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晩期資本論(連載第27回)

2015-02-10 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(2)

これまでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるのかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるかを考察しなけければならない。剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。

 前回見た単純再生産はすべての経済社会が持続していくうえでの必須条件であり、資本主義社会の場合、それは剰余価値の生産過程として現れるが、資本主義社会の特質は、それだけでなく、剰余価値がさらに資本に転化されることで、鼠算的な資本の増殖・蓄積がなされていくことである。マルクスは、その資本蓄積過程について、次のような簡単な紡績業の具体例をもって説明する。

たとえばある紡績業者が一万ポンド・スターリングの資本を、その五分の四は綿花や機械などに、残りの五分の一は労賃に、前貸ししたとしよう。彼は一年間に一万二千ポンド・スターリングの価値ある二十四万重量ポンドの糸を生産するものとしよう。剰余価値率を100パーセントとすれば、剰余価値は、総生産物の六分の一に当たる四万重量ポンドの糸という剰余生産物または純生産物のうちに含まれており、この生産物は販売によって実現されるはずの二千ポンド・スターリングという価値を持っている。

そこで、新しく加わった二千ポンドという金額を資本に転化させるために、他の事情がすべて不変ならば、紡績業者はこの金額の五分の四を綿花などの買い入れに、五分の一を新たな紡績労働者の買い入れに前貸しするであろう。そして、これらの労働者は、紡績業者が彼らに前貸ししただけの価値をもつ生活手段を市場でみいだすであろう。次に、この新たな二千ポンドの資本が紡績業で機能し、それはまた四百ポンドの剰余価値をうみだすのである。

 上例の流れを、マルクスは次のように一般化して説明し直している。

蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化させなければならない。だが、奇跡でも行なわないかぎり、人が資本に転化させうるものは、ただ、労働過程で使用できる物、すなわち生産手段と、そのほかには、労働者の生活維持に役だちうる物、すなわち生活手段とだけである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸し資本の補填に必要だった量を越える追加生産手段と追加生活手段との生産にあてられていなければならない。ひとことで言えば、剰余価値が資本に転化できるのは、それをになう剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからにほかならないのである

次にこれらの成分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加を必要とする。すでに使用されている労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大しないようにするとすれば、追加労働力を買い入れなければならない。そのためにも資本主義的生産の機構はすぐまにあうようになっている。というのは、この機構は労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金はこの階級の維持だけではなくその増殖をも保証するに足りるからである。

 上記の記述中、「すでに使用されている労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大しないようにするとすれば」という仮定は最も楽観的なものであって、実際上資本家は労働者の搾取を少なくとも内包的には増大させるべく努め、その分追加労働力の買い入れを極力絞り込もうとする。マルクスの具体例はわかりやすくするため、剰余価値率100パーセントというそれ以上の搾取を必要としない率に設定しているが、実際のところ労働基準法の縛りなどから剰余価値率100パーセントの達成は困難である。
 一方で、追加労働力の買い入れを第三者企業(派遣会社)に委託することで、蓄積を増やそうとする非正規労働力への置換戦略は賃金水準の低下をもたらし、労働者階級の増殖を保証できなくさせ、将来の労働力人口の激減を予測させるものとなっている。そのことは、資本主義経済の本質である資本蓄積にも打撃を与える結果となる。

生産の流れのなかでは、およそすべての最初に前貸しされた資本は、直接に蓄積された資本に比べれば、すなわち、それを蓄積した人の手のなかで機能しようと、他の人々の手のなかで機能しようと、とにかく資本に再転化した剰余価値または剰余生産物に比べれば、消えてなくなりそうな大きさ(数学的意味での無限小〔magnitudo evanescens〕)になる。

 つまり、マルクスが前例を使って言い直しているところによれば、「最初の一万ポンドの資本は二千ポンドの剰余価値を生み、それが資本化される。新たな二千ポンドの資本は四百ポンドの剰余価値を生む。それがまた資本化されて、つまり第二の追加資本に転化されて、新たな剰余価値八十ポンドを生み、また同じことが繰り返される」。
 厳密には一致しないが、株式会社企業の資本金に相当するものをいちおう原資の前貸し資本とみなせば、この拡大的な蓄積の理はよく理解できるであろう。

・・・資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである。

 資本主義を特徴づける螺旋拡大的な蓄積は、単に貨幣蓄蔵者のような貪欲さから生じるのではなく、競争が資本家に法則的に強制するものだという。すなわち「貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現れるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである」。この意味において、マルクスは資本家を「人格化された資本」と呼ぶ。
 このように資本主義的蓄積を一つの社会的機構の作用として把握するシステム論的な視座は、続く第二巻、第三巻でより分析的に展開されていくだろう。

蓄積のための蓄積、生産のための生産、この定式のなかに古典派経済学はブルジョワ時代の歴史的使命を言い表した。

 強制法則として押し付けられる資本蓄積とは、蓄積自体が自己目的と化した蓄積である。「古典派経済学にとっては、プロレタリアはただ剰余価値を生産するための機械として認められるだけだとすれば、資本家もまたただこの剰余価値を剰余資本に転化するための機械として認められるだけである」。現在でも支配的な古典派経済学はこうした機械論的発想をいっそう進め、資本主義の機構的な仕組みを地球規模で強化しようとしている。

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