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マルクス/レーニン小伝(連載第67回)

2013-04-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー(続き)

トロツキー幻想
 トロツキーは本来、スターリンなどよりはるかに傑出した10月革命の元勲でありながら、スターリンによって排除され非業の死を遂げたため、死後多くの崇拝者を出した。かれらはトロツキストと呼ばれるマルクス主義の一派を成して今日でも活動を続けている。
 レーニンがスターリン以降のソ連体制によって神格化されたとすれば、トロツキーは反スターリン主義者によって聖人化されてきたと言える。しかし、レーニンともスターリンとも違うとされるトロツキーの理論的独自性については、しばしば過大評価がつきまとってきた。
 彼を最も有名にした永続革命論(一段階革命論)はレーニンの即時武装蜂起の意思決定にも示唆を与えたことが知られるが、トロツキー理論のもう一つの支柱である世界革命論について言えば、「プロレタリアートによる革命の輸出」というテーゼ自体はレーニンが一国社会主義論を打ち出した前出論文の中でも示唆していたことである。 
 ただし、レーニンの場合はトロツキーのように世界革命―さしあたりは西欧諸国での革命―をソ連における社会主義建設の条件とまでは考えていなかった点で、トロツキーはマルクスとエンゲルスがかつて『ドイツ・イデオロギー』で打ち出したテーゼ「共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能」に立ち戻っているようにも見える。
 しかし、スターリンの一国社会主義論の下で、ソ連の工業化と経済成長がかなりの程度達成されたことで、永続革命論・世界革命論の意義は失効してしまった。
 もっとも、トロツキーのように、10月革命はスターリンによって「裏切られた」と解釈し、スターリン流社会主義を偽りの“社会主義”とみなすならば、トロツキーの所論はなお失効していないことになるが、それではトロツキーの社会主義認識とはいかほどのものであったのだろうか。
 この点、トロツキーの農民強制論、すなわち「プロレタリアートは農民を強制して社会主義の建設を急がねばならない」というテーゼは、要するにネップのように農民のブルジョワ的願望を満たす慰撫政策に異を立てたもので、同じことを農業集団化によって大々的に実行したのがスターリンであったとも言える。
 その意味で、農民強制論はスターリンでも支持できるようなテーゼである。富農出身であったトロツキーは、農民は本質的に動揺階級であって、革命的闘争にも反動的闘争にも参加する信用のおけない階級とみなしていたが、このような農民観もスターリンと共有できるものであっただろう。
 しかしその一方で、トロツキーはネップ期の経済体制については、諸産業が労働者国家の手中にある限り「資本主義はその形式を残していても客体としては存在しない」という論理で、これを擁護する矛盾した主張もしている。このような理解はネップの発案者であったレーニン自身がより率直にネップの本質を「国家資本主義」と認めていたことと対比しても妥協的・後退的な理解と言わざるを得ない。
 トロツキーがレーニン以上に民主主義的であると評されるのが党官僚制に対抗する党機関の下部服従論である。たしかに彼は言葉の上ではレーニン以上に党官僚制に対して否定的であった。
 しかしそのトロツキーが一方では人間を本質上怠惰な動物とみなし、資本主義を社会主義で置き換えるには、政府による強制と労働の軍隊化が不可欠であるとして、労働組合の国家管理を提起したのである。
 この考えは労働組合を党官僚制への対抗力と考えていたレーニンによって強く批判され、一時トロツキーを警戒したレーニンをしてスターリンにトロツキーへの対抗を準備させるまでになった。スターリンはこのことを後々まで記憶していたに違いない。
 もっとも、労働組合はスターリン時代を通じて、レーニンの要望よりもまさにトロツキー提案に沿う形で完全な国家管理下に置かれてしまうのであるから、この点でのトロツキーとスターリンの距離は遠くない。
 ちなみに「労働の軍隊化」といったテーゼからも、トロツキーにはスターリンと同様、軍隊的組織への傾倒が看て取れる。彼が10月革命時の軍事指揮で活躍し、革命後は赤軍(ソ連軍の前身)の創設者となったのも、決して偶然とは言えない。
 労働者をサボタージュ分子、農民を動揺分子と見下していた彼は、レーニン以上にエリート主義的な観点を持つがゆえに、スターリンとともに軍隊的規律強制に積極的なのである。
 こうしてみてくると、トロツキーはレーニンよりも宿敵スターリンとの間に意外な共通点を共有しつつ、レーニンとスターリンの間を天翔るような偉大な亜流派であったと理解できるのではなかろうか。
 実際的な面からしても、仮にトロツキーがスターリンを抑えてレーニンの後継者に就いていたとして、決して成功はしなかっただろう。最晩年の論文でレーニンはトロツキーの自己過信とともに行政的な側面への過剰な没入に苦言を呈していたが、実際のところ、トロツキーの行政的手腕には疑問符が付く。そのことは外務人民委員(外相)時代に担当した戦争終結を巡る外交交渉の結果にも表れている。
 当時、彼はレーニンの単独講和論にもそれに反対する革命戦争論(戦争継続論)にも与さず、「抗戦も講和もしない」との中間的な立場をとり、結局交渉では成果を上げないままロシアに不利な条件での単独講和を甘受せざるを得なかったのである。
 このようなトロツキー流の中間的な立場は彼がまだ調停派であった頃からのものである。彼は当時、その煮え切らない態度をレーニンから「彼はどんな見解も持たない・・・・・低級な外交家だ」と痛罵されたことがあった。トロツキーはずっと後に調停派時代の自らの態度を自己批判したが、その本性は終生変わらなかったようである。もっとも、こうした中間的な立場はトロツキーの分析的な性向に由来するものと言えなくもない。 
 結局、トロツキーはいくぶん学究肌の面を持った自意識の強い作家肌の人間であって、彼の真価は文筆面で大いに発揮された。実際、彼は自意識の強い人間にふさわしく、史料的というよりも文学的に価値の高いすぐれた自伝を残した。この点は自己を語ることに禁欲的で、自伝の類を一切残さなかったレーニンともマルクスとも異なるトロツキーの魅力と言えるかもしれない。


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