ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載最終回)

2013-04-12 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復(続き)

レーニンの脱神格化
 ソ連邦解体は、スターリン以降のソ連体制によって付与されてきたレーニンの神格を剥ぎ取る契機ともなった。レーニンの脱神格化である。レーニンの脱神格化とは何か。それはレーニンに対するタブーなき批判の自由が確保されることである。
 旧ソ連時代にもスターリン死後のフルシチョフ政権当時にスターリン批判が共産党指導部自身によって行われたことはあったが、革命と建国の父レーニンに対する批判は長らくタブーであり、タブーが徐々に解けたのはソ連末期のゴルバチョフ政権下で情報公開と言論の自由化が進んでからのことであった。
 ただ、レーニンを批判するという場合、単に彼の理論と実践の個別的な誤りを指摘するだけでは足りない。それを超えて、彼の理論と実践を全般的に批判的分析の対象とすることが必要となる。
 なかでもマルクス主義者レーニンがマルクス離反者でもあった事実を正面から見すえなければならない。ソ連当局によって宣伝され、今日でもなお基本的に維持されている「レーニンはマルクスの理論を後進的だったロシアの現実に適用した」というレーニン評価は見直されなければならないのだ。
 すでに随所で触れてきたとおり、彼はマルクス理論の「適用」どころではない、それからの「離反」を示している。彼の理論はマルクスの用語を使用してはいるが、マルクスとは別個のレーニン独自のもので、端的に「レーニン主義」と呼ばれるのが最もふさわしい。ソ連とその同盟国が体制教義としていた「マルクス‐レーニン主義」は実態と乖離したイデオロギーにすぎなかったのである。
 レーニン脱神格化の第二弾は、為政者レーニンの失政を直視することである。すでに見たように、レーニン政権下での社会的混乱は並大抵のものではなかった。
 それは想像を超えた混乱であったため、10月革命は、反革命派の間ではおよそ革命なるものが大衆にとっていかに辛い苦難を強いるものかを宣伝する材料として今日まで使われているほどである。
 レーニンをはじめボリシェヴィキは一般命題的な「テーゼ」を巡る論争に明け暮れることが多く、具体的な政策立案能力には欠けていたと言わざるを得ない。その最たるものが民衆の生活にとって肝心な農業・食糧政策であった。レーニン政権は「戦時共産主義」という誤った政策のために帝政ロシア時代にも見られなかったほどの飢餓を引き起こした。農業・食糧問題での失政は悲惨な内戦の要因でもあった。
 マルクスから離反して労農革命を唱導したレーニンが為政者として農業問題に関して一貫した良策を打ち出すことができなかったのは、彼にとって農民との同盟は権力掌握のための手段的な意味合いが強かったためである。彼自身は農民に共感などしていなかったし、かつてのナロード二キのように農村に直接足を踏み入れることもなかったのである。
 ・・・とこのようにレーニンを断罪していくと、レーニンを全否定し、歴史から抹消してしまうことになりかねない。実際、今日ではレーニンも10月革命もソ連も存在しなかったかのような空気が世界に見られる。ロシアにおいても、旧暦10月25日の革命記念日はもはや祝日ではなくなっている。
 しかし、レーニンが指導した革命事業は神ならぬ人間のなせる業であり、そこには反面教師的な側面も含めて多くの教訓が含まれている。それは近代における革命について考える際の素材の宝庫なのである。革命など真っ平ご免蒙りたいと思っている人にとっても、なぜ、どのようにして革命が起きるのかを考える手がかりが得られるだろう。
 そうした意味で、映画のタイトルにもなった「グッバイ、レーニン!」は“神レーニン”に対する決別宣言でなければならず、“人間レーニン”に対しては、「ハロー、レーニン!」でなくてはならない。
 ちなみに、ソ連邦解体を主導したロシアの“急進改革派”エリツィン政権は、レーニン廟に保存されているレーニンの遺体の撤去・埋葬を企てたが、反対も根強く、実現しなかった。たしかにレーニンを葬り去るにはまだ早いが、人間レーニンを回復するためには、普通の人間として埋葬し直すほうがよいのではなかろうか。(連載終了)


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