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マルクス/レーニン小伝(連載第59回)

2013-02-22 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として

抑圧と収奪
 10月革命後の為政者としてのレーニンの統治期間は6年余りにすぎず、彼の履歴においては革命家としての活動期間が圧倒的に長いことから、従来為政者としてのレーニンの特質についてはあまり正面から検証されてこなかった。
 しかし、レーニンはまぎれもなく10月革命後のロシア及びソ連時代の最高権力者であった。そういう最高権力者としてのレーニンの特質として目を引くのは、抑圧と収奪とに対するためらいのなさである。
 レーニン政権による抑圧は10月革命の直後から始まっている。前にも述べたように、10月革命の三日後に革命を強く批判する声明を出したプレハーノフは早速翌日ボリシェヴィキ系武装部隊の家宅捜索を受け、フィンランドへの亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキの指導者マルトフは反ボリシェヴィキの活動を続けて秘密警察チェ・カーの追及を受けた。しかし、レーニンも若き日の友を逮捕・処刑することはさすがに気が引けたと見え、マルトフには人を介して亡命を勧めている。レーニンは今や敵となったかつての師や友まで亡命に追いやったのである。
 この点、カール・シュミットは政治的なるものの本質として、敵/味方の峻別という有名な定義を提出したが、革命運動の時代以来、為政者としても敵/味方の峻別に厳格であったレーニンは、まさにシュミット的な意味での政治的なものの実践者であり、このことも敵への報復という形で抑圧を導きやすかったと考えられる。
 こうしたレーニン政権の抑圧はかのエス・エルによるレーニン暗殺未遂事件の後に最高潮に達した。党は「赤色テロ」でもって報復することを宣言し、チェ・カーをフル動員してエス・エルに限らずおよそ反体制分子全般に対する大規模な抑圧に乗り出す。その基本は裁判なしの、または略式裁判による投獄・処刑であった。暗殺未遂後の「赤色テロ」だけでも1万ないし1万5千人が裁判なしに処刑されたと推定されている。
 ソ連時代末期以降の情報公開政策の中で次第にその実態が明るみに出され始めたこうした抑圧は内戦が本格化するとむしろ常態化して恐怖政治の手段となり、内戦が終息し社会が安定化しても、体制の体質として残されたのである。
 こうした点で、レーニンはマルクスよりもフランス革命時のジャコバン派指導者ロベスピエールの方に似ていたし、彼自身それを意識していた形跡もある。
 ここで、レーニンもロベスピエールも法曹(弁護士)であったのになぜかくも法を軽視することができたのかという疑念も浮かぶが、実のところ、彼らは法律家であったからこそ、法を軽視できたのである。
 彼らはともに「緊急は法を持たず」という法格言の忠実な実践者であった。国家権力は法に基づいて行使されなければならないという「法治」とは平時の原則であって、緊急時の国家は法を超越して行動することが許される━。これが上記格言の趣旨である。前皇帝一家に対する裁判なしの銃殺処分も赤色テロも、その観点からしてレーニンにとっては少しも良心のとがめるところではなかったのである。
 もう少し政治的な観点から眺めると、例外状況に関して決定を下す者をもって主権者と定義した前出カール・シュミット的な意味において、レーニンはまさしく主権者=最高権力者だったのであり、彼の体制において人民は主権者ではなかったのである。
 レーニンは抑圧に加え、すでに言及した農村の食糧割当徴発制のような収奪もためらわなかった。ここでも農民が対抗手段として食糧隠匿に走ると、人民の敵たる「富農」との烙印が押され、抑圧の対象とされた。この政策は内戦前に導入されたものではあったが、内戦が本格すると「戦時共産主義」という例外状況の中で、いよいよ大っぴらに抵抗勢力に対するテロルを伴いつつ展開されていった。
 この間、レーニンの傍にあって、冷徹な彼の抑圧と収奪の手段を逐一“学習”していたのが、かのスターリンなのであった。


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