ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第55回)

2013-01-31 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(3)ボリシェヴィキの全権掌握(続き)

ボリシェヴィキのクーデター
 10月革命直後、10月26日の第二回ソヴィエト大会でレーニンを首班とする新政府・人民委員会議が創設されたことはすでに述べた。
 「人民委員(コミサール)」とは政府の閣僚に相当するが、君主の秘書官から派生した「大臣」とは異なり、人民から付託を受けた執政官という意味が込められた新しい行政制度であり、これはスターリン時代の46年に廃止され、より一般的な閣僚制度に切り替えられるまで、10月革命の産物として存続していた。
 それはともかく、この発足したばかりのレーニン政権は翌27日に旧臨時政府が以前から公約していた制憲会議選挙を11月12日に実施する旨の政令を公布した。
 レーニンとしても、制憲会議選挙は2月革命以来の民衆の要求事項とみなされていたことを考慮したのであった。ということは、この時点でのレーニン政権は制憲会議成立までの暫定政権としての性格を持つにすぎないことを自ら認めていたことになる。
 果たして制憲会議選挙を実施してみると、結果は比例代表制で選出された707議席中、エス・エルが370議席を占め、ボリシェヴィキはわずか四分の一程度の175議席にとどまったのである。この結果は農村部に厚い支持基盤を持つエス・エルの強さと、主として都市労働者層にしか支持されていなかったボリシェヴィキの実力差をはっきりと見せつけるものであった。
 レーニン政権は自ら公約し実施した選挙で明らかに敗北した以上、いったん総辞職すべきであった。ところが、レーニンはエス・エルが選挙直後に分裂し、左派が新党「左翼社会革命党」を結成した事実を挙げて、ソヴィエトによる議員リコールを主張したうえ、制憲会議議員の過半数に当たる400人が首都に到着してから開会するという口実で、11月28日に予定されていた制憲会議の招集を延期した。
 これに抗議する動きが出ると、わずか17議席しか獲得できなかったカデットを「人民の敵の党」と断じ、同党議員を逮捕した。これがクーデターの最初の一歩となる。
 次いで、レーニンは選挙後の分裂を問題視したばかりのエス・エル左派と12月8日に連立協定を結んで政権抱き込みを図った。そのうえで彼は「制憲会議に関するテーゼ」を発表し、制憲会議選挙の有効性について、先のエス・エル分裂問題を繰り返すとともに、選挙が10月革命の規模と意義を人民大衆が理解できない時に実施されたこと―しかし、そういう日程で選挙を実施したのはレーニン政権自身であった―を問題視する。
 そして、制憲会議(議会)はブルジョワ共和国にあっては民主主義の最高形態であるが、「ソヴィエト共和国」―しかし、憲法制定前に政体をレーニン個人が決めることはできないはずである―は、通常のブルジョワ共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、また社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態であるとの一般論を持ち出し、ソヴィエトのほうが制憲会議に優先する―そう考えるなら、そもそもレーニン政権はなぜ制憲会議選挙をわざわざ実施したのか―と結論づけるのである。
 レーニンはこの「テーゼ」をまず制憲会議のボリシェヴィキ議員団に全会一致で採択させた。その後、取り急ぎ「ロシアを労働者‐兵士‐農民代表ソヴィエト共和国と宣言する。中央及び地方のすべての権力はソヴィエトに属する。」という条項で始まる「勤労被搾取人民の権利宣言」を起草し、これをボリシェヴィキで固められたソヴィエト中央執行委員会に全会一致で採択させた。
 この文書は「権利宣言」と銘打たれていたけれども、内容的には政体のあり方にも及ぶ憲法草案と言ってよいものであって、これを制憲会議の招集前に持ち出したのは、制憲会議を無視するクーデター宣言に等しいものであった。
 しかし、用意周到なレーニンはこれでけりをつけるのでなく、明けて1918年1月5日、公約どおりに制憲会議を招集してみせ、前記「権利宣言」の採択を制憲会議に迫るのである。ここで制憲会議がこれを実際に採択したら面白いことになったのだが、エス・エルをはじめとする多数派が審議拒否で応じたことは、レーニンに恰好の口実を与えることになった。
 レーニンはボリシェヴィキ議員団を制憲会議から引き上げさせたうえ、同日深夜にはソヴィエト中央執行委員会に「制憲会議の解散に関する布告」を採択させた。そして翌6日には武装部隊を差し向けて制憲会議を強制封鎖したのである。
 1月12日、第三回全ロシア・ソヴィエト大会は改めて先の「権利宣言」を圧倒的な賛成多数で採択するとともに、レーニン政権の政策をすべて承認し、従来の布告の中から制憲会議に関わる文言をすべて削除することまで決議した。制憲会議は遡って存在そのものをすら否認されたのである。
 こうして選挙に基づいて招集された制憲会議を非合法的な手段で転覆したレーニンとボリシェヴィキ党の「本物」のクーデターは、成功裏に完了した。
 ここで改めて作り出された体制は、クーデター体制にふさわしく抑圧的であった。レーニン政権はすでに前年の12月にはソ連の悪名高い秘密政治警察KGB(国家保安委員会)の前身となる非常委員会(チェ・カー)を創設して、反体制派狩りの準備を整えていた。そして、クーデター後の4月3日には結社の登録制、検閲、集会の許可制などの言論統制を定める布告も発せられた。
 18年7月にようやく制定された革命後初の憲法「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法」は新生ロシアを「自由な社会主義社会」と規定していたが、それは初めから虚しい空文句であったのだ。

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マルクス/レーニン小伝(連載第54回)

2013-01-30 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(3)ボリシェヴィキの全権掌握

10月革命の性格
 帝政を終わらせた2月革命はたしかに「革命」であったが、2月革命の結果成立した臨時政府を転覆した10月革命は「革命」ではなく、ボリシェヴィキの「クーデター」であったとする見方がある。この見方は10月革命の結果構築されたソ連邦が解体され、10月革命の歴史的意義を否定する見解がロシアでも広がった今日では多数説と言ってよいかもしれない。
 しかし、「10月革命=クーデター説」はすでに10月革命直後から、ボリシェヴィキに追われた臨時政府側やメンシェヴィキ、エス・エル右派―後述するように、エス・エルは左派が分裂し、一時ボリシェヴィキと行動を共にしていた―などの敗北当事者が採っていた立場を引き継いだものにすぎない。
 10月革命は、前述したようにレーニンの言う「戦闘術」に従ってボリシェヴィキ党が綿密に計画・実行した軍事蜂起ではあったが、それだけにとどまったのではない。1917年7月の武装デモ以来、臨時政府が統治能力を喪失し、無秩序が拡大していく中で、底流においては社会革命のうねりが起きていたのである。
 中でも大規模なものは農民革命である。臨時政府が公約していた土地改革が一向に進まない中、農民らは集団で地主貴族の居館を襲撃・焼打ちし―時に地主を殺害し―、地主らが所有する土地や家畜・農具を村落ごとに分配していった。こうした動きが8月から10月にかけてロシア全土に広がりを見せていた。
 レーニン政権が10月革命直後のソヴィエト大会に提案し圧倒的多数で採択された「土地に関する布告」はボリシェヴィキ本来の政策である土地の国有化をいったん棚上げして、さしあたりエス・エルの農業綱領であった「農民要望書」―エス・エル自身が先送りしていた―に沿って、地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を謳っているが、これはすでに進展してきていた農民革命の成果を追認したものにほかならなかった。
 一方、都市労働者の側でも、臨時政府の経済無策により、不況、物不足、物価高騰がおさまらない中、2月革命直後から結成され始めていた労働者自主管理組織としての「工場委員会」が急進化し、労働者自身が工場を占拠して採用・解雇を監督し、在庫や必要物資の管理にも当たる「労働者統制」の動きが広がっていた。
 労働者統制は、レーニンが「4月テーゼ」の中でも「労働者代表ソヴィエトによる統制」という形で提起していたところであったが、改めて11月に公布された「生産と分配に対する労働者統制令」の中で確認されている。
 また、農民・労働者から徴兵されていた兵士らは2月革命直後からソヴィエト内で重要な役割を果たしてきており、とりわけペトログラード・ソヴィエトが3月1日付けで発した「命令第一号」は軍隊内における兵士の自治組織である「兵士委員会」の創設を謳ったものであった。
 この組織は帝政ロシア軍の内部からの解体を招いたが、それはとりもなおさず「兵士の革命」であった。そのおかげで、10月革命蜂起に際して、ボリシェヴィキは自派に忠実な部隊を編成し、かつ大きな抵抗もなしに首都を制圧することもできたのである。
 このように、10月革命は決してレーニンとボリシェヴィキ党の力だけで成し遂げられたものではなく、ローザ的な意味での「自発的」な民衆の革命運動の流れに乗って初めて成功したのであり、何の社会的条件もなしにボリシェヴィキが限られた勢力でクーデターを断行したという前記のような見方はレーニンとボリシェヴィキ党の力量を過大評価するものである。
 しかしその一方で、相互に別個独立して行われていた民衆の革命的行動だけで10月革命が成功したという自然発生的な説明が妥当しないことも事実であり、民衆革命の沸騰点でレーニンとボリシェヴィキ党の計画的な軍事蜂起が革命を収束させ、新たに一定の秩序を作り出したのである。
 それでは、レーニンとボリシェヴィキ党はおよそクーデターと無縁であったのかと言えば、決してそうではなかった。奇妙にも、かれらによる言葉の真の意味での「クーデター」は、政権樹立後に起こされたのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第53回)

2013-01-24 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握(続き)

革命の成功
 コルニーロフ将軍の反乱の結果生じたボリシェヴィキにとっていまだかつてない有利な状況の下、レーニンは初めて武装蜂起にゴーサインを出す。「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」というそのものずばりの論説がそれである。同論説で、彼は冒頭、「ボリシェヴィキは二つの首都の労働者・兵士代表ソヴィエトで多数派となった以上、国家権力をその手に掌握できるし、また掌握しなければならない」と定言的に言明している。
 彼はボリシェヴィキが全国のソヴィエトの中で形式上(数字上)の多数派を占めていなくとも武装蜂起すべきだと主張するのである。
 このように先を急ごうとするレーニンの念頭には、ケレンスキー側の動向があった。ケレンスキーはコルニーロフ反乱の鎮圧でボリシェヴィキに借りを作ったとはいえ、ボリシェヴィキに妥協するつもりはなかった。むしろ「ボリシェヴィキの人質」という風評を払拭するためにも、臨時政府が3月に公約していた制憲会議選挙の準備を急いでいたのである。その第一歩として、彼は9月1日には「共和国宣言」を発し、ボリシェヴィキの手に落ちつつあるソヴィエトに代わる予備議会として「共和国評議会」の設置を決めていた。
 レーニンの新たな方針に対しては、またしても慎重なカーメネフが異論を提起したため、党議決定が進まなかった。カーメネフの意見は、10月20日に予定されている第二回全ロシア・ソヴィエト大会でボリシェヴィキは多数派を形成する公算が高い以上、武装蜂起せずとも平和的に全権力をソヴィエトへ移すことは可能であるという楽観的なもので、この時点では党中央委員会の多数の支持を得ており、レーニンは孤立していた。
 しかし、彼は持ち前の粘り腰で自説を主張し続け、中央委員辞任までちらつかせて説得を試みた。その結果、10月10日にヴィボルグ区の隠れ家で21人の中央委員中12人だけ集めて開かれた党中央委員会の秘密会議では、ついに10対2の票決で武装蜂起が採択されたのである。
 ちなみに、この時二票の反対票を投じたのは、カーメネフと後に彼とともにスターリンによって粛清されるグレゴリー・ジノヴィエフであった。二人は16日の党中央委員会会議で改めて巻き返しに出る。彼らは、党下部組織からの報告によると兵士は疲弊し、労働者の士気も落ちており、ソヴィエト大会前に蜂起できる情勢にはないと主張し、蜂起の延期を求める動議を提出した。この動議は否決されたものの、今度は全21人の出席者中6人の賛同者を出した。
 カーメネフは中央委員を辞任したうえ、ゴーリキーが発行していた新聞紙上でボリシェヴィキの武装蜂起計画を暴露した。これにより計画が公になってしまったため、レーニンは激怒し、カーメネフとジノヴィエフの除名を口走ったが、二人の排除はさしあたりスターリン時代まで持ち越される。
 レーニンは9月に武装蜂起の方針を決めた際に書いた手紙形式の論説の一つ「マルクス主義と蜂起」の中で、蜂起をマルクスにならって「戦闘術」として性格づけたうえ、10月8日に書いた同じく手紙形式の「一欠席者の助言」では、この「戦闘術」について、マルクスをまるで軍事戦略家のように扱いつつ、マルクスが武装蜂起の要諦に関して述べた「法則」を引きながら、蜂起の実際を事細かに指示している。
 このように、10月革命蜂起はレーニンとボリシェヴィキ党によって綿密に企画された軍事蜂起であり、その司令部として10月12日にはペトログラード・ソヴィエトに軍事革命委員会が設置された。これは形式上ソヴィエトの機関でありながら、事実上はボリシェヴィキの軍事指導機関であり、その下に赤衛隊が組織された。
 先述のように、すでに蜂起の計画がカーメネフによって暴露されて一般紙上でも取り沙汰されるようになっていたことは、蜂起を遅らせるどころか、もはや決定的なものとした。第二回ソヴィエト大会は5日延期されて25日招集の予定となっていたから、この日が目標期限に設定された。
 対するケレンスキー政権側はすでに報道からボリシェヴィキの武装蜂起計画を察知していたが、ボリシェヴィキの能力を見くびっていたため、積極的な未然防止措置に出ず、蜂起したボリシェヴィキを難なく粉砕できると楽観視していたのだった。政権側はようやく24日になってボリシェヴィキの新聞発行所を強制閉鎖し、中央機関紙の発行停止を命じた。
 ボリシェヴィキにとっては、これが軍事行動開始の合図となった。24日夜から25日にかけてボリシェヴィキ側が次々と首都の重要拠点や公共機関をほぼ無血のうちに制圧した。翌26日には前日のうちに首都を脱出していたケレンスキーを除く臨時政府閣僚が士官学校候補生や女性突撃隊などわずかな非正規部隊によって警護されながら立てこもっていた冬宮も制圧され、閣僚らは逮捕された。
 同日、第二回ソヴィエト大会は臨時政府が打倒されたことを告げるレーニンの有名な檄文「労働者、兵士、農民諸君へ!」をほぼ全会一致で採択するとともに、レーニンを首班とする新たな政府・人民委員会議を設立した。
 直後、首都を脱出していたケレンスキーが一部の旧政府軍残党の支持を取りつけて反撃に出る。彼の部隊は28日には首都から25キロ地点まで迫り、これに呼応する反乱がモスクワやペトログラードでも起きたが、間もなく鎮圧された。ケレンスキーは配下のコサック部隊にも裏切られ、ほうほうのていで逃亡し、ひとまずフランスへ亡命していった。
 こうして10月25日にほぼ帰趨を決した10月革命は、ボリシェヴィキの完勝に終わったのである。2月革命からわずか8か月、電光石火の「第二革命」であった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第52回)

2013-01-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握(続き)

反転攻勢
 7月の武装デモの後、臨時政府側にも重大な変化が起きた。第一次と第二次の臨時政府を率いてきたリヴォフ首相がついに辞任し、代わって第二次政府から軍事相として軍を掌握して影響力を強めていたケレンスキーが首相に就くことになったのである。こうしてレーニン起訴の三日後の7月24日にケレンスキー首班の臨時政府が発足する。
 偶然にもケレンスキーはレーニンと同じシンビルスク生まれで、彼の父がレーニン在籍当時のシンビルスク古典中学校長であったことは、第1章でも触れた。しかも、ケレンスキーの「本業」も同じく弁護士であった。しかし同じなのはそこまでで、ケレンスキーは初めエス・エル党から分かれた穏健なトルードヴィキ所属の帝政ロシア時代の国会議員として頭角を現した。そして2月革命後はペトログラード・ソヴィエト副議長から臨時政府に入閣し、法相、軍事相を歴任して、ついに首相に上りつめたのである。
 レーニンより一回り年下でまだ30代の若き首相は一応「社会主義者」を標榜していたが、実際のところはナポレオンを気取った権力志向の野心家で、軍事相時代に足場を築いた軍を権力基盤に強力な政府を作って革命を収束させようとしていた。そのためにも、レーニンとボリシェヴィキは何としても潰しておく必要があった。
 潜伏中のレーニンは、彼がボナパルティストとみなすケレンスキーの政権掌握という新局面を見て、天秤を武装蜂起のほうへ傾け始めた。彼は7月の出来事とケレンスキー政権の登場をもって従来の並行権力の時期は事実上終わったと分析した。臨時政府は反動化し、メンシェヴィキとエス・エルが支配するソヴィエトも反動化した臨時政府の事実上の与党になり下がってしまった。代わって、ブルジョワ軍事独裁の危険が立ち現れたと考えたのである。
 こうした情勢の下では、平和的な方法で全権力をソヴィエトへ移すことは不可能であって、武装蜂起によってブルジョワ独裁権力の打倒を目指さざるを得ないということが新方針となった。レーニンはラズリフ湖畔に潜伏していた時にこうした方針を固め、この頃台頭しつつあった若手のスターリンら身柄が自由な党幹部を通じて指導していった。
 しかし、8月に入るとロシア国内での潜伏は危なくなり、前述のような007張りの方法でフィンランドへ逃亡しなければならなくなった。二度目となるフィンランド潜伏はレーニンが最も強く暗殺を意識した時期であった。実際、彼はこの時期に執筆した『国家と革命』の原稿を万一に備えて死後出版できるようカーメネフに託したほどだった。
 『資本主義の最高段階としての帝国主義』と並んでレーニンの二大著作とされるこの政治理論書がいつになく教科書的な書きぶりとなっているのも、この時期の彼がこの書を後世への一種の遺言として書き残そうとしていたからかもしれない。
 しかし、事態はまたしてもレーニンにとって有利な方向に動き始めた。きっかけは8月末、ケレンスキーから軍最高総司令官に任命されていたコルニーロフ将軍が軍事クーデターを企てたことであった。帝政ロシアのエリート軍人としては珍しくコサック出身であった将軍は、無秩序状態を終わらせることのできない臨時政府に代えて軍事政権を樹立して秩序回復を目指す考えを持っており、ブルジョワ保守層の間で期待を集めていた。
 しかし、コルニーロフ将軍のクーデター計画は事前にケレンスキー首相に知られるところとなり、将軍は解任された。しかし、将軍はコサック師団を動員して軍事反乱を起こす企てに走る。これは2月革命以来最大規模の反革命反乱であったが、軍人でないケレンスキーは政府軍を掌握し切れておらず、自力では反乱に対処できなかった。
 ここに至り、ソヴィエトは臨時政府を守るため、メンシェヴィキ、エス・エルに非合法化されたばかりのボリシェヴィキも加えた「反革命に対する人民闘争委員会」を組織し、反革命反乱軍に対抗する労働者民兵組織(赤衛軍)も結成する。革命の一大危機を前に、革命諸派が2月革命後初めて団結したのであった。
 中でもボリシェヴィキの活躍はめざましく、反乱軍と果敢に交戦したほか、巧みな宣伝活動を通じて、反乱軍のペトログラード進軍を阻止するための妨害・説得工作に一般市民を動員することにも成功した。こうして首都への進軍を阻まれた反乱軍内部では命令拒否などの背信的な動きが広がり、反乱はあえなく瓦解、コルニーロフ将軍の逮捕をもって鎮圧された。
 このように民衆が体を張って「保守派」のクーデターを阻止するという経験を、ロシア人はその74年後のソ連邦末期に今度は全く正反対の形でもう一度持つことになる。
 ともあれ、コルニーロフ反乱は「革命を救った」ボリシェヴィキの声望をいまだかつてなく高めた。10月革命で政権を追われることになるケレンスキーは後年、「コルニーロフのクーデターがなければ、レーニンの時代は来なかっただろう」と述懐している。まことに、レーニン最大の“恩人”は反革命派コルニーロフ将軍であったのだ。
 8月末から9月初めにかけて、ペトログラードとモスクワの二大都市のソヴィエトは相次いで、ブルジョワ勢力との協力関係を断ち、革命的プロレタリアートと農民の協力を構築することを求めるボリシェヴィキ提案を賛成多数で可決した。そして、ペトログラード・ソヴィエトの議長にはボリシェヴィキからトロツキーが選出されたのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第51回)

2013-01-17 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握(続き)

革命までの曲折
 4月デモは臨時政府とソヴィエトの妥協により収拾が図られた結果として、5月初めに臨時政府が改造され、非難の矢面に立ったミリュコーフ外相は辞任する代わりに、ソヴィエト側からメンシェヴィキ、エス・エル系の6人の「社会主義者大臣」が入閣し、第二次臨時政府(リヴォフ首相は留任)が発足した。
 これにより、言わばソヴィエトとの連立政権の形となり、従来の臨時政府‐ソヴィエトの並行権力構造が軟化する。これは以後、ソヴィエト側の保守化を導いたであろう。
 その最初の徴候は、6月に開催された第一回全ロシア労働者‐兵士代表ソヴィエト大会に表れた。この頃には全国に拡大され、305のソヴィエトから送られた1000人近い代議員が参加して開かれた記念すべきこの大会の席上、自身逓信大臣として入閣していたソヴィエトのツェレテリ議長(メンシェヴィキ)は、従来よりも明確に臨時政府への支持を訴え、臨時政府に代わって権力を掌握できるような政党は存在しないと言明した。
 この時、「そういう政党はある。我が党は権力掌握を拒まないし、いつでもその準備はできている」と会場から公然反論したのがレーニンであった。この大会でボリシェヴィキは全権力をソヴィエトへ移す宣言案を採択するよう提案していたのである。しかし、大会代議員のうちボリシェヴィキ系は105人にすぎず、勝敗は初めから決まっていた。
 とはいえ、この大会はレーニンの「4月テーゼ」に基づくボリシェヴィキの公然たる「政権奪取宣言」の場ともなったのである。
 一方、臨時政府側も次第に右傾化し、労働者・兵士への抑圧を強めていたことから、ボリシェヴィキはソヴィエト大会期間中の6月10日に労働者と兵士の統一的な平和的デモを計画した。ところが、メンシェヴィキとエス・エルが主導するソヴィエトはデモ禁止措置を打ち出し、違反者は反革命分子とみなすとまで通達したのである。レーニンはこうしたソヴィエトの保守化を前に慎重策をとり、デモの中止を決めた。
 これに対し、ソヴィエト側は6月18日に一種の官製デモを計画・実施した。当然ながら、デモ隊のスローガンの中心はメンシェヴィキなどの主張に沿って「制憲議会を通じて民主共和国へ!」といった穏健なものであった。
 これを見たボリシェヴィキはこのデモに飛び入り参加を決め、「全権力をソヴィエトへ!」のスローガンを対抗的に掲げてデモ行進した。デモ参加者の多くはむしろボリシェヴィキのスローガンになびき、このデモは不発に終わった6・10デモに代替する「ボリシェヴィキのデモ」に転化したのだった。ボリシェヴィキは事実上優位に立ったかに見えた。
 ところが7月に入り、再びボリシェヴィキを暗転させる事態が出来する。6月18日の官製デモの同日、臨時政府はドイツ軍に対する捨て身の大攻勢に出る。しかしこの無謀な作戦は大誤算であり、ドイツ軍の激しい反撃に遭い、かえって敗色濃厚となった。この新たな臨時政府の失策が兵士の大きな反発を招き、首都での武装デモに発展する。
 この武装反乱事件―政府はそう認識した―の口火を切ったのは、ペトログラードでも労働者街ヴィボルグ区に駐屯する第一機関銃連隊であった。かれらは先の大攻勢で前線へ送られることになっていたのである。
 兵士の反乱には労働者も合流して7月3日以降、デモは大規模化していった。デモ隊はボリシェヴィキに対しても行動を求めて突き上げた。保養中のフィンランドから急遽戻ったレーニンはしかし、動かなかった。
 この時点でのレーニンは、彼の想定する「第二の革命」の方法について平和的移行と武装蜂起とを天秤にかけていたのだ。当面の彼の判断は武装蜂起の機はいまだ熟さずというものであった。当時はまだ臨時政府の事態掌握力はなお強く、蜂起の成功見込みはないと分析していたからである。
 その代わり、レーニンは今度のデモを平和的なものへ誘導することに決めたが、7月4日のデモは参加者50万人ともされる大規模な武装デモとなってしまった。事態を憂慮した臨時政府は武装デモの禁止と反乱部隊の武装解除、関与者処罰の方針を示した。ネフスキー大通りでは政府軍部隊による発砲もあり、5日にボリシェヴィキはデモの中止を決めた。
 だが、臨時政府側はこの時からはっきりとボリシェヴィキを敵視し、弾圧に乗り出した。ボリシェヴィキの活動家多数が逮捕され、レーニンも21日には反逆及び武装反乱の罪で起訴された。反逆容疑というのは、かねてより反戦を唱える彼に対して向けられていた「ドイツのスパイ」という中傷にひっかけた根拠のないでっち上げであった。
 ただ、逮捕を見越したレーニンは5日には地下に潜伏し、12日以降はペトログラードから30キロ以上離れたラズリフ湖畔に変装して身を隠し、8月半ばになって今度は火夫に変装して機関車で国境を越えフィンランドへ逃亡するというまたしても007張りの逃避行を強いられたのであった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第50回)

2013-01-16 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ 

(2)10月革命と権力掌握

「4月テーゼ」の採択
 レーニンの「4月テーゼ」は不評であった。事実上別の党となっていたメンシェヴィキから激しい非難を浴びたのは致し方ないとしても、彼自身のボリシェヴィキ内部からも異議を唱えられたのだ。
 そうした内部異論派の急先鋒は、古参幹部の一人レフ・カーメネフであった。後にスターリンによって粛清される運命にあった彼はメンシェヴィキとエス・エルが支配的なソヴィエトに同調し、臨時政府が革命を強化する限りでこれを支持するという立場から、「4月テーゼ」に反対し、レーニンの革命論はブルジョワ革命がまだ完了していない現状で次の社会主義革命への転化を促すもので、性急すぎると批判したのだった。
 ある意味では全うなこの批判は影響力を持ち、「4月テーゼ」は4月8日の党ペテルブルク委員会では圧倒的な反対多数をもって否決されてしまった。
 しかし、レーニンはあきらめることなく党内の説得を続けた。その際、彼はカーメネフのようにブルジョワ革命は完了したとかしないとかを論じるのは古い公式にしがみつく教条主義であると反論した。ここで、レーニンはカーメネフを批判しながら、実はマルクスの「革命の孵化理論」を批判しているのである。
 そのうえで、レーニンは当時のロシアの状況はブルジョワジーが権力を掌握した限りでブルジョワ革命は終わったと言えるし、一方では「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」もソヴィエトという形である程度まで実現しているとし、革命的蜂起の機は熟していると論じたのであった。これは卵が孵化する前に、未熟卵のままひよこを取り出してしまおうというまさに彼の「早まった革命」の公式そのものであった。
 間もなく風向きがレーニンにとって有利に変わったのは、彼のいささか牽強付会な理論的説得が功を奏したというよりも、臨時政府の失政のためであった。4月18日、臨時政府のミリュコーフ外相が連合国軍に送った覚書の中で戦争継続の意思を表明し、しかも領土併合・賠償取立てをも容認する趣旨の文言が付加されていたことが明らかとなったのだ。この事実は戦争終結と無併合・無賠償の講和を望む大衆の強い反発を呼び、臨時政府発足以来初の大規模な反政府デモ(4月デモ)が発生した。
 デモ隊は「ミリュコーフ打倒!」「臨時政府打倒!」「全権力をソヴィエトへ!」の急進的スローガンを叫び、臨時政府への公然たる異議を唱えていた。こうした主張は、明らかにレーニンの「4月テーゼ」に沿うものであった。この追い風に乗って「4月テーゼ」は党の指導部よりも下部において浸透し始め、ついに4月24日から29日まで開催された全ロシア党協議会で圧倒的な賛成多数で採択されたのだった。
 ただし、これはあくまでも当時まだ党員数10万人に達していなかったボリシェヴィキの運動方針にすぎず、かれらがソヴィエト組織内においてはなお少数派である事実に変わりはなかった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第49回)

2013-01-11 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(1)第二次革命の渦中へ(続き)

2月革命と帰国
 大戦は果たしてレーニンの期待したとおり、国内に革命的状況を引き起こした。戦争開始後連戦連敗を続け、前線の兵士を含めて反戦ムードが高まる中、労働者のストとデモの広がりに対して事態掌握力を喪失した帝政は崩壊し、ロマノフ朝の300年が終焉した。
 1917年2月23日に起きたことから「二月革命」と呼ばれるこの新たな革命の主役は―大戦中の1914年にペテルブルクから改称されていた―首都ペトログラードの労働者及び兵士であったが、革命後発足した大地主の自由主義者ゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府は、エス・エル系のアレクサンドル・ケレンスキー法相を除けばカデット系のリベラルなブルジョワ政権であった。
 一方、これに先立って労働者‐兵士の側は第一次革命の先例にならい、ソヴィエトを組織していた。その議長と副議長の一人はメンシェヴィキ系で、もう一人の副議長が先のケレンスキーであった。このように、2月革命当初のソヴィエトはメンシェヴィキとエス・エルが主導しており、レーニンのボリシェヴィキは全くの少数派だったのである。
 こうした構成を反映して、ソヴィエトの当面の方針は一挙に政権獲得に走るのでなく、まずは臨時政府の動向をウォッチしながらこれを条件付きで支持するという穏健なもので、これはプロレタリア革命を時期尚早と認識するメンシェヴィキの考えにおおむね沿っていた。こうして以後、10月革命までは臨時政府とソヴィエトの並行権力の時期を成す。
 一方、開戦後オーストリア当局に逮捕され再びスイスへ亡命していたレーニンは2月革命勃発の報に接すると、直ちに帰国の準備にとりかかった。しかし危険な革命家の通過を認める第三国はほとんどなく、帰国の方途に乏しいことが悩ましかった。
 そこで、反戦の立場では珍しく一致していたマルトフがロシアに抑留中のドイツ・オーストリア人捕虜と交換する条件で敵国ドイツを経由して帰国する方法を提案し、レーニンもこれを承諾した。こうして実現したのが、いわゆる「封印列車」による帰国である。
 レーニンは帰国直前の17年3月、手紙の形式でいくつかの論説をしたためたが、その中で早くも明確に2月革命に続く「第二の革命」―すなわち労農革命―に言及し、その準備として規律ある民兵組織とそれに依拠したソヴィエトの強化を要請している。つまり彼はこの段階で現実の権力掌握を射程に入れ始めたのだ。そしてその手段として、12年前の第一次革命でも着目していながら利用し損ねたソヴィエト組織を利用することも狙っていたのである。
 レーニンは4月3日、封印列車でペトログラードへ到着した。ボリシェヴィキは12年に「独立」した後、直後の4月にシベリアのレナ金山で起きた労働者虐殺事件を契機に再燃した労働運動の波に乗って、首都ペトログラードを中心に声望を高めていたから、レーニンもすでに有名になっており、その帰国は歓呼をもって迎えられた。大衆の間では、すでに彼は将来の国家指導者たり得る一人と想定され始めていたのだ。 
 レーニンはこの帰国に際して、さしあたりボリシェヴィキ党に向けた十項目から成る要綱を携えていた。後に「4月テーゼ」として知られるようになったこの要綱には次のような驚くべき内容が盛り込まれていた。

第一に、戦争は依然として帝国主義的なものであり、「革命的祖国防衛主義」にはいささかも譲歩しないこと。
第二に、ロシアの現状は、権力をブルジョワジーに譲り渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を引き渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期であること。
第三に、臨時政府を一切支持しないこと。
第四に、ボリシェヴィキがソヴィエト内で少数派であるという事実を認めること。ソヴィエトがブルジョワジーの影響下にある間はその誤りを大衆の現実的要求に即して説得すること。
第五に、労働者‐雇農‐農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。
第六に、すべての地主所有地の没収と土地の国有化。地方の雇農‐農民代表ソヴィエトによる土地管理。模範農場の創設等。
第七に、全銀行を単一の全国的銀行に統合し、労働者代表ソヴィエトによる統制を実施すること。
第八に、社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソヴィエトによる統制。
第九に、党の任務として党大会の招集、党綱領の改訂、党名変更。
第十に、革命的インターナショナル組織の創設。

 見てのとおり、この「テーゼ」はほとんどそのままボリシェヴィキ党の政権公約に等しいものであった。党員にとっても寝耳に水のこの「テーゼ」は、かねてよりレーニンの習慣となっていた一人で決めて通達するワンマン的手法が、現実の権力を前にはっきりと前面に姿を現したものにほかならなかった。ローザなら即座に論戦を挑んできそうであったが、彼女はこの頃、反戦運動のかどで獄中にあった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第48回)

2013-01-09 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

ああいうパン粉からロベスピエールみたいな人物が作られるのです。
―師プレハーノフ


(1)第二次革命の渦中へ

第一次世界大戦と「帝国主義論」
 レーニンは、1912年1月のプラハ協議会を通じてボリシェヴィキ党を自立化させた後、同年6月に妻とともにオーストリア領のクラカウへ移った。当時中・東欧にまたがる多民族帝国であったこの地で、レーニンは民族自決権をめぐって、またしてもローザと論争を展開することになった。
 ローザが民族自決という考え方はブルジョワ的であって、プロレタリア革命抜きの「独立」は民族ブルジョワジーを利するだけだとみなし、自身の祖国ポーランドの早期独立にも反対するのに対し、レーニンは被支配民族のブルジョワジーが支配民族から国家的独立を目指す限り、社会民主党はそれを支援すべきだとしてローザに反駁するのである。
 レーニンはそうした観点から、当時アジアで活発化していた多くは民族ブルジョワジー主導の独立運動を高く評価したのである。そのことを主題的に論じた彼の論文「後進的ヨーロッパと先進的アジア」には、ある意味でマルクスよりも進んだレーニンのアジア観がよく表わされている。
 こうしてレーニンは、今日では重要な国際法原則として確立を見ている民族自決権の先駆的擁護者としての栄誉に浴している。もっとも、彼が権力掌握後にソヴィエト連邦を構築した際に示した態度は、ロシア国内及びその周辺諸民族の自決権を十分に尊重するものとは言い難かったのであるが。
 ともあれ、レーニンとローザが民族自決論争を戦わせた直後に、まさに民族自決をも重要な争点の一つとする第一次世界大戦が勃発したのだった。
 この時期の大戦勃発はレーニンにとっても予想外であったようだが、彼の得意技は臨機応変にあった。不測の事態に直面すると直ちに新たな方針を立てて行動に出るのである。彼が独立したばかりのボリシェヴィキをスイスのベルンの森の中に招集して示した方針は、後に彼が簡潔にまとめたスローガンで表現すれば、「帝国主義戦争を内乱へ!」であった。
 その際、彼はまず表向きは「反戦」の立場をとる。しかしこの「反戦」とは、平和主義からの単純な「戦争反対」とは異なり、大戦によって生じるであろう国内の混乱と窮乏を利用して、それを内発的な革命に転化しようという戦略であった。
 これに対して、マルトフを除くメンシェヴィキやプレハーノフ、さらには1889年以来社会主義インターナショナル(第二インター)を主導してきたドイツ社民党もローザらを除く主流派は開戦後、社会主義者の立場から祖国防衛戦争を支持する左翼愛国主義に流れていった。
 レーニンはこうした流れに反対し、戦争を機に事実上崩壊した第二インターに代わって18年8月、ベルン近郊のツィマーヴァルトで開かれた反戦社会主義者の大会に出席し、反戦運動の国際的連帯を推進した。
 その一方で、彼は重要著作の執筆にとりかかった。今日『資本主義の最高段階としての帝国主義』という表題で知られるこの著作は小著ながら、マルクス没後に進展してきた帝国主義という新たな政治経済的現象をマルクス主義的に分析したものとして、マルクス『資本論』を補充するレーニンの代表的な著作とみなされている。
 この著作で彼が示した帝国主義の定義「独占体と全資本家の支配が成立し、資本輸出が顕著な重要性を獲得し、国際トラストによる世界分割が開始され、最強の資本主義諸国による一切の領土の分割が完了した、そうした発展段階の資本主義」は、長きにわたりレーニンの権威とともに帝国主義の定番的公理とされてきたが、今日ではほぼ否定されていると言って過言でない。
 特に帝国主義を独占資本と直結させるのは後発帝国主義国であったドイツ、米国、日本などには妥当するとしても、先発帝国主義国の英国やフランスにはほとんど妥当しない点で、一面的な定義であった。
 そればかりでなく、表題にあるように帝国主義をもって「資本主義の最高段階」ととらえ、著作の最終章で「死滅しつつある資本主義」と結論づけるのは、資本主義が第一次世界大戦をはるかに越えてまさに今日まで持続してきたことを見れば、早まった予測であったとしか言いようがない。むしろ当局の検閲を考慮して彼が当初与えた表題『資本主義の最新段階としての帝国主義』のほうがまだ堅実であっただろう。実際、帝国主義は当時における資本主義の新たな化身であったからである。
 マルクス理論による限り、資本主義はそれ自身の高度な発達によって共産主義を孵化させ産み出すのであって、「死滅」するようなものではない。この点で、レーニンはまたしてもマルクスから離反するのである。
 しかし、こうしたレーニンの早まった予測も、先に見たスローガンのとおり、戦争を革命に転化させるという彼の革命戦略に照応したものであり、要するにこれも彼の「早まった革命」(=労農革命)の正当性を裏づけるための理論にほかならなかったのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第47回)

2013-01-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(4)レーニン主義政党の構築

新たな党内抗争
 第一次ロシア革命の挫折後に持ち上がった新たな党内抗争は、従来のボリシェヴィキvs.メンシェヴィキの対立軸がややずれた形のいささか錯綜したものであった。
 それは当時のストルイピン政権下での激しい弾圧を伴う政治反動に対する党の方針をめぐる争いであって、一方に革命的政党組織の解体を主張する「解党派」があり、もう一方には反動化した国会から党所属議員を引き上げさせることを主張する「召還派」があった。
 このうち前者の「解党派」はプレハーノフを除くメンシェヴィキの新たな衣替えであったが、「召還派」にはボグダーノフのようなボリシェヴィキ中の極左派が加わっていた。
 レーニンは弾圧に怯えて党組織の解体を結果する敗北主義的な「解党派」にも、また一見強硬に見えながらせっかく獲得した国会議席を自ら放棄して党の活動能力を弱める「召還派」にも反対であったが、メンシェヴィキの隠れ蓑である「解党派」よりも、理論的にはボグダーノフらの「召還派」を脅威と感じたことが、ボグダーノフに代表される経験批判論に反駁する哲学書の執筆に走らせたものと思われる。
 こうした対立とは別に、党の統一を守るためにボリシェヴィキとメンシェヴィキの間を仲介するという名目で局外中立に立つトロツキーがいた。
 ユダヤ系の富農の家庭に生まれ、ナロードニキからマルクス主義に転向したトロツキーは、元来はメンシェヴィキに属し、レーニンと対立したこともあったが、この頃には内心ではなおメンシェヴィキの新たな衣である「解党派」をかばいつつ、一種の調停を買って出ていたのである。
 レーニンは一時トロツキーの提案に乗って、1910年1月にパリで開かれた党中央委員会総会ではメンシェヴィキが自らの分派を解散し、解党派や召還派と対決するとの条件で自派ボリシェヴィキをも解散するという決断をすら下した。しかし、こうした形式的なトレードオフの常として、対立はかえって激化するようになり、ついに喧嘩闘争のような稚拙ないさかいさえ生じる始末であった。
 この期に及んで、それまで表面上は党の統一を重視する態度を示していたレーニンも、自らの党を独立させる方向に針路をとるようになる。

ボリシェヴィキ党の独立
 ボリシェヴィキを独立させるレーニンの試みの手始めは1910年、ボリシェヴィキ系の新機関紙や雑誌を立て続けに創刊したことであった。この頃、正規の党機関紙『フペリョート』はメンシェヴィキの手に渡っていたのである。
 次いで翌年、パリ近郊に党学校を設立する。これにはボグダーノフら召還主義者がイタリアのカプリ島に滞在していたゴーリキーを囲んで分派の学校を設立したことへの対抗という意味もあったようだ。
 ちょうどその年の9月、政治反動の象徴ストルイピンが帝政ロシア秘密警察のエージェントであったユダヤ系青年によって暗殺されるという事件があった。これで政治反動が直ちに終わったわけではないとしても、帝政が強力な支配人を失ったことは、革命派にとっては僥倖であった。
 ちなみに、ストルイピンは1906年の農業改革法でロシア農村の旧制ミールを解体して農民が土地を所有し独立の農民経営を行い得るようにする自作農育成政策を開始していたが、農民層の反発が強く、進捗していなかった。
 レーニンはストルイピン暗殺という新しい状況をも利用しつつ、1912年1月、プラハで党第六回協議会を指導した。これは正式の党大会ではなかったが、20以上の地方組織が代表を送ってきたことから、事実上の党大会に等しかった。
 この協議会では解党派を非難し、同派が党を最終的に脱退したものとみなす旨の決議を採択した。解党派≒メンシェヴィキであったから、この決議はレーニンが事実上メンシェヴィキを切ったことを意味する。この時から、レーニンは自らの党を正式に持ったことになる。
 同時に、また新しい党機関紙『プラウダ』が創刊された。ロシア語で真実・正義を意味するタイトルを冠されたこの新聞は、後にソ連共産党機関紙として定着し、タイトルとは裏腹の虚偽宣伝の場ともなる。
 それにしても、正式の党大会を開かずに一種の非常措置で反対派を追放し、自派だけで党を固めたレーニン流のクーデター的手法は、いずれ来たる新たな革命の中で、彼とボリシェヴィキが権力を掌握する際の予行演習と言ってもよいものであったが、それは彼自身、この時点ではまだ予想もしていなかったことであった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第46回)

2013-01-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(2)第一次ロシア革命と挫折(続き)

弾圧と亡命
 体制側は06年4月、取り急ぎ憲法を制定し、革命の幕引きを図ろうとしていた。この憲法は同時代の大日本帝国憲法とも類似した欽定憲法であり、一応二院制的な国会が開設されたものの、立法の最終的な裁可権はあくまでも皇帝に留保されるという保守的かつ非民主的な内容のものであった。
 この憲法発布の四日後に開会した第一国会は、2月‐3月期に実施された選挙の結果、先述したようにブルジョワ政党のカデットが第一党の座を占めたとはいえ、過半数には届かず、第二党には1901年に結党されたナロードニキ系社会革命党(エス・エル)からさらに分かれたより穏健なトルドヴィキがつけていた。
 ところが、このトルドヴィキがその出自にふさわしく社会主義的な農地改革法案を提出したことから国会は紛糾し、農民運動の激化を恐れた政府は7月、第一国会を二か月余りで強引に解散してしまった。
 ちなみにボリシェヴィキは国会外からこの法案への支持を表明していたが、これも農民勢力との同盟を目指すレーニンの戦略に基づいていたことは言うまでもない。
 明けて07年1月‐2月期に行われた第二国会の選挙では、レーニンの方針転換により党は選挙参加の道を選んだ。その結果、第二国会は同じく選挙参加を選択したエス・エルを含む革命派が躍進し、カデットは大敗した。このような選挙結果を体制側が容認するはずはなかった。
 時の首相ピョートル・ストルイピンは6月、非常措置を発動して社会民主党議員らを拘束したうえ、再び国会を解散した。そのうえで選挙法を改悪して再選挙を実施した結果、11月に開会した第三国会では穏健自由主義派のオクチャブリスト党が第一党となり、体制の目論見どおり保守的な国会を実現したのである。
 こうして、第一次ロシア革命は辛うじて立憲革命という性格を残しつつも挫折に終わったのであった。以後は公安畑出身のストルイピン首相の下、革命派に対する徹底的な弾圧が展開されていく。
 レーニンはすでに反革命反動化の波が高まりつつあった前年夏に妻クループスカヤとともにロシア帝国支配下の自治領であったフィンランドへ移っていたが、そこにもレーニンを重要政治犯として指名手配していた帝政ロシア当局の手が迫ってきていた。
 夫妻はフィンランド人農民の案内で凍った海を決死で歩いて渡り、船でいったんスウェーデンへ脱出し、そこからベルリン経由で―論敵ローザ宅で一泊した―ジュネーブへ帰り着くという007張りの脱出劇を演じなければならなかった。
 一方、ペテルブルク・ソヴィエトが挫折した後、逮捕されたトロツキーはシベリアへ終身流刑に処せられていたが、間もなく脱走に成功し、ウィーンへ逃れた。

(3)哲学への接近

反経験批判論
 第一次ロシア革命の挫折は、ボリシェヴィキを含む革命派を動員解除状態に置いてしまった。帝政ロシア当局の激しい弾圧―1906年から10年までに政治犯として死刑判決を受けた者5735人、うち執行された者3741人という数字もある―もさりながら、精神的なアノミーも激しかった。ボリシェヴィキからも脱落者が相当数出たようである。
 そういう一種の価値観の崩壊情況を前にして、レーニンは哲学的レベルまで掘り下げつつ巻き返しを図る必要があると考え始めたようで、彼はそれまで本格的に取り組んだことのなかった哲学―1905年からボリシェヴィキに参加するようになっていた友人の作家マキシム・ゴーリキーに宛てた書簡によると、レーニンは哲学分野の素養が不足しており、公に哲学的所見を述べることを差し控えていたという―に接近していくのである。
 当時彼の周辺ではオーストリアの物理学者兼哲学者エルンスト・マッハの影響を受けたボグダーノフやルナチャルスキーらのいわゆる「経験批判論」が有力化してきていた。そのため、唯物論者をもって任じるレーニンからすれば、主観主義的かつ反唯物論的なそうした党内思潮を鋭く牽制しておく必要を感じ取ったようである。その結果誕生した遅ればせの哲学書―かつレーニンのほとんど唯一の哲学的主著―が1905年に出した『唯物論と経験批判論』であった。
 この著作は「一反動哲学についての批判的覚書」という副題を伴うことからもわかるとおり、レーニンが「反動的」とみなした経験批判論者―とりわけボグダーノフ―への反駁書であり、しかも「覚書」とあるように試論にとどまる。
 しばしばエンゲルスの『反デューリング論』と並び称せられることもあるこの著作の主調は、客観的真理の絶対化と客観的真理に対する人間の認識能力への素朴な信頼、そして「意識は存在の反映である」とする機械的反映論であって、エンゲルスの著作と同様、すぐれてドグマティックな書である。
 このような唯物論哲学のレーニン流ドグマ化は、それが政治的なものに適用されたときには、客観的真理を体現するとみなされた体制の絶対化と客観的真理の認識能力に秀でていると自認する党指導部の優越性とが論理的に帰結されるであろう。
 実際のところ、レーニンのこの著作は彼の指導体制を揺るがしかねない新たな党内抗争が持ち上がってきた中で、抗争とも絡めて執筆されたものであった。このように、レーニンの旺盛な執筆活動はほとんど常に彼自身の権力闘争における浮沈状況と密接に連動していた。

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マルクス/レーニン小伝(連載第45回)

2013-01-03 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(2)第一次ロシア革命と挫折

第一次革命のうねり
 1904年2月、帝政ロシアはかねてより極東・満州方面の権益を争ってきた日本から宣戦を布告され、日露戦争が始まった。
 この戦争は大国ロシア側に有利なはずであったが、蓋を開けてみればロシア側の連戦連敗という予想外の事態となった。反戦運動が高まりを見せる中、翌年元旦、旅順の要塞が日本軍によって落とされた。
 旅順陥落の報に接したレーニンは、「進歩的で進んだアジアが、遅れた反動的なヨーロッパに取り返しのつかない打撃を与えた」と評価し、ロシアのプロレタリアートは「専制を壊滅させた日本のブルジョワジーが果たしているこの革命的な役割」を直視すると書き記している。
 実際、前年12月からロシアの労働者らはストライキを展開し、旅順陥落後の05年1月8日にはゼネストに発展する。その中心にあったのが、ロシア正教司祭ガポンが組織した労働者団体「ペテルブルク・ロシア工場労働者会議」であった。
 この団体は元来、ロシアでもようやく現れてきた労働運動の高まりに対応して、モスクワの秘密警察部長ズバートフが考案した「警察社会主義」とも呼ばれる政策に沿って警察の資金で組織された官製労働者団体の一つであった。従って、ガポンも秘密警察のエージェントにほかならなかった。
 ところが、今やこうした国策的狙いを超えて「本物」のストに突入し、ついに1月9日にはガポンを代表者として、憲法制定会議の招集、政治的自由、8時間労働制など立憲的な要求事情を掲げた請願書を皇帝に提出するため、数万人の労働者、農民らが皇帝の宮殿である冬宮に向けて決死のデモ行進をかけるという事態となったのだ。
 これに対して、警察と軍隊は冬宮前広場でデモ隊を阻止するため発砲し、千人以上の死者を出した。このような帝政ロシア当局による前例のない流血弾圧は、この時まではまだ民衆の間に残されていた皇帝への敬愛の念を踏みにじってしまった。
 この「血の日曜日事件」は第一次ロシア革命の合図となり、以後労働者、農民、兵士、企業家ブルジョワジーに少数民族も加わった全社会的な革命的蜂起が開始されるのである。

ボリシェヴィキの主導権掌握
 騒然たる革命的状況の最中、レーニンが待ち望んでいた第三回党大会が1905年4月、ロンドンに招集された。これに先立って大会招集の阻止に失敗していたメンシェヴィキは脱落していたため、今般の大会はボリシェヴィキの独壇場であった。
 そのため、第二回党大会で採択されていたマルトフ提案による党規約第1条がレーニンの考えに従い党員資格を厳しく制限する規定に改正された。そして党中央委員会が単一の中央機関として承認された。
 こうして、ボリシェヴィキは第三回党大会を通じて党の主導権を掌握したが、用心深いレーニンはなおメンシェヴィキを完全に排除せず、再合同―もちろんボリシェヴィキ主導で―へ向けた努力は続けるのであった。
 この大会の決議事項の中で、当面する革命との関わりにおいて重要なのは、例のガポンによる社会主義諸政党に向けた協力の呼びかけに呼応し、帝政打倒・臨時政府樹立を柱とする革命行動を承認したことである。レーニンは大会に先立つ2月にジュネーブを訪問したガポンと面談して協力を約束していたのである。
 大会後、レーニンは6月に発生したロシア海軍の軍艦ポチョームキンの水兵反乱にも触発されつつ、大論文「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」を発表し、革命の結果発足するであろうブルジョワ臨時政府にプロレタリアートは参加すべきでないとするメンシェヴィキの主張に反対し、プロレタリアートはプチ・ブルジョワジーを率いてブルジョワジーを排除しつつ、自ら民主主義革命を実行し革命権力を樹立すべしとする戦略を提示した。
 この「プロレタリア民主主義」という新概念は、ブルジョワ革命を飛び越えたプロレタリア革命を想定している点で、マルクスの「革命の孵化理論」を踏まえないレーニン独自の「早まった革命」の枠組みを成すテーゼにほかならない。彼はすでに「血の日曜日」の三日後に書き上げた一論文の中で、「武装した人民だけが人民の自由の真の支柱たり得る」という簡潔なテーゼを打ち出し、武装蜂起の準備を進めていたのである。
 現実の革命は05年9月のポーツマス条約をもって日露戦争が講和に漕ぎ着けた後、10月の全国ゼネストでクライマックスに達した。ついに皇帝ニコライ2世は譲歩し、立法権を持つ国会の開設や市民的自由を認める「十月詔書」を発布して、事態の収拾を図らざるを得なくなった。これを「革命の最初の勝利」ととらえたレーニンは翌11月、5年ぶりに帰国し、首都ペテルブルクに到着した。
 しかし、レーニンがどんなに革命を急いでも当時のロシア社会民主労働者党は真っ二つに分裂しており、とうてい革命を指導することなどできる状態になかった。代わって、ペテルブルクには労働者代表の革命的自治組織ソヴィエトが初めて登場した。ここで指導力を発揮したのがトロツキーであった。
 レーニンもソヴィエトに着目し、これを臨時政府の萌芽と積極に評価したが、この組織を利用し切れるだけの準備が党側に整っていなかった。レーニンは2月、モスクワの労働者の蜂起に参加したが力及ばず、政府軍の武力鎮圧の前に敗北を喫した。
 体制側はこうした弾圧の一方で、12月に国会選挙法を公布した。しかしそれは制限・間接選挙という非民主的なもので、プロレタリアートの大半は選挙権を認められず、国会(第一国会)は自由主義的なブルジョワ系新党・立憲民主党(カデット)が多数を占めた。ボリシェヴィキとメンシェヴィキはともに選挙ボイコットで臨んだ。
 せっかくの革命とその結果を党が生かし切れないもどかしい状況の中、党の再合同・結束強化の必要性を痛感したレーニンはメンシェヴィキに改めて呼びかけ、06年4月にスウェーデンのストックホルムで開催された第四回党大会でメンシェヴィキとの再合同を実現させた。過去最大の62組織143代議員が出席した大会は代議員の過半数をメンシェヴィキ系が占めたにもかかわらず、この大会で初めてレーニンの最も有名な鉄則「民主集中制」が採択されたのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第44回)

2012-12-27 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(1)党内抗争と理論闘争(続き)

ローザvs.レーニン論争
 意外なところから、レーニンに論争を挑む者が現れた。ドイツ社会民主党左派のローザ・ルクセンブルク(以下、ローザという)であった。ポーランド出身のユダヤ人であった彼女は、後年ドイツ共産党の共同創設者としてドイツ革命の渦中で反革命化した社民党政権が動員した民兵組織の手にかかって虐殺される運命にあった人であるが、彼女が最初に名を上げたのは、第1部でも見たように、エンゲルス没後のドイツ社民党内部に生じたベルンシュタインのいわゆる「修正主義」の思潮に対する批判の急先鋒としてであった。
 レーニンが「修正主義」に反対したのは、ロシアの経済主義にも連なるこれらの思潮は労働者革命の自然発生性を神秘化しているとみなしたからであるが、ローザの場合には全く反対に、労働者大衆の自然発生的な革命運動への絶対的な信頼に基づいて、ベルンシュタインの順応主義的な路線を鋭く批判したのである。
 ローザのこうした自然発生的革命論は論理上、レーニンのエリート主義的な革命前衛理論とも衝突せざるを得ない。実際、彼女が1904年にドイツ社民党理論機関紙『ノイエ・ツァイト』とすでにレーニンの手を離れていた『イスクラ』に同時発表したレーニン批判論文「ロシア社会民主党の組織問題」は、レーニンの「一歩前進、二歩後退」に現れているレーニン的党組織論の「超中央集権的」な性格を批判の中心にすえている。
 ローザの自然発生的革命論によれば、レーニンのような中央集権的党組織によるプロレタリアートの指導はあり得ず、党の指導的役割は最小限度の受動的なものにとどまるのである。
 ローザが労働者の階級意識獲得の手段として、従ってまた革命の契機として期待をかけるのはゼネラル・ストライキ(ゼネスト)であった。ローザが前記論文の結びに置いた「真の革命的な労働運動によって犯される誤謬は、歴史的には最良の中央委員会の無謬性よりも限りなく実り豊かであり、貴重である」という一文は、彼女の党非組織論を雄弁に要約している。
 ローザの所論は一見すると、マルクスの革命後衛理論に近いようにも見えるが、マルクスは第1部でも見たとおり、共産主義者(=革命家)をプロレタリア運動における断固たる推進的部分かつ洞察力を備えた集団と積極的にとらえるのであり、それは決してローザ的党のように大衆の自然発生的ゼネストの後をついていくだけの受動的徒党ではないのである。
 大衆の自発性に対するローザの無条件的信奉は、彼女のもう一つの重要な経済学的持論である資本主義の自動的崩壊論とともに、神秘主義的マルクス主義とでも呼ぶべきマルクス理論からの独異な逸脱を示していた。
 ローザはその後もたびたびレーニンと激しい論戦を交わし、ロシア10月革命とその帰結であるボリシェヴィキ独裁に対する最も手厳しい批判者となった。しかし、レーニンはローザを決してメンシェヴィキの同類とみなして切り捨てることなく、最も手ごわい批判的同志として遇し、彼女がドイツ共産党の共同創設者カール・リープクネヒトとともに虐殺された時、すでに権力の座に就いていた彼は、二人の死を深く悼んだのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第43回)

2012-12-26 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第3章 亡命と運動

レーニンの立場の偉大な歴史的意義、すなわち真に革命的な党の団結を強化し、そのバックボーンに筋金を入れるべく断固としてイデオロギー的境界線を引き、必要とあらば分裂も辞さずという彼のポリシーは、当時私にはまだよくわかっていなかった。
―同志レオン・トロツキー


(1)党内抗争と理論闘争

『イスクラ』脱退へ
 レーニンはロシア社会民主労働者党第二回大会で多数派(ボリシェヴィキ)を形成したが、なお僅差であり、不安定であった。一般にレーニンのボリシェヴィキ党は第二回党大会で事実上成立していたと理解されているが、レーニンはなおマルトフら少数派メンシェヴィキとの融和のため努力を続けていた。しかし、マルトフらは巻き返しのチャンスを狙い、レーニンへの協力を拒んでいた。
 そのチャンスは1903年10月にジュネーブで開かれたロシア革命的社会民主主義在外連盟第二回大会の場でやって来た。この大会は党大会とは別途、外国亡命中のロシア・マルクス主義者を広く結集する大会であったから、メンシェヴィキにとってPRの場としては最適であった。
 実際、この大会はメンシェヴィキによる「ボリシェヴィキ糾弾大会」のような様相を呈した。妻クループスカヤの回想によると、大会前、レーニンはジュネーブの町で考え事をしながら自転車に乗っていて路面電車と衝突し負傷する事故を起こしたという。負傷を押して連盟大会に出席したレーニンは大会でも糾弾され、傷心して退場した。
 レーニンにとって追い打ちとなったのは、党の完全な分裂を恐れたプレハーノフがメンシェヴィキとの和解を言い出したことであった。たまりかねたレーニンはまたもプレハーノフを立てる形をとりつつ、自ら『イスクラ』編集部から身を引く道を選んだのであった。
 レーニンは幸い11月には党中央委員に補充選出されたため、以後は中央委員会を足場として早期に第三回党大会を招集して揺らいだ党内立場の建て直しを図ることを狙った。レーニンの特徴をなす「力への意志」は、まだ国家権力などおよそ視野に入るべくもなかったこの時期、まずは「党内権力」を目指すあくなき行動として発現し始めていた。
 彼は手始めに、04年5月、論文「一歩前進、二歩後退」を発表してメンシェヴィキの主張を徹底批判した。この論文はその2年前の「何をなすべきか」以来、レーニンが掲げてきた革命前衛理論に立脚しつつ、メンシェヴィキのサークル的体質を厳しく批判し、論文の副題でもある「我が党の危機」、すなわち革命的陣営と非革命的な改良主義的陣営とに分裂する危機の責任をもっぱらメンシェヴィキに帰している。そのうえで、彼は革命政党としての団結力を高めるために中央集権的な党の建設を訴えるのである。
 このような論調は当然にもメンシェヴィキを怒らせたのみならず、プレハーノフやその他の中間派のメンバーをも離反させることとなった。その結果、レーニンの党内立場はかえって悪化し、7月には中央委員辞任に追い込まれた。
 しかしレーニンはあきらめず、8月にはスイスでボリシェヴィキ単独の会議を開き、党の革命的団結を固めるための新たな党大会の開催を訴えるアピールを発した。そして年末にはボリシェヴィキ派の新機関紙『フペリョート』を創刊する。ロシア語で「前進」を意味するフペリョートというタイトルには、第二回党大会の後、「一歩前進、二歩後退」を強いられた彼と彼の党派の再びの前進という意味が込められていた。

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マルクス/レーニン小伝(連載第42回)

2012-12-20 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(4)社会民主労働者党への参加

結党の経緯
 ロシアにおいても本格的なマルクス主義政党を結成する必要性に関しては、1895年のレーニンとプレハーノフらとの最初の面談で意見の一致を見ていたが、実現を見ないうちにレーニンらが逮捕され、流刑に処せられてしまったことで、いよいよもって実現の目途が立たなくなってしまった。
 そうした中、レーニンとは別のグループによって1898年にミンスクで社会民主労働者党第一回党大会が開催された。しかし、この大会にはわずか6組織9代議員しか参加せず、流刑中のレーニンらは当然にも参加することができなかった。しかも、大会は党創立を宣言するだけに終わったうえ、直後に治安当局の摘発を受け、事実上壊滅状態となった。こうしたことから、この大会を正式の創立大会とみなすべきかどうかについては議論がある。
 ちなみに、ミンスク大会の宣言を起草したのはピョートル・ストルーヴェで、彼はまさにレーニンが「何をなすべきか」で批判の俎上に乗せた経済主義の中心人物であった。後にレーニンから変節漢と痛罵された彼は実際、10月革命後の内戦期には反革命の白軍地方政府の外相も務めた。
 そのストルーヴェはレーニンの非妥協的な性格を批判しつつ、彼の立脚点は憎悪にあると指摘した。たしかに、帝政ロシアに敬慕する兄を奪われ、自らも入学したばかりの大学を理不尽な仕方で退学させられ、流刑にも処せられ、その後も長い外国亡命生活を強いられたレーニンが帝政ロシアに対する憎悪をその非妥協的な革命運動のエネルギー源としていたということは、十分考えられることである。

分裂含みの党再建大会
 ロシア社会民主労働者党の実質的な創立大会と位置づけられ得るのは、レーニンらも参加して1903年7月に当初ブリュッセルで開かれた第二回大会であった。この大会には26組織57代議員が参加し、どうにか大会らしき体裁は保っていたが、開催場所はブリュッセルの麦粉倉庫であった。 
 レーニンは大会に先立ち、党の主導権を握ろうとするプレハーノフが起草した綱領案をめぐってプレハーノフと対立していたところであったが、彼はまたもや大先輩プレハーノフを立てて譲歩したため、綱領案はスムーズに採択された。その綱領案の討議中にベルギー警察の手入れが入りかけたためにロンドンに移された舞台では、大きな波乱が待っていた。
 最初の問題は、党員資格について定める党規約第1条案をめぐり、これを広くとって党組織の指導を受けて党に協力していれば党員とみなすとの案を出したマルトフと、狭く限定して党組織に参加しない限り党員と認めないとする案を出したレーニンが対立したことであった。
 ここで、レーニン案が「何をなすべきか」の少数精鋭主義の革命前衛理論を前提としていることは明らかである。彼からすれば、マルトフ案は職業的革命家の組織と労働者大衆組織とを混同するものにほかならなかった。この件に関しては、プレハーノフはレーニン支持に回ったが、結局マルトフ案が採択されることになった。
 早くも表面化してきたレーニンとマルトフの対立は、続いて党中央機関の人事をめぐる討議で頂点に達した。権力闘争では学究肌のマルトフに勝るレーニンは党機関紙となる『イスクラ』の編集部からプレハーノフに服従するアクセリロードとザスーリチの両ベテランを追放することのほか、中央委員会をレーニンに近いメンバーで固めることにも成功したのである。マルトフは激しく反発したが、及ばなかった。
 こうして、実質上の新党の創立を実現した党第二回大会は、ひとまずレーニンが党の多数派(=ボリシェヴィキ)を掌握し、マルトフらの少数派(=メンシェヴィキ)に勝利した形となった。その結果、ロシア社会民主労働者党は実質上のスタート時点から二大派閥に分裂したのだった。この分裂はやがて来たる革命の中で、党内問題を超えた理論上・実践上の対立に発展していくであろう。

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マルクス/レーニン小伝(連載第41回)

2012-12-13 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(3)何をなすべきか(続き)

論文「何をなすべきか」
 『イスクラ』時代のレーニンの代表作は、広範囲な影響を及ぼすことになる「何をなすべきか」であった。1902年に発表され、「我々の運動の焦眉の諸課題」といういささか切迫した副題を持つこの論文は、当時世界最大のマルクス主義政党であったドイツ社会民主党の内部で生じていた改良主義的穏健化とそれに影響されてロシアのマルクス主義の間にも現れたいわゆる経済主義、すなわちマルクス主義者の役割をさしあたりプロレタリアートの経済闘争への参加・支援に限定しようとする立場に断固異議を唱え、マルクス没後およそ20年を経て、マルクス主義革命運動に活を入れ直すことを企図したものであった。
 彼はそのために、革命的活動を職業とする人々、すなわち「職業的革命家」という概念を導入する。そして、この職業的革命家の組織は、できるだけ広範かつ公然と組織されるべき労働者の組織とは異なり、少数精鋭かつ秘密の組織でなければならないと主張した。
 その際、レーニンは労働者と―職業革命家の多くを占める―インテリゲンチャとの形式的対等性を前提とするとはいえ、労働者は自力では組合的意識しか作り出せないため、革命的意識はマルクス、エンゲルス、そしてレーニン自身も含まれるインテリゲンチャによって外部から注入されなければならないとする「外部注入テーゼ」を打ち出したのである。
 このようなレーニンのエリート主義的な革命前衛理論は、むしろナロードニキ系の革命理論に近く、マルクスの革命後衛理論からは離反するものであることは、すでに第1部第5章で示しておいたとおりである。
 もっとも、秘密結社性の強調は、帝政ロシア当局による反体制・革命運動に対する体系的抑圧が敷かれていた当時の状況に照応しているため、1905年の第一次革命で抑圧が若干緩和されてからは、レーニン自身によって修正されていく。しかし、職業的革命家の指導性を高く奉じる彼の理論の全体骨格は以後変わることなく、レーニン的党組織論の土台となった。
 レーニンの考えによれば、経済主義者は労働者大衆の自然発生的な運動を信奉するあまりに、最終的に労働運動をブルジョワジーの思想の支配下に引き渡してしまうことになるのである。
 レーニンは当時早くも生じ始めていたそうした危険―彼の危惧はおよそ100年後の今日、まさにブルジョワ思想に吸収されてしまった労働運動主流の情況を見ると、的中している部分も認められるが―に抗して、まず自らを率先して職業的革命家として提示してみせたのである。その意味で「何をなすべきか」は、レーニン自身の『共産党宣言』ならぬ『革命家宣言』であったとみなすことができるであろう。

貧農への呼びかけ
 論文「何をなすべきか」の発表に続く1903年春、レーニンはかねてより取り組んでいた農民問題に中間総括を与えるパンフレット「地方貧民へ」を公刊した。
 レーニンは早くから農民問題に注目しており、現存する最初の著作も農民生活に関する論文であったほどで、1894年に書いた最初の本格的な政治論文「人民の友とは何か」の中でも、ロシアにおけるプロレタリアートの勝利のためには、農村プロレタリアートの支持が不可欠であることを指摘していた。そして最初の大著『ロシアにおける資本主義の発達』でロシア農村における農民の二極分解の実態を分析し、貧農の増大という現象に留目したのである。
 そうした分析を踏まえたうえで、1903年のパンフレットでは、「地主に対してのみならず、富農に対しても同じように闘うための、貧農全体と都市労働者の同盟」というテーゼと明確に打ち出すのである。これこそ、レーニン独自の労農革命論の土台を成すテーゼである。
 ちなみに、マルクスも特にフランスにおける農村プロレタリアートの存在に着目してはいたが、元来土地所有権の獲得(=農地解放)を宿願とするゆえにブルジョワ思想に傾斜しがちな農民と都市労働者の同盟という視座はマルクスに存在しなかった。これに対して、レーニンは農業国ロシアの実情を踏まえ、あえて労農同盟というテーゼを提起するのである。
 この点で、彼は革命前衛理論と並ぶマルクス理論からのもう一つの重要な離反を試みたのである。そして、ここでもレーニンはその経済理論に反対したナロードニキに一歩にじり寄ったとも言える。
 しかし、本来は土地の国有化を目指すはずのプロレタリア革命を農業革命と接合することには理論上の無理があり、レーニンの労農同盟論は依然としてロシア社会の中で中心的な位置を占めるに至っていなかった労働者が勢力を拡大するために農民を味方につけるという革命戦略的な意味合いが強いものと考えられる。
 そうした意味で、「地方貧民へ」は前年の「何をなすべきか」とセットで、レーニン革命戦略論の一部を成すものと読み取ることも許されるであろう。

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