【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

波瀾万丈の人生-李方子

2007-12-06 01:11:56 | 評論/評伝/自伝
小田島雄次『李方子ー一韓国人として悔いなく』ミネルヴァ書房、2007年

 李王家皇太子妃である李方子(り・まさこ/イバンジャ、[1901-89])の評伝です。

        
李方子―一韓国人として悔いなく (ミネルヴァ日本評伝選)

 梨本宮守正と(鍋島)伊都子の子として生まれ、20歳で李王家最後の皇太子であった李大王の子・李垠(リ・ウン)と結婚した方子(1920)。彼らの結婚は戦前の日本が韓国を支配する政策の一環としての国策でした。このことによって「日韓融和」が喧伝されましたが、実際には朝鮮人の同化、日本人化の推進に利用されたのでした。

 方子の結婚は、本人がそのことを知る前に新聞紙上の記事から知ったというものでした(李垠は1907年に満11歳で伊藤博文が教育目的に日本に連れて来ました)。

 彼らの結婚には、悲劇が付きまとっていました。予定されていた結婚が李大王の急死で延期されましたし(毒殺説があります)、最初の子・晋は朝鮮での覲見式、宗廟への奉審の儀にともなって行われた晩餐会の後に急死しました(これも毒殺説があります)。

 関東大震災、戦中の苦労。敗戦後、日本国憲法施行の前日に公布された皇室令第12号によって王皇族としての地位と身分の喪失、さらに戦後は李承晩から疎まれ、1963年まで韓国への帰国が許されませんでした。

 帰国後、李垠と方子とは大韓民国国民となります。方子が輝くのは、夫の死後(1970年)、韓国で始めた、慈善・福祉活動によってでした(身体障害者のための明園の設立など)。

 母であった伊都子の「日記」と方子の著作『流れるままに』を下敷きに、方子の波乱万丈の人生を、大正、昭和の出来事、歴史的事件をふんだんにもりこみながら、たどった異色の評伝です。

「第1章・梨本宮方子の日々」「第2章・李王族の一員に」「第3章・動乱の時代」「第4章・流転」。巻末の「李方子年譜」は重要です。

 わたし自身は、皇族の私生活などに全く関心がありませんが、このような評伝のあり方も歴史の一こまを知る手がかりとして貴重であると思ったことでした。

おしまい。おやすみなさい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿