ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第31回)

2012-11-08 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(4)ソ連体制とマルクス

共産党独裁体制
 レーニンを権力の座に就けたロシア10革命の結果登場したのは、ボリシェヴィキ改めロシア共産党(後にソ連邦共産党と改称)による一党独裁体制という怪物であった。
 この体制がマルクス主義を体制教義としたことで、共産党独裁がマルクスの提唱したプロレタリアート独裁(以下、原則として「プロ独」と略す)の具現化であるかのように錯覚されてきたが、このような錯覚はまさにソ連体制が内外の人々をそう信じ込ませようとした宣伝の結果でもある。
 この点、レーニンがカウツキーを「背教者」呼ばわりするきっかけとなった論争は、レーニンのプロレタリアート独裁論をめぐるものであった。レーニンは当初、10月革命を下支えする原動力となったソヴィエト(労働者‐兵士評議会)への全権集中をもってプロ独とみなしていたが、カウツキーは議会主義者としてこのようなレーニンの所論を非民主的と批判したのである。
 これに対するレーニンの反論はプロ独と民主主義を二律背反的にとらえるのは誤りで、プロ独とはプロレタリアにとって最高の民主主義の形態であるというものであった。
 しかし、ここにすでにマルクス理論からの離反が認められる。たしかにマルクスはパリ・コミューンの性格づけとしてプロ独という概念を導いたので、彼がこれを反民主的と認識していたはずはない。
 とはいえ、前にも指摘したとおり、マルクスにとってプロ独とは資本主義社会から共産主義社会へ至る過渡期の国家形態にすぎず、しかもその「独裁」とは反革命反動に対する防御的独裁であって、積極的な独裁ではなかった。ところが、レーニンの場合、プロ独の過渡的・防御的性格に対する認識が希薄であり、将来における「国家の死滅」―これもすでに指摘したとおり、マルクスは「国家の死滅」ではなく、政治国家から経済国家への転換を説いたのであるが―が抽象的に予示されはするものの、プロ独が積極的な国家形態として把握されているのである。
 こうした把握の仕方が、やがてレーニンとボリシェヴィキの権力掌握後にはソヴィエトの骨抜きとボリシェヴィキ改め共産党の一党独裁という特異な政治体制への転化を結果したのである。この体制が「ソヴィエト連邦」を名乗るようになったのはレッテル詐欺と言うべきもので、ここでの「ソヴィエト」は10月革命時のソヴィエトとは似て非なるものであった。それは共産党の決定を追認するだけの名目的な会議体と化していたのだ。
 さらに言えば、マルクスのプロ独はまさにパリ・コミューンのようなコミューン(自治体)を基礎として、複選制代議機関を通じて中央政府には最小限度の機能だけが残されるような非中央集権型「独裁」であったのであるが、レーニンにはこのような視座は欠落しており、共産党独裁体制はボリシェヴィキの中央集権型組織をそのまま国家体制に平行移動させた巨大な中央集権国家として立ち現れた。
 こうしたマルクス理論とはかけ離れた体制のあり方について、ローザ・ルクセンブルクは端的に「たしかに独裁ではあるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョワ的な意味での独裁である」と切り捨てた。また、遠く日本から固唾を呑んでロシア革命の行方を注視していたアナーキスト・大杉栄も「真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらがわかった」と書き付けたのである。
 このレーニン的な意味におけるプロレタリアート独裁国家は、10月革命から60年後の1977年に制定された新憲法前文によると、「ソヴィエト国家はプロレタリアート独裁の任務を果たし終え、全人民国家となった。全人民の前衛たる共産党の指導的役割が大きくなった。」とマルクスが仰天しかねない地点へ到達したのだった。
 マルクスの場合、プロ独を終了した後のプロレタリアートは「階級としての自分自身の支配を廃止する」。そして、その後直接に共産主義社会へ移行していくのであり、プロ独が終わった後になおも「全人民国家」であるとか、「全人民の前衛たる共産党」などがグズグズと残留する余地はない。
 こうして、ソ連体制はマルクスの名においてマルクスとは無縁の森へ迷い込んでいく。そして、共産党の前衛的指導性を高らかに謳い上げた新憲法の制定からわずか14年後に、ソ連体制は終焉したのである。


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