ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第30回)

2015-02-25 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(5)

相対的過剰人口がときには恐慌期に急性的に現われ、ときには不況期に慢性的に現れるというように、産業循環の局面転換によってそれに押印される大きな周期的に繰り返し現われる諸形態を別とすれば、それにはつねに三つの形態がある。流動的、潜在的、滞留的形態がそれである。

 マルクスは、相対的過剰人口について、かなり詳細な類型化を試みている。それによると、相対的過剰人口はまず大きく、恐慌や不況期の大量解雇を契機に発生する非常時相対的過剰人口と、好況期も含めて常に存在する常時相対的過剰人口とに分かれ、後者がさらに流動的、潜在的、滞留的の三種に分かれる。

近代産業の中心―工場やマニュファクチュアや精錬所、鉱山など―では、労働者はときにははじき出され、ときにはいっそう大量に再び引き寄せられて、生産規模にたいする割合では絶えず減っていきながらも、だいたいにおいて就業者の数は増加する。この場合には過剰人口は流動的な形態で存在する。

 これは主として製造業分野の相対的過剰人口であり、最も中核的なプロレタリアートに属するが、この分野では、「資本による労働力の消費は非常に激しいので、中年の労働者はたいていすでに多かれ少なかれ老朽してしまっている。彼は過剰人口の隊列に落ちこむか、またはより高い等級からより低い等級に追い落とされる」。
 ただし、晩期資本主義では工場のオートメーション化の進展及び産業構造の転換に伴い、こうした第一次産業分野の労働者の過剰人口の流動性は低下している。

資本主義的生産が農業を占領するやいなや、または占領する程度に応じて、農業で機能する資本が蓄積されるにつれて、農村労働者人口にたいする需要は絶対的に減少するのであるが、ここでは、農業以外の産業の場合とは違って、労働者人口の排出がそれよりも大きな吸引によって埋め合わされることはないであろう。それゆえ、農村人口の一部分は絶えず都市プロレタリアートまたはマニュファクチュア・プロレタリアートに移行しようとしていて、この転化に有利な事情を待ちかまえているのである。

 これが二番目の潜在的相対的過剰人口に相当する。実のところ、資本主義的生産が農業を占領するという現象は、晩期資本主義に至ってもさほど顕著には生じていないため、まさにこれは「潜在的」な存在である。
 とはいえ、発達した資本主義社会では家族農業の衰退の中で、農村人口の都市プロレタリアートやマニュファクチュア・プロレタリアートへの移行はすでに大規模に生じており、この部分はすでに第一の流動的過剰人口もしくは第三の滞留的過剰人口に吸収されていると言えるだろう。

相対的過剰人口の第三の部類、滞留的過剰人口は、現役労働者軍の一部をなしているが、その就業はまったく不規則である。したがって、それは、自由に利用できる労働力の尽きることのない貯水池を資本に提供している。その生活状態は労働者階級の平均水準よりも低く、そして、まさにこのことがそれを資本の固有な搾取部門の広大な基礎にするのである。

 「蓄積の範囲とエネルギーとともに「過剰化」が進むにつれて、この(滞留的)過剰人口の範囲も拡大される」。まさに蓄積の範囲とエネルギーがグローバルに拡大した現在、非正規労働力の拡大という形でこの滞留的過剰人口がまさに巨大な「貯水池」として広がってきている。
 特に産業構造の転換に伴い、第三次産業の層が増した晩期資本主義では、商業プロレタリアートの滞留的過剰化が顕著に進んでいる。この点、商業資本の構造が取り上げられる第三巻最終篇に至って、「本来の商業労働者は、賃金労働者の比較的高給な部類に属する」にもかかわらず、「国民教育の普及は、この種の労働者を以前はそれから除外されていたもっと劣悪な生活様式に慣れていた諸階級から補充することを可能にする」ため、競争が増し、「彼らの労働能力は上がるのに、彼らの賃金は下がる」という矛盾が指摘されている。
 この滞留的過剰人口にあっては、「出生数と死亡数だけではなく、家族の絶対的な大きさも、労賃の高さに、すなわちいろいろな労働者部類が処分しうる生活手段の量に、反比例する」。すなわちどれほど働いても低賃金を抜け出せないワーキングプアの構造である。マルクスは、「このような資本主義社会の法則は、未開人のあいだでは、または文明化した植民地人のあいだでさえも、不合理に聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱くて迫害を受けることの多い動物種族の大量的再生産を思い出させる。」と書きつけている。
 教育の普及という文明化が商業労働力の価値低下につながるという上述の矛盾とともに、資本主義的「文明」は人間的な生活維持にとって実は不合理であるという文明的矛盾が鋭く突かれている。

最後に、相対的過剰人口のいちばん底の沈殿物が住んでいるのは、受救貧民の領域である。野宿者や犯罪者や売春婦など、簡単に言えば本来のルンペンプロレタリアートを別にすれば、この社会層は三つの部類から成っている。

 相対的過剰人口のさらに下層に位置するのが、この受救貧民層であり、それもルンペンプロレタリアートとして分離され得る最底辺層と本来的な三種の受救貧民層とに大別される。三種の第一は労働能力のある者、第二は孤児や貧児、第三は堕落した者、零落した者、労働能力のない者である。
 こうした「受救貧民は相対的過剰人口とともに富の資本主義的な生産および発展の一つの存在条件になっている。この貧民は資本主義的生産の空費〔faux frais〕に属するが、しかし、資本はこの空費の大部分を自分の肩から労働者階級や下層中間階級の肩に転嫁することを心得ているのである」。
 資本主義諸国が何らかの形で備えている生活保護制度がこうした「転嫁」の典型的なものであるが、その財源は労働者階級や下層中間階級にとっては負担の軽くない租税によっている。とりわけ、消費税は労働者階級の生活手段への課税という性格が強い。

・・・(産業)予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般法則である

 マルクスは、資本主義的蓄積の法則について、こう総括している。近年の日本における生活保護世帯の急増も、この「蓄積法則」によってかなりの程度説明がつく。

最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストスのくさびがプロメテウスを釘づけにしたよりもっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。

 マルクスはこう述べて、こうした背反的な傾向性を「資本主義的蓄積の敵対的な性格」と表現している。ここでまたしても、彼は資本家階級と労働者階級の対立の必然性という政治学的なモチーフを滲ませている。
 実際、資本の蓄積と貧困の蓄積が同伴必然的なならば、貧困を撲滅するには資本蓄積を廃絶しなければならないはずであるが、それは資本主義の死を意味している。そこから、資本主義を残しつつ、貧困を撲滅しようという“人道主義”の無効性が認識されるのである。

コメント