―

彼が資本家に費やさせるものと彼が資本家の手に入れてやるものとは、違った大きさになる。彼が資本家の手に入れてやるというのは、彼が直接に剰余価値を創造することによってではないが、彼が一部分は不払いの労働をするかぎりで、剰余価値を実現するための費用の節減を助けるからである。

 ここでマルクスは、剰余価値の創造に直接関与しない商業労働における搾取を費用節減という節約説に立って説明している。剰余価値の創造そのものである生産労働との構造的な相違点を踏まえてのことではあるが、説明の統一性を欠いていることは否めない。これは電気やガスのような無形的なサービスの生産に従事する現代的なサービス生産労働(商業的生産労働)の場合、説明に困難を生じさせることになるだろう。

本来の商業労働者は、賃金労働者は、賃金労働者の比較的高給な部類に属する。すなわち、その労働は技能労働であって平均労働の上にある賃金労働者の部類に属する。とはいえ、その賃金は、資本主義的生産様式が進むにつれ、平均労働に比べてさえも下がってくる傾向がある。

 このような矛盾現象の要因として、マルクスは事務所内分業と国民教育の普及による商業労働者の競争激化を挙げている。いずれも、現代資本主義において起きている現象である。

資本家は、より多くの価値と利潤とを実現することになれば、このような労働者の数をふやす。この労働の増加は、つねに剰余価値の増加の結果であって、けっしてその原因ではないのである。

 商業労働は技術的には高度な技能労働ではあるが、「労働といっても、価値の計算とかその実現とか実現された貨幣の生産手段への再転化とかに伴う媒介的操作でしかない労働、したがってすでに生産されていてこれから実現されるべき価値の大きさによってその規模が定まるような労働、このような労働が、直接に生産的な労働のようにこれらの価値のそれぞれの大きさや数量の原因として作用するのでなく、その結果として作用するということは、当然のことである」。これは、生産労働と商業労働の構造的な相違を、改めて原因と結果の観点から説明し直したものである。


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