ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第66回)

2013-04-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー

予定された敗者
 スターリンのライバル・トロツキーは10月革命時にはペトログラード・ソヴィエト議長として軍事革命委員会を率いて武装蜂起を指揮した立役者であった。この時レーニンはまだ臨時政府から追われ地下潜伏中の身であり、前面に出られなかったことから、10月革命の実戦面での功績はトロツキーにあったと言って過言でない。
 そして、レーニン最晩年にはトロツキーは後継候補に浮上したうえ、レーニンがスターリンと衝突してその解任を検討するに至って、最有力後継候補となったはずであった。にもかかわらず、結果として彼はスターリンの巻き返しに遭って、言わば逆転負けを喫してしまった。それも生命を奪われるような形で。
 何よりもまず彼はナロードニキ→メンシェヴィキ→調停派→ボリシェヴィキと渡り歩いた革命的渡り鳥であった。そのうえボリシェヴィキ入党は第二次革命渦中の1917年のことにすぎなかった。この点で、スターリンが初めからボリシェヴィキで一貫していたことと比べ、党歴に弱みがあった。
 また性格の点でも、レーニンから指摘されたように、トロツキーには自己過信の強い自惚れ屋の一面があった。このような性格は当然、同志たちから好かれず、党内で多数派を形成することに失敗する要因ともなった。
 さらに理論面でも、彼の長期的スパンを伴う世界革命論にはどこかメンシェシェヴィキ的な革命待機論の響きが感じられ、単純明快なスターリンの一国社会主義論と比べて魅力に欠けたのであった。とりわけ早く新しい革命事業をやりたがっていた若手党官僚たちにとってはそうであった。
 最後に、あまり言われないことではあるが、トロツキーのユダヤ系富農という出自も看過できないマイナス要素であったろう。元来、ボリシェヴィキは母方から一部ユダヤ系の血を引くレーニン自身を含め、多くのユダヤ系党員を擁していたから、党内的にはユダヤ系出自は直接に問題視されることはなかったが、ロシア社会全般ではユダヤ人差別の存在は覆うべくもなかった。
 実際、第二次革命とその後の内戦期にも動乱に便乗したユダヤ人に対する集団暴行・虐殺事件(ポグロム)が頻発していた。こういう状況では、ユダヤ人がロシアを中核とするソ連の指導者となることにはロシア人の反感が予想された。それに加えて、富農はボリシェヴィキにとって打倒対象であるはずであった。
 こうしてトロツキーは24年のレーニンの死の直後から坂道を転げ落ちるようにして失墜させられていく。まず25年に陸海軍人民委員(国防相)を解任されたのを皮切りに、27年の党大会で党・政府の全役職を奪われたうえ、29年には国外追放の身となり、流浪の末最終的にメキシコまで流れていかなければならなかった。それでも敵の魔手を逃れることはできず、40年、ついにメキシコで暗殺されてしまうのである。


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