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晩期資本論(連載第52回)

2015-07-01 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(4)

 マルクスは、前回取り上げた総論的考察に続き、利潤率の傾向的低下法則が内在矛盾的に資本主義を崩壊に導く要因を改めて「生産の拡大と価値増殖との衝突」と「人口の過剰に伴う資本の過剰」の二つに分けて具体的に考察している。このうち、前者は前回やそれ以前にも指摘されていたことの総括でもある。やや長いが、以下がそのまとめの叙述となる。なお、文中「生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段」とは、共産主義経済の特質を対照的に示唆している。

資本主義的生産の真の制約は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制約のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制約は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段―社会的生産力の無条件的発展―は、既存資本の増殖という制約された目的と絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。

 とはいえ、資本主義がこうした内在的矛盾を抱えながらも、崩壊することなく自己を保存していく可能性もまたあるのではないか―。マルクスはその疑問に対して、前回見た大衆の消費力の限界とともに「資本の過剰」(資本の過剰生産)という要因を提出する。

利潤率の低下につれて、労働の生産的充用のために個々の資本家の手になければならない資本の最小限は増大する。・・・・・・それと同時に集積も増大する。なぜならば、ある限界を越えれば、利潤率の低い大資本のほうが利潤率の高い小資本よりも急速に蓄積を進めるからである。この増大する蓄積は、それ自身また、ある高さに達すれば、利潤率の新たな低下をひき起こす。これによって、分散した小資本の大群は冒険の道に追い込まれる。投機、信用思惑、株式思惑、恐慌へと追いこまれる。

 こうした「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本―新たに形成される資本の若枝はつねにこれである―の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している」。無数の「新たに形成される資本の若枝」、すなわち新興小資本が分散する晩期資本主義では、こうした資本過多が最高点に達しているとも言える。

・・・労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、その人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば(相対的剰余労働時間の拡張は、労働にたいする需要が強くて賃金の上昇傾向が強いような場合にはどのみち不可能であろうが)、つまり、増大した資本が、増大する前と同じかまたはそれよりも少なく剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が生ずるわけであろう。

 これが資本の過剰である。結果、「・・・・・一般的利潤率のひどい突然の低下が起きるであろうが、しかし今度は、この低下をひき起こす資本構成の変動は、生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価値の増大(賃金の上昇による)と、これに対応する必要労働にたいする剰余労働の割合の減少とによるものであろう」。しかし、このような規定は、「人口の過剰に伴う」という与件と矛盾するのではなかろうか。

このような資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。労働の生産力を高くし、商品生産物の量をふやし、市場を拡大し、資本の蓄積を量から見ても価値から見ても促進し、利潤率を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、また絶えず生みだしているのであって、この労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、または少なくとも与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。

 つまり、ここで言う人口過剰というのは、あくまでも「相対的」な過剰であり、一方の資本の過剰のほうは「絶対的」であるから、要するに人口の相対的過剰と資本の絶対的過剰の組み合わせである。言い換えれば―

人口中の労働能力のある部分を就業させるには多すぎる生産手段が生産されるのではない。逆である。第一には、人口中の大きすぎる部分が事実上労働能力のない部分として生産されるのであって、この部分は、その境遇のために他人の労働の搾取に依存するか、またはあるみじめな生産様式のなかでしか労働として通用しないような労働に依存するよりほかはないのである。第二には、労働能力人口の全体が最も生産的な事情のもとで労働するには、つまり労働時間中に充用される不変資本の量と効果とによって彼らの絶対的労働時間が短縮されるには、十分でない生産手段が生産されるのである。

 それにしても、この状態からいかにして資本主義は崩壊へと向かうのか。これについて、マルクスが特に注視するのは、「資本の遊休化」という現象である。この現象は、最初は資本間の熾烈な競争、それも損失の押し付け合いという消極的な競争をひき起こす。しかし、問題はそうした資本間の内戦的衝突からの回復過程にこそある。

・・とにかく均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復するであろう。この遊休や破滅はある程度までは資本の物質的な実体にも及ぶであろう。すなわち、生産手段の一部分は、固定資本であろうと流動資本であろうと、機能しなくなり、資本として作用しなくなるであろう。すでに開始された生産経営の一部分も休止されるであろう。この面から見れば、時間はすべての生産手段(土地を除いて)を侵して悪くするのではあるが、この場合には機能の停止のためにもっとずっとひどく生産手段の現実の破壊が起きるであろう。

 均衡の回復過程でも資本の遊休、破壊に見舞われる―。そうした悪循環サイクルを繰り返していく過程で、資本主義経済は次第にその体力を弱めていくことになる。晩期資本主義において、こうした資本の過剰生産がどの程度生じているかについては、慎重な検証を要するが、生産力のグローバルな拡大と失業者の増大が共存する世界経済の状況を見ると、資本の過剰化の過程にあると言えるのではないか。破局を回避する手段は、労働者数の削減と生産性の引き上げであるが―

労働者の絶対数を減らすような、すなわち、国民全体にとってその総生産をよりわずかな時間部分で行なうことを実際に可能とするような生産力の発展は、革命をひき起こすであろう。なぜならば、それは人口の多数を無用にしてしまうだろうからである。

☆小括☆
以上、十一では『資本論』第三巻第三篇「利潤率の傾向的低下の法則」に沿って、マルクス理論において資本主義の崩壊を導くとされる一般法則を見た。この箇所は従来、恐慌原因論と結びつけて論じられることが多かったが、ここでのマルクス自身は恐慌を主題として論じているわけではないので、恐慌論については割愛した。


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