ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第56回)

2013-02-07 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」

内戦・干渉戦の勃発
 選挙によって招集された制憲会議を巧妙な手段で転覆し、クーデターに成功したレーニンは、意外なところでやがて自らの命をも縮める代償を支払わされることになった。
 問題の発端は、レーニンがクーデターの過程で政権に抱き込んだ左翼エス・エルにあった。元来、土地政策に大きな違いのあるエス・エルとの連立は党略的な手段であったから、長続きするはずもなかったのであるが、閣内対立の原因は土地問題ではなく、ドイツとの講和条件をめぐるものであった。
 レーニン政権が10月革命直後に発した「平和に関する布告」で打ち出した無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時講和という立場に反して、ロシアにとって極めて不利な併合条件を甘受するブレスト・リトフスク条約をもってドイツとの単独講和に踏み切ったことは、ボリシェヴィキの一部とともに、戦争を継続してドイツをはじめ当事国における革命につなげようという「革命戦争」を主張していた左翼エス・エルを憤激させた。結局、同党は1918年3月の第四回全ロシア・ソヴィエト大会が前記条約を批准するや、連立を離脱していったのである。
 対立はしかし、これだけでは終わらなかった。モスクワに首都を移転したレーニン政権が5月、農民に一定量を残して収穫した穀物の全量供出を義務づける「食糧独裁令」を発し、労働者で組織する「食糧徴発隊」を農村に差し向けて徴発に当たらせるという農民収奪政策に走ると、左翼エス・エルは7月初め、ドイツ大使を暗殺したうえで、武装反乱を起こした。
 この反乱自体は直ちに鎮圧されたが、レーニン政権が報復措置として左翼エス・エルのソヴィエト代議員を逮捕し、非合法化に踏み切ると、同党は地下に潜伏し、テロ活動に入っていく。元来、エス・エルはレーニンの兄アレクサンドルが加入していた「人民の意志」以来、テロ戦術では数々の“実績”を持っていた。その矛先が今度はレーニンに向かう番であった。
 8月30日、モスクワの旧工場で演説を終えて車に乗り込もうとしたレーニンをエス・エルの女性テロリストが銃撃した。二か所に重傷を負ったレーニンは一命を取りとめたものの、一時は重体に陥った。
 こうした左翼エス・エルの動きとほぼ並行して、5月末からは大戦中のロシア側が捕虜としたオーストリア軍中のチェコスロバキア人軍団(チェコ軍団)がシベリア鉄道沿線で反乱を起こし始めた。彼らは元来対独戦に投入する目的で帝政ロシア軍の独立軍団として編入されていたところ、先のドイツとの単独講和後、チェコスロバキア独立のためシベリア経由で西部戦線へ移送される途中で反乱を起こしたのである。この外国人軍団の反乱が内戦の引き金を引く。
 まずエス・エル残党が各地でチェコ軍団に合流したのに続いて、しばらく鳴りを潜めていた反革命勢力も次々と蜂起して西シベリア、ウラル、ヴォルガなどロシア東部を占領していき、各地にこれら反革命白衛軍の地方軍閥政権が樹立されて本格的な内戦に突入する。
 一方、当初は事態を静観しているかに見えた連合国は18年3月に英国軍がヨーロッパ‐ロシアの北岸ムルマンスクに上陸したのに続いて、4月以降は日本軍や米国軍がシベリアへ侵攻し、最終的には16か国が先のチェコ軍団の救出を口実に白衛軍を支援する干渉戦に乗り出した。日露戦争に際しては帝政ロシアを撃破し第一次革命のきっかけを作ってレーニンに称賛された日本軍は、最も遅く22年10月に至るまで東シベリアを占領し続けた。
 レーニンはこうした事態を「帝国主義世界総体の攻撃」と規定しつつ、労働者・農民と資本家の「最後の決戦」と大衆を煽った。このようにして、ロシアは大戦から一転、今度は大規模な内戦・干渉戦へ引きずり込まれていくのである。


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