金沢文庫(神奈川県横浜市金沢区金沢町142)
(現在の金沢文庫)
横浜のほうに行くと、「金沢文庫」(京急線沿線)という変わった名前の駅があり、その名の由来はしらず、気になっていました。先日、ここに行ってきました。
「金沢文庫」は称名寺の左手のトンネルをくぐるとあります。称名寺の参道を進むと、文政元年(1818)にできた仁王門があります。この仁王門をくぐると苑池が眼前にひらけ、朱塗りの反橋(現在、修復中)の向こうに天和元年(1681)造営の金堂が建っています。
現在、寺域は狭く、全盛期の姿にはとおく及びませんが、背後の丘陵も含めて境内全域が国指定史蹟として保存され美しい自然がそこにあります。中世の景観を想像することができます。
簡単に言えば、「金沢文庫」は北条実時(1224-1276)が創設した日本最古の図書館です。
(称名寺)
金沢北条氏は、鎌倉幕府執権を継承する北条氏の末裔です。武蔵野国の六浦庄金沢に拠点がありました。三代にわたる実時(1224-1276)、顕時(1248-1301)、貞顕(1278-1333)らは学問好きで、膨大な数の書籍を集め、遺しました。
これらの書籍を保存したのは、称名寺です。金沢山称名寺は北条実時によって創建されました。建設時期は定かではありません。1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源ではないかといわれています。その後、1267年(文永4年)下野薬師寺の僧・審海が開山に招かれて真言律宗の寺となりました。
北条実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、これらの収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設しました。
文庫は実時の蔵書をもとに拡充されました。金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要がでてきて収集する文献の分野も広がりました。
金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継ぎました(当時の建築物は現存しません)。
「金沢文庫」は、 1897年に伊藤博文らによって称名寺大宝院跡に再建されました。関東大震災で失われたものの、1930年に神奈川県の運営する文化施設として復興されました。
1990年に改装され、現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する歴史博物館と、国宝や重要文化財を含む金沢文庫の蔵書を分析・研究する施設とが設置されています。
称名寺の前には大きな池があり、水鳥が「隊列」をなして湖面を泳いでいました。往時、ここで僧・審海らが民衆に戒律を説き、食事を施したことが偲ばれました。
(現在の金沢文庫)
横浜のほうに行くと、「金沢文庫」(京急線沿線)という変わった名前の駅があり、その名の由来はしらず、気になっていました。先日、ここに行ってきました。
「金沢文庫」は称名寺の左手のトンネルをくぐるとあります。称名寺の参道を進むと、文政元年(1818)にできた仁王門があります。この仁王門をくぐると苑池が眼前にひらけ、朱塗りの反橋(現在、修復中)の向こうに天和元年(1681)造営の金堂が建っています。
現在、寺域は狭く、全盛期の姿にはとおく及びませんが、背後の丘陵も含めて境内全域が国指定史蹟として保存され美しい自然がそこにあります。中世の景観を想像することができます。
簡単に言えば、「金沢文庫」は北条実時(1224-1276)が創設した日本最古の図書館です。
(称名寺)
金沢北条氏は、鎌倉幕府執権を継承する北条氏の末裔です。武蔵野国の六浦庄金沢に拠点がありました。三代にわたる実時(1224-1276)、顕時(1248-1301)、貞顕(1278-1333)らは学問好きで、膨大な数の書籍を集め、遺しました。
これらの書籍を保存したのは、称名寺です。金沢山称名寺は北条実時によって創建されました。建設時期は定かではありません。1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源ではないかといわれています。その後、1267年(文永4年)下野薬師寺の僧・審海が開山に招かれて真言律宗の寺となりました。
北条実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、これらの収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設しました。
文庫は実時の蔵書をもとに拡充されました。金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要がでてきて収集する文献の分野も広がりました。
金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継ぎました(当時の建築物は現存しません)。
「金沢文庫」は、 1897年に伊藤博文らによって称名寺大宝院跡に再建されました。関東大震災で失われたものの、1930年に神奈川県の運営する文化施設として復興されました。
1990年に改装され、現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する歴史博物館と、国宝や重要文化財を含む金沢文庫の蔵書を分析・研究する施設とが設置されています。
称名寺の前には大きな池があり、水鳥が「隊列」をなして湖面を泳いでいました。往時、ここで僧・審海らが民衆に戒律を説き、食事を施したことが偲ばれました。
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