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晩期資本論(連載第53回)

2015-07-14 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(1)

 『資本論』前半の叙述では、主として製造業を想定した産業資本を念頭に置いた議論が展開されていた。しかし『資本論』冒頭の一句にあったように、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。」のであった。とすると、資本主義経済にあって商業資本は欠かせない要素のはずである。『資本論』後半では、こうした商業資本の特徴とそれに特有の利潤構造が分析される。

商人資本または商業資本は、商品取引資本と貨幣取引資本という二つの形態または亜種に分かれる。この二つのものを、資本の核心的構造の分析に必要なかぎりで、これからもう少し詳しく特徴づけるとしよう。しかも、そうすることがますます必要だというのは、近代経済学が、その最良の代表者たちにあってさえも、商業資本を直接に産業資本と混同していて、商業資本を特徴づける特性を事実上まったく見落としているからである。

 この口上でマルクスが挙げている二つの商業資本形態の形態はそれぞれ小売商と銀行を想定すればよいが、さしあたりは、前者の商品取引資本が考察の対象となる。後半で述べられている近代経済学における混同は、現代ではむしろ「脱工業化」「情報化」等の標語により、依然として経済の土台である産業資本の存在意義を軽視し、かえって「産業資本を直接に商業資本と混同」する傾向に転化していると言える。

・・・社会の総資本を見れば、その一部分は、・・・・・・・いつでも商品として市場にあって貨幣に移行しようとしている。また、他の一部分は貨幣として市場にあって商品に移行しようとしている。それは、絶えずこの移行運動をしており、絶えずこの形態的な変態をしている。流通過程にある資本のこの機能が一般に特殊な資本の特殊な機能として独立化され、分業によって一つの特別な種類の資本家に割り当てられた機能として固定するかぎりで、商品資本は商品取引資本または商業資本となるのである。

 まとめれば、「・・・商品取引資本は、この絶えず市場にあり変態の過程にあってつねに流通部面に包み込まれている流通資本の一部分が転化した形態にほかならないのである」。だとすると―

・・・流通過程では価値は、したがってまた剰余価値も、生産されはしない。ただ同じ価値量の形態変化が行なわれるだけである。じっさい、商品の変態のほかにはなにも行なわれないのであり、この変態そのものは価値創造や価値変化とはなんの関係もないのである。

 すなわち、「商品資本は価値も剰余価値も創造しない」。商業資本の特性とは、このような消極的な点にこそある。実際、例えば小売商は生産者の生産した商品を消費者に売るだけで、自らは生産しないのであるから、これはごく当然のことである。しかし商業資本は単に商品を右から左へ流しているだけではない。

商人資本が流通期間の短縮に役だつかぎりでは、それは、間接には、産業資本家の生産する剰余価値を殖やすことを助けることができる。商人資本が市場の拡張を助け資本家たちのあいだの分業を媒介し、したがって資本がより大きな規模で仕事をすることを可能にするかぎりでは、その機能は産業資本の生産性とその蓄積とを促進する。商人資本が流通期間を短縮するかぎりでは、それは前貸資本にたいする剰余価値の割合、つまり利潤率を高くする。商人資本が資本のよりわずかな部分を貨幣資本として流通部面に閉じ込めておくかぎりでは、それは、資本のうちの直接に生産に充用される部分を増大させる。

 現代資本主義ではこうした媒介・促進的意義を担う商業資本が隆盛であり、しばしば産業資本をしのぐ規模にまで発達しているために、「脱工業化」などと誇張されるが、商業資本は産業資本に対しては不可欠だが補助的な役割を果たしているにすぎず、自動車(新車)のように産業資本が自ら販売部門を擁して商業資本を兼併する形態もなお残されている。

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