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晩期資本論(連載第56回)

2015-07-28 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(4)

 第二巻では、資本の回転が主要なテーマとして扱われていたが、そこでは主として産業資本のことが念頭に置かれていた。第三巻のマルクスは産業資本と商業資本の構造的な相違を踏まえて、改めて商業資本の回転について取り上げている。

産業資本の回転は、その生産期間と流通期間との統一であり、したがって全生産過程を包括している。これに反して、商人資本の回転は、事実上商品資本の運動が独立したものでしかないのだから、ただ、商品変態の第一段階W―Gを一つの特殊な資本の自己還流運動として表わしているだけである。

 簡単に言えば、「商人は、まず買い、自分の貨幣を商品に転化させ、次に売り、同じ商品を再び貨幣に転化させる。そしてこの同じことを絶えず繰り返す」。より詳しく商業資本の回転の特徴を見ると、次のようである。

商人の利潤は、彼が回転させる商品資本の量によってではなく、この回転の媒介のために彼が前貸しする貨幣資本の大きさによって規定されている。

 「商人資本は利潤または剰余価値の創造に直接に協力するのではなく、ただ、自分が総資本のなかで占める割合に応じて、産業資本が生産した利潤量から自分の配当を引きだすかぎりで、一般的利潤率の形成に規定的に参加するだけである」からして、常に所与の一般的利潤率のなかで利潤を上げることになる。
 従って、「商業部門の相違による回転期間の相違は、一定の商品資本の一回転であげられる利潤がこの商品資本を回転させる貨幣資本の回転数に反比例するということに現われる。少ない利潤で速い回収〔small profits and quick returns〕、これはことに小売商人にとっては彼が主義として守る原則として現われるのである

・・いろいろな商業部門での商人資本の回転数は、諸商品の商業価格に直接に影響する。

 その結果、「商業価格への商人資本の回転の影響が示す諸現象は、・・・・・・・・価格のまったく勝手な規定を、すなわち資本が一年間に一定量の利潤を上げようと決心するというただそれだけのことによる価格の規定を前提するように見える。ことに、こういう回転の影響によって、まるで流通過程そのものが、ある限界のなかでは生産過程にかかわりなしに、商品の価格を規定するかのように見える」という現象を生ずることにもなる。
 もちろん、このような価格の恣意的決定性は表面的なものにすぎず、生産過程への依存性を否定できないのではあるが、発達した資本主義のもとでの商業資本は貨幣資本を通じた市場支配力と独立性を有している。

・・・・・商人資本は、第一に、生産的資本のために段階W―Gを短縮する。第二に、近代的信用制度のもとでは、商人資本は社会の総貨幣資本の一大部分を支配しており、したがって、すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買入れを繰り返すことができる。

 いわゆる在庫をもって販売行為を繰り返すのは、商業資本の常道である。こうした無制限的な回転が可能となるのも、商業資本が独立しているせいである。それにより、恐慌の要因ともなるような「ある仮想的な需要がつくりだされる」。

・・・・その独立性のおかげで、商人資本はある範囲内では再生産過程の限界にはかかわりなく運動するのであり、したがってまた再生産過程をその限界を越えてまでも推進するのである。内的な依存性、外的な独立性は、商人資本を追い立てて、内的な関連が暴力的に、恐慌によって回復されるような点まで行かせるのである。
 それだからこそ、恐慌がまず出現し爆発するのは、直接的消費に関係する小売業ではなく、卸売業やそれに社会の貨幣資本を用立てる銀行業の部面だという恐慌現象が生ずるのである。

 銀行のような金融資本の問題は後に詳論されるが、独立性の強さという点ではすぐれて商業資本的な卸売業や銀行業の部面が恐慌の導火線となるという現代資本主義にも通ずる法則がここで提示されている。

☆小括☆
以上、十二では『資本論』第三巻第四篇のうち、第十六章「商品取引資本」、第十七章「商業利潤」、第十八章「商人資本の回転 価格」までを参照しつつ、商業資本と商業利潤の構造的な特徴を見た。ただし、第十九章「貨幣取引資本」は、現代では銀行業の一機能として吸収されていることから、続いて金融資本を扱う十三の導入部に組み入れることにする。


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