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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(13)

2015-02-08 | 〆リベラリストとの対話

11:環境計画経済について④

リベラリスト:あなたは『共産論』の中で、「消費生活の豊かさは、資本主義が最も華々しい勝利を収めたフィールドであった」と指摘しています。たしかに、消費を計画経済によって適切に規律することは困難であり、消費(広くは流通)を自由市場に委ねる資本主義の優位性は否定できないように思われます。

コミュニスト:消費を自由市場に委ねると言われますが、実際のところ、消費を誘引する需要は生産企業によって作り出され、操作されています。ですから、資本主義の場合も、統一的な計画こそ存在しないとはいえ、個別資本のマーケティングに基づく経営計画によって消費はコントロールされているのです。資本主義的な消費者とは、まるで口を開けて親鳥の給餌を待つ雛鳥のようなものです。

リベラリスト:でも、あなたも認めているように、資本主義はそういう「給餌」のシステムをしっかりと構築できたからこそ、今や労働者層からも受容されているのではないでしょうか。少なくとも、社会主義時代の旧ソ連・東欧の風物詩だった物不足、商店前での大行列を望む人はいないでしょう。

コミュニスト:たしかに、必需品の物不足は困りますが、必要のない有益品や贅沢品の物不足で困る人はいないでしょう。資本主義で平常時に物不足が生じることはまずありませんが、それは有益品や贅沢品まで含めた物全般の過剰生産のゆえです。つまり、物不足ならぬ物余りです。その非効率性と廃棄物による環境負荷は許容限度を越えています。

リベラリスト:しかし、現在の計量経済技術では、需要を的確に予測して、過不足なく生産するシステムを構築することはほぼ不可能ですから、「消費計画」は机上論だと思います。

コミュニスト:そうでしょうか。現在でもどのような物がどのくらい消費されるかは各業界である程度把握できており、データはあるはずです。また、私の提案にかかる環境計画経済における地方的な消費計画には消費者も参加し、また恒常的にモニタリングもするので、消費者と生産者の間での双方向的なコミュニケーションが行われ、消費者が何をどれだけ望んでいるかが可視化されます。決して、一方通行の机上的計画ではないのです。

リベラリスト:あなたの提案では、生産と消費を分離し、生産は中央計画ですが、消費は地方ごとに分権化してしまうのでしたね。しかし、生産と消費は一体のもので、両者を分離することは、先のような生産者・消費者の双方向性に矛盾するのではないですか。

コミュニスト:消費とは、本質的に地方的なものですから、消費の中央計画はそれこそ混乱のもとです。一方、中央計画の対象範囲は、環境負荷的な基幹産業ですから、生活必需品の生産にかかる産業分野は含まれません。ただ、地方の消費計画機関―消費事業組合―も中央の共同計画にオブザーバー参加し、消費の側から意見することができる仕組みにしますから、生産と消費が乖離する心配はないと思います。

リベラリスト:消費計画機関とされる「消費事業組合」なるものも、私には今一つイメージが湧かないのですが、それは日本の生協組織のようなものですか。

コミュニスト:外観的なイメージとしては、そのとおりです。しかし、内実は生協とは異なり、消費事業組合は地方圏が運営し、各地方圏住民(例えば近畿消費事業組合であれば近畿地方圏の住民、アメリカなら今日の州のレベルの住民)を自動的加入の組合員とする特殊な公的事業体であり、同時にそれ自身が消費計画機関でもあります。

リベラリスト:そう言われても、アメリカ人にはなかなかピンと来ませんがね。少なくとも、世界一自由な消費人であるアメリカ人の心をとらえるかどうかは疑問です。

コミュニスト:たしかに、アメリカ型消費モデルとは対極にある消費モデルでしょう。しかし、アメリカ型消費モデルの環境負荷性は、アメリカ人自身も気がつき始めていると思います。中国やインドがアメリカ型消費モデルに完全移行する前に、何とか共産主義的変革をしないと、地球の損傷は致命的なものとなりかねません。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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