kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

初心者には「馬酔木(アセビ)」

2024年04月29日 | 花・草・木・鳥 他
ガーデニング初心者には「アセビ」が良いと知り、好きだったアセビを盆栽にしたくて3月の初めに蕾のついた「アセビ」を買っていました。


でも4月になっても、アセビの蕾は硬いままなので
蕾のままで終わるのかと心配していると
数日前に花が開いたので、嬉しくなり撮りました。(^^♪

買って来たままなので
花が終わったら、別の鉢に赤玉土を入れて植え替えます。
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多田銀銅山遺跡は「たまごパック誕生の地」でした。

2024年04月27日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
昨日の「青木間歩から台所間歩へ」で投稿した地図の中に、
黄線で囲んだ「たまごパック誕生の地」があります。


ここは、1973年に閉山した国史跡「多田銀銅山」の
一角に残る「たまごパックの工場跡」でした。



台所間歩へ向かう道で、この写真を撮った後に見た「たまごパック・・・」が気になり、帰りにも見るとその場所は「たまごパック誕生の地」(写真正面の建物)でした。



1979年11月、たまごパック第1工場の操業を開始した建物。
建物の写真は撮れなかったのでお借りしました。



猪名川町広根出身の加茂守さんが、この透明で卵が割れないように底が「八角錐型」の開発者です。




たまごパックを発明した加茂守氏は
2020年7月に85歳で逝去されています。

追記
今は「たまごパック」に入っているのが普通になって「たまごパック」のお陰で買い物の時に割れる心配が無くなっていることを忘れていました。「八角錐型」の開発者に感謝です。

多田銀銅山遺跡に行かなければ知ることが無かった
「たまごパック誕生の地」でした。
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兵庫猪名川町・多田銀銅山遺跡④「青木間歩から台所間歩へ」完

2024年04月26日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
今月はチョッと遅くなりましたが、今日お墓参りしてきました。

③ 「銀山橋から代官所跡→高札場跡→金山彦神社」の続きです。


金山彦神社の本殿(覆屋)から拝殿へ戻り「青木間歩」へ


国史跡 「青木間歩」(間歩=坑道のこと)

周囲にアオキが茂っていたことからその名が付いたといわれています。江戸時代に採掘されたと思われる手掘りの露頭掘りや坑道掘り、昭和になって削岩機などの機械を使って採掘された坑道と、さまざまな掘り方を見ることができます。



多田銀銅山遺跡の中で入ることが出来る
唯一の「青木間歩(まぶ)」です。



正面は突き当りのようですが



坑道は右へ続いています・・・






「悠久の館」で色んな資料を見てきましたが・・・









間歩を歩いて雰囲気だけ感じてきました。(^^ゞ



青木間歩の入口前から上に上がって行くと「露頭堀」を見ることが出来るのですが、金山彦神社の途中で違和感があった足が「こむら返り」になったので、行くのは控えました。"(-""-)"



台所間歩へ向かう道から「水抜通風穴跡」が見えました。

坑道を掘り進めると地下水が湧き出ます。
その水を排出する穴で、銀山川へ流していました。



もうすぐ「台所間歩」ですが



思っていたより歩いてますね。


国史跡「台所間歩」

こむら返りで、台所間歩へ行くのは無理かも・・・と
思ってましたが来ることが出来ました。(^^♪



江戸時代の文書には、言い伝えとして豊臣秀吉の時代に大坂城の(現大阪城)の台所(財政)を潤すほど銀銅の産出量があったことからその名がついたと記されています。



「秀吉の埋蔵金」伝説も、あり得ますね。(^^ゞ



立派な門構えの建物ですが
今は空き家になっている「吹屋」でしょうか。



見どころいっぱいのハイキングでした。
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兵庫猪名川町・多田銀銅山遺跡 ③ 「銀山橋から代官所跡→高札場跡→金山彦神社」

2024年04月25日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
②「多田銀銅山 悠久の館と悠久広場」の続きです。

銀山橋

銀山川の手前から、多田銀銅山代官所跡を見た後
金山彦神社・青木間歩・台所間歩へ向かって歩きます。



銀山橋を渡っていると
橋の上から左に見えるのは・・・高札場跡です。

高札は
江戸時代に幕府がきまりや禁止事項を木札に墨で書いた札で
人通りが多い場所に掲示されていました。



銀山町では、代官所の手前に高札場が置かれていました。



あの灯篭の下部分に見えるのは「天邪鬼・・・?」



少し歩いた道の左に「南無阿弥陀仏」と書かれた灯籠があり
その横に見える道は・・・? と、案内マップを見ると



ここは「甘露寺(かんろじ)」への道でした。

甘露寺は
敏達(びだつ)天皇の頃(6世紀)に開かれました。三重県伊勢の甘露寺は、多田銀銅山から移住した鉱夫達によって建てられたと伝えられています。


江戸~明治時代の約300年間、銀や銅の生産を行う
「吹屋(ふきや)」があった本町の道沿いを歩いて行きます。


金山彦神社(かなやまひこじんじゃ)

銀山川を右にして歩いていると
川に橋が架けられた先が「金山彦神社」でした。



大同2(807)年創建との社伝を持つ金山彦神社は
銀山の栄枯盛衰を見守ってきました



扁額は「山神宮」



この辺りで、足に違和感が・・・
もう少し頑張ります。(^_^;)



拝殿・御輿蔵



拝殿・御輿蔵の中通り道に掛けられていました。
何が書かれているのでしょう~ね。



覆屋の中に本殿があります。

本殿は
銀山最盛期の寛文(かんぶん)4年(1664)に建立され、鉱山の神さま「金山彦命(かなやまひこのみこと)をお祀りしています。

江戸時代には周辺村落は「銀山付村々」として、戸数3千軒ともいわれた「都市(銀山町)」を支えてきました。現存する銀山町絵図には役所や茶屋、芝居小屋などが描かれ、呉服町、魚の棚町など繁栄を偲ばせる町名も並んでいます。4カ所の番所で守られた町にはまた多くの社寺もありました。

大同2(807)年創建との社伝を持つ金山彦神社は、その中心として銀山の栄枯盛衰を見守ってきました。山の神大山祇命と金山彦命、金山比売命が祭神です。金山彦命と金山比売命は伊佐那岐・伊佐奈美両神の子どもで、鉱山の守り神、のち金属関係すべての守護神となり、奈良の吉野山の総地主神でもあり、各地に神社があります。 猪名川町のホームページより

この後は、坑道内を見学できる「青木間歩」へ向かいますが
長くなりますので次へ続きます。
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兵庫猪名川町・多田銀銅山遺跡②「多田銀銅山 悠久の館と悠久広場」

2024年04月23日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
兵庫・猪名川町「国史跡 多田銀銅山遺跡」の続きです。


「多田銀銅山 悠久の館」

健康ハイキングに参加して
初めに行ったのは「悠久の館」です。



「悠久の館」では、多田銀銅山にまつわる絵図や古文書
鉱石、鉱山道具の資料が展示されていました。



多田銀銅山は平安時代から銀や銅が掘られ、豊臣時代に直轄鉱山となり、江戸時代には「銀山三千軒」と称される賑わいでした。


地表採掘(露頭堀)のあと

1550年代前半までの様子です。



銀や銅があった所を溝状に掘り抜いた跡です。
他にも展示物はありましたが、写真禁止もありました。



館内から庭に出れるので出てみると
銀山川を挟んだ先に「多田銀銅山代官所跡」がありましたが
集合のようなので、後から見たいと思います。



お昼近くになり、悠久の館前にある広場へ行くと



悠久の広場は、お手入れが届いてとても綺麗でした。



広場の左奥に見えるのは「レンガ構造物」です。

明治30年(1897)から10年程使われていた、島根の堀藤十郎(鉱山家)が経営していた精錬所の跡で、平成23年の発掘調査で当時のレンガ敷遺構が出土しました。



お弁当を広げている前の右横にありました。
説明書では・・・

精錬所で使われた赤レンガ
堀家精錬所で出土した赤レンガには「×」の刻印が付いています。コック院から「岸和田煉瓦株式会社」製造のレンガであることがわかりました。

鍋型カラミとカラミレンガ
カラミは製錬の過程で排出される非金属の「かす」です。堀家精錬所の調査では、鍋型カラミ(中央)とともに多数のカラミレンガ(右)が出土しました。この廃物を有効利用しようと、カラミを箱型の鋳型に流し込んで作ったのがカラミレンガです。明治時代後期、各地の精錬所でカラミレンガが製造され、建物の基礎や石堀に使われました。



青木間歩(あおきまぶ)へ向かう前に
先ほどの「代官所跡」を、もう一度見に行きました。



右の図には、銀山川と代官所が描かれて
銀山川に橋も架けられていました。



多田銀銅山代官所跡は立入禁止になっています。

追記
平成26年8月に発生した台風11号及び集中豪雨により被災した為、平成28年度に銀山川護岸の災害復旧工事を行いました。代官所跡までの進入路および代官所跡法面(のりめん)については、まだ地盤が緩んでおり、崩落の危険性が高いため、安全確保ができるまでの間、立入を禁止することとします。



それでは銀山橋を渡って、青木間歩へ向かいますが
次へと続きますので、みなさんもご一緒してください。(^^♪
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兵庫・猪名川町「国史跡 多田銀銅山遺跡(ただぎんどうざんいせき)」

2024年04月22日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
今年の3月から滞っておりましたブログ更新ですが
再スタートしますので、よろしくお願いします。(^^♪
 
春に三日の晴れなしと言われますが
好天に恵まれた3月15日(金)は、ハイキング日和でした。



「国史跡 多田銀銅山遺跡(ただぎんどうざんいせき)」

銀山と言えば、島根県の2007年に世界遺産に登録された「石見銀山」が知られていますが、兵庫県の猪名川町にも「国史跡 多田銀銅山遺跡」がありました。

国史跡 多田銀銅山遺跡は
兵庫県猪名川町、川西市、宝塚市、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町一帯の鉱床群の総称です。



能勢電鉄「川西能勢口→日生中央駅」へ向かう車窓から「滝山駅」、鶯の住む森があって付けられたと思われる「鶯の森駅」に「鼓滝駅」地名から色々想像していると終点の駅に着きました。



ここは、能勢電鉄「日生中央駅」の前です。



猪名川町には、見どころが10カ所もありましたが
私たちが向かうのは、多田銀銅山「悠久の館」です。



日生中央駅前で見た、マンホールのデザイン蓋は
町の花:ツツジをイメージしたものでした。



駅前からバスに乗って「銀山口バス停」へ向かいますが
本数が少ないので、乗り遅れたら大変です。(^^ゞ



銀山口バス停で降りて「多田銀銅山 悠久の館」へ



銀や銅の生産を行う「吹屋」の面影を残す建物があり
玄関前の上にあるのは、江戸時代の消火器でした。



バス停から1㎞ほど歩いた所に「らせん階段」があり
先に行かれていた人たちが休憩していました。

らせん階段手前の遊歩道越に「大阪口番所跡」がありました。
江戸時代、旧街道が通っていて大坂方面から銀山町への入口です。大阪口番所として全盛期時代には、人や荷物の取り締まり、通行税の徴収などをして、銀山と大坂方面の重要な交通の要所だった所ですが、今は何も残っていませんでした。



「多田銀銅山 悠久の館」へは、あと500mです。

右の道を700m行けば「白金2丁目バス停」ですが
私たちは「銀山口バス停」から1.4㎞歩いてきました。



この辺りまで車が通れるようで
駐車場の前に「案内マップ」がありました。



「多田銀銅山 悠久の館」が見えてきました。



そして、この建物が「多田銀銅山 悠久の館」です。

多田銀銅山 悠久の館
〒666-0256 兵庫県川辺郡猪名川町銀山字長家前4番地の1
電話・ファックス:072-766-4800
開館時間:9時~17時   入館料:無料

長くなりますので次へと続きます。
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