大阪・吹田市に「旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)」があります。
仙洞御料庄屋を勤めた、伝統と茶の湯の精神を感じるお屋敷の広いお庭には、名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られ、当主の号に因み名づけられた茶室「積翠庵」があります。そして初めて見る「四腰掛」がありました。
「四腰掛(よつこしかけ)」とは
桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われ、 どの腰掛に座っても他の腰掛に座っている人と、正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛です。
旧西尾家のお雛さま 2009年06月17日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/ad/568334a67632b3a9f6ffdae6f6eb7f7f.jpg)
旧西尾家は、間口が二間半もある大きな門ですが
当初は立派な長屋門だったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/98/c9ec3c229252a89da08070d34ae6899c.jpg)
玄関棟は極めて格式高く造られた建物で
特別の日や賓客を迎えるときに使われていたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/5e/f9af50249c3df98566284b8a7ff0c535.jpg)
お座敷に上がると、お屋根のある立派なお雛さまが
左奥の部屋にも、お雛様が飾られていました。
大きなお内裏さまとお雛さまも、広い床の間では小さく見えます。
この部屋に入ると、ボランティアガイドさんから
「作曲家・指揮者の 喜志康一氏が、この部屋で産声をあげました。」の
説明が・・・でも、喜志康一氏のことが分からないので調べました。
●喜志 康一(きし こういち) 1909年(明治42)~1937年(昭和12)
※喜志康一記念室が、甲南高等学校・中学校内にあるそうです。
〒659-0096 兵庫県芦屋市山手町31-3
仙洞御料庄屋を勤めた、伝統と茶の湯の精神を感じるお屋敷の広いお庭には、名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られ、当主の号に因み名づけられた茶室「積翠庵」があります。そして初めて見る「四腰掛」がありました。
「四腰掛(よつこしかけ)」とは
桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われ、 どの腰掛に座っても他の腰掛に座っている人と、正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛です。
旧西尾家のお雛さま 2009年06月17日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/ad/568334a67632b3a9f6ffdae6f6eb7f7f.jpg)
旧西尾家は、間口が二間半もある大きな門ですが
当初は立派な長屋門だったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/98/c9ec3c229252a89da08070d34ae6899c.jpg)
玄関棟は極めて格式高く造られた建物で
特別の日や賓客を迎えるときに使われていたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/5e/f9af50249c3df98566284b8a7ff0c535.jpg)
お座敷に上がると、お屋根のある立派なお雛さまが
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/f1/acf978da024b6bac788090dad539a6b3.jpg)
左奥の部屋にも、お雛様が飾られていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/83/0a1b9b41ac1ae27631105adc414b8680.jpg)
大きなお内裏さまとお雛さまも、広い床の間では小さく見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/73/74879737ff09142dee2d40a1e5be53c6.jpg)
この部屋に入ると、ボランティアガイドさんから
「作曲家・指揮者の 喜志康一氏が、この部屋で産声をあげました。」の
説明が・・・でも、喜志康一氏のことが分からないので調べました。
●喜志 康一(きし こういち) 1909年(明治42)~1937年(昭和12)
旧西尾家住宅は、喜志 康一氏のお母さまの実家でした。
芦屋市に転居後、甲南小学校に入学します。
当時の芦屋には、ヨーロッパやロシアの芸術家が多く滞在していたことから
文化的な空気の中で育つ過程で、12歳の頃、神戸でヴァイオリンと出会い
甲南高校を経て、17歳でスイスへヴァイオリン留学。
やがて作曲や指揮者としての才能にも目覚め
25歳で、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮しましたが
1937年(昭和12)に28歳という若さで病死しています。
芦屋市に転居後、甲南小学校に入学します。
当時の芦屋には、ヨーロッパやロシアの芸術家が多く滞在していたことから
文化的な空気の中で育つ過程で、12歳の頃、神戸でヴァイオリンと出会い
甲南高校を経て、17歳でスイスへヴァイオリン留学。
やがて作曲や指揮者としての才能にも目覚め
25歳で、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮しましたが
1937年(昭和12)に28歳という若さで病死しています。
※喜志康一記念室が、甲南高等学校・中学校内にあるそうです。
〒659-0096 兵庫県芦屋市山手町31-3