kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

あべのハルカス美術館「 円空  ―旅して、彫って、祈って―」

2024年05月18日 | 美術館・博物館

あべのハルカス美術館は、2024年3月で開館10周年を迎えました
10年ひと昔といいますが、私にもアッという間の10年でした。



開館10周年記念「 円空  ―旅して、彫って、祈って―」は
開催最終日の4月7日(日)に行ってきました。


円空は
修行の旅に生涯を捧げ、人々のために祈りを込めて生涯に12万体の神仏を彫る誓願を立てたといわれ、飛神の剣のようにノミを振るい神仏を彫り続けました。

謎の多い一生ですが、その生きた証として、優しく微笑む観音像、迫力に満ちた護法神像など、今も5千体を超える神仏の像が伝わり人々に愛されています。


 第4章  祈りの森   岐阜県・千光寺
円空が住職の瞬乗(しゅんじょう)と意気投合し、しばし滞在した飛騨の千光寺に伝わる円空仏の数々です。


44 金剛力士(仁王) 立像(吽形)

開場に入って正面で最初に迎えてくれた立像は
地面に立ったままの木から掘り出されたと伝わる像です。

円空は「近世畸人(きじん)伝」の挿図のように
鉈(なた)を振るったとされています。

※ 立像の下に書かれているのは
撮影可能はこの作品と奥の第4章(千光寺に伝わる像)です。



43 両面宿儺(すくな)坐像  

千光寺を開いたとされる異形の人物。

『日本書紀』では大和朝廷に服さぬ逆賊とされているが、飛騨や美濃では土地を開拓し豊かさをもたらした英雄として伝えられている。

円空は通常の両面坐儺の姿と異なり、背中合わせではなく、正面を向いた武人の背後にもう一人の武人が負ぶさるように表現しています。

「両面宿儺(すくな)坐像」の背面



45 賓頭慮尊者座像(びんずるそんじゃざぞう)

おびんずる様と呼ばれ親しまれている仏像で、撫でるとその部位の怪我等が治る「撫で仏」として信仰されています。


47 観音三十三応現身立像(さんじゅうさんおうげんしんぞう)

観音菩薩が衆生を救済する際に


境遇や能力に応じて


それにふさわしい三十三身の姿に
応化して一切の生き物を救済するという。


48 菩薩立像(神像)

彫刻や絵画などにあらわした
神または神としてあがめるものの姿。


49 地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう)

地獄に堕ちた人々を、みずから助けに来てくれる地蔵菩薩。


50 不動明王立像  矜羯羅童子  制吨迦童子

中央:不動明王立像 (ふどうみょうおうりゅうぞう)
右:矜羯羅童子(こんがらどうじ) 
左:制吨迦童子(せいたかどうじ)
  不動明王の脇侍(きょうじ)で、矜羯羅童子と対になる。


51 弁財天座像  二童子立像

中央:弁財天座像
左右:二童子立像


52 十一面観音菩薩坐像

中央:十一面観音菩薩坐像
左右:脇侍立像


53 護法神立像(1)(2)

一本の材を4つに割、木裏を前面にして作る。この像とほぼ同寸、同じ像容2体の像が高山市飯山寺にもあり、千光寺像と同材で作られたとの伝承がある。


54 護法神立像



55 金剛童子立像

石徹白の白山中居神社に金剛童子として伝えてきた童子像。


56 跋難陀龍王像(ばつなんだりゅうおう)  難陀龍王像 

八大龍王の一人。兄の難陀龍王とともに


慈雨を降らせ、飢饉 (ききん) がないようにした。


58 宇賀神像



59 烏天狗立像

大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴を持った顔で


60 烏天狗立像

自在に飛翔することが可能だとされる天狗ですが
天狗といえば「鞍馬山」が思い出されます。


61 狛犬

下保白山神社に伝わった狛犬。頭上の三角帽子のように見える尖りは角を表すのであろう。胴部には、渦状の雲のような文様を表わす。


62 男神座像



63 如来座像  1・2観音菩薩像 

いずれも5センチ余りの小型の座像で、個人から寄進されたもの、円空は求めに応じてこのような小像を製作し、個人の家にも制作したのであろう。



1.旅の始まり~5.旅の終わり でした。
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特別展・古代メキシコ ⑦「マヤ文明~アステカ 文明」 完

2024年05月12日 | 美術館・博物館
マヤ文明

「赤の女王」をイメージした赤いマネキンに
マスクや冠に胸飾りなどの展示された空間から出ます。


 第3章-5 チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市
115 モザイク円盤

戦士が腰の後ろに着けた鏡の飾りです。
チチェン・イツァの大広場中央にあるピラミッド、エル・カスティーヨで出土した。トゥーラの戦士の石造にも表現されており、両都市のつながりを示す。


116 チャクモール像

後古典期のチチェン・イツァやトゥーラで多く見つかる彫像で、アステカにも受け継がれました。



お腹の部分がお皿のようになっており、供え物や時には生贄の心臓が捧げられることもあったとみられます。


 第4章 アステカ テノチティトランの神殿
アステカは14世紀から16世紀にメキシコ中央部に築かれた文明。



首都テノチティトラン(現メキシコシティ)は湖上の都市であり、中央にピラミッド型のテンプロ・マヨールと呼ばれる大神殿があります。


119 メキシコの国旗に使われている鷲の図表

国旗の中央に国章で描かれている鷲は国鳥で、蛇をくわえた鷲がサボテンに止まった場所に帝都(現在のメキシコシティー)を築いたという「アステカの建国伝説」に由来します。

古代メキシコでは、鷲は太陽の力
蛇は地の力を表すとされていたそうです。

123 鷲の戦士像   

テノチティトランの中枢には、太陽と戦争の神・ウィツィロポチトリ神と、雨と大地の神・トラロク神を祀った一対の荘厳なピラミッド型の大神殿、テンプロ・マヨールが建てられていました。鷲の戦士像はその大神殿の北側にある「鷲の家」で発見されたもの。高さ170㎝の等身大で迫力があります。


戦闘や宗教に重要な役割を担った王直属の「鷲の軍団」の戦士とみなす専門家が多いようですが、戦場で勇ましい死を遂げて姿を変えた戦士の魂であるとか、ウィツィロポチトリの姿を表しているとか、今でもさまざまな説があるようです。


127 トラロク神の壺

雨と大地の神であるトラロクはメソアメリカで最も重要視され、多くの祈りや供え物、生贄が捧げられた神です。水を貯えるための壺にトラロク神の装飾を施すことで、雨と豊穣を祈願しました。

テオンティワカン文明:350年~550年
マヤ文明:600~950年
アステカ文明:1486~1502年

※メソアメリカとは
16世紀のスペイン侵攻まで様々な古代文明が栄えた文化史的領域で、その伝統が今も続いています。一般的にメキシコの大部分と中央アメリカのグアテマラ、ベリーズ、エルサルバトル及びホンジュラス、ニカラグア、コスタリアの一部を指します。
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特別展・古代メキシコ ⑥「パカル王と赤の女王(会場のビデオ 写真有)」

2024年05月11日 | 美術館・博物館
 第3章-4 パカル王と赤の女王

赤の(レイナ)女王(ロハ)と呼ばれる「パカル王妃」


90 パカル王とみられる男性頭像 (複製)

パカル王墓内でみつかり、パカル王の姿とする説が強い。
頭頂部で髪を結わえ、前方に垂らした形は
トウモロコシ神の姿を真似たものと考えられる。


展示会場で流れるビデオから

「碑文の神殿」は、パカル王の没年前後に建造された。



19452年に、パレンケの碑文の神殿から発見されたパカル王墓は、マヤ世界で最初に発見された未盗掘の王墓でした。



碑文の神殿に隣接した13号神殿です。



13号神殿で
翡翠のマスクをかぶった人物の遺体が発見されました。



「赤の女王」と呼ばれる女性のお墓があった13号神殿内所です。












防腐剤の役割をする、真っ赤な辰砂(しんしゃ)の
「硫化水銀(水銀朱)」に、覆われて埋葬されていました。








赤の女王 展示会場

名 前:イシュ・ツァクブ・アハウ
出身地:ウシュ・テ・クフ

身長:約154㎝
死亡:672年11月16日 (享年50~60歳)



配偶者:キニチ・花ーブ・パカル王



息子:キニチ・カン・バフラム
   キニチ・カン・ホイ・チタム



孫 :キニチ・アフカル・モ・ナフフ
ひ孫:キニチ・クック・バフラム



女王を模した「ウイギクガイ」


ぶらぶら美術・博物館

2023年9月20日(水)BS日テレで放送された時から
楽しみにしていた「マヤ文明の至宝が上陸!」でした。

でも突然「ぶらぶら美術・博物館」の放送は説明もなく
番組が無くなりました・・・何があったのでしょう残念です。 


89 96文字の石板

キニチ・クック・バフラム(ひ孫)の
即位20周年に彫られた碑文。



西暦654年にパカル王が建てた宮殿の近くで見つかり
歴代の王の即位が記されている。



マヤの人々は優れた書跡を愛好する最高芸術品でした。


97 キニチ・アフカルを表わす文字

西暦722年に即位したキニチ・アフカル・モ・ナフブは、トニナに対して劣勢となったパレンケの栄華を取り戻すべく、新たに神殿群を造営する。本作は王の名の前半部、キニチ・アフカルを示す。


98 漆喰彫刻

キニチ・アフカル・モ・ナフブが造営した19号神殿の漆喰彫刻。マヤ神話のトウモロコシ神の子である英雄、フーン・アハウとみられる。


117 チチェン・イツァのアトランティス像

王座の下に置かれた、両手で王座と王を支える人物像。
チチェン・イツァでは身なりが異なる複数の像があり、宮廷の様々な人物を表すとみられる。


118 トゥーラのアトランティス像

トゥーラでもアトランティス像は王座の支えだったと考えられるが、宮廷人の姿をとるチチェン・イツァのものと異なり、本作は防具を着けた戦士を表している。

他にもいっぱい撮ってきましたが、長くなりましたので
「赤い女王」から、次へと続きます。(^^ゞ
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特別展 古代メキシコ ⑤「マヤ文明 都市の交流 交易と戦争」

2024年05月09日 | 美術館・博物館
 第3章ー3 都市の交流 交易と戦争
85 猿の神とカカオの土器

猿の神を表し
首には猿の好物カカオの実の装飾が見られる。


メキシコのチアバス州からグアテマラにかけての太平洋岸がカカオの主産地であり、飲料のほか通貨に使われるなど、重要な交易品であった。


80 円筒形土器

体を黒く塗り、動物の頭飾りを被った右側の2人の人物が外交使節を表し、左側の鳥の羽の頭飾りを被った人物が2人を迎えていると推測される。宮殿の外交儀礼が描かれたカカオ飲料用の容器と考えられる。


81 道標

パレンケの中心部と周辺の町をつなぐ道の開通を記念した石彫と考えられる。マヤの各地では、サク・ビフ(白い道)と呼ばれる道が、人々の往来や祭礼の行進に使われたようである。


82 首飾り   83 神の顔型エキセントリック


 No82 首飾り

マヤの人々はヒスイとウミギク貝を珍獣した。
ヒスイはグアテマラ南東部のモタグア川流域で産出し、ウミギク貝は太平洋沿岸で採取され、各地に流通した。中央のペンダントはトウモロコシの神か。

 No83 神の顔型エキセントリック(両面加工石器)

マヤの人々は、黒曜石やチャートなどで実用の道具以外に祭祀具も制作した。4つの角にみられる人の顔のような造形は、世界の四隅を守る神の姿か。


88 書記の石板  86トニナ石彫171  86トニナ石彫153


No88 書記の石板

耳に通された紙の帯は捕虜、左手の旗状のものや右手に掛けられた布は、儀式用の装束を表すと考えられる。儀式を行う捕虜か、捕虜のような姿で儀式を行う神官とみられる。

No87 トニナ石彫171

球技の場面を描いた石彫であり、中央のゴムボールの上にマヤ文字で西暦727年にあたる年が記されている。右がカラクムル王、左がトニナの王であり、両国の外交関係を象徴するものと考えられる。

No86 トニナ石彫153

マヤ地域南西の辺境トニナには捕虜を描いた石彫が特に多く、好戦的な傾向がうかがえる。褌(ふんどし)の部分に彫られた文字から、トニナの王4(名称不詳)に捕らえられたアフ・チーク・ナフブ(カラクムルの人の意)であることがわかる。


楽しみにしていた「赤い女王」も掲載予定でしたが
掲載したい写真が多いので、次へ続きます。
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特別展 古代メキシコ④「マヤ文明 都市国家の興亡」

2024年05月08日 | 美術館・博物館
 第3章ー1 世界観と知識
58 吹き矢を使う狩人の土器

絵文書に登場する体を黒く塗った狩の神か、その姿を真似た人物を描いたとみられる。双子の英雄が吹き矢で地下世界の敵を倒す創世神話など、マヤの人々にとって、吹き矢の狩りは神話上の英雄の行為をなぞるものでもあった。


59 セイバの土器

マヤの人々にとってセイバは神聖な木であり、地下世界と地上の世界、天上界をつなぐものと考えられた。木の上には、マヤの重要な神であるイツァムナーフの化身である鳥の神が描かれることが多い。


60 夜空を描いた土器  61星の記号の土器



62 金星周期と太陽暦を表す石彫

金星の基壇と呼ばれる建物を飾っていた彫刻。
左側が金星、右側が太陽暦の年を表しており、縦の棒が数字の5を、8つの丸印が8を意味する。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたることを示すと考えられる。


63 トニナ石像159

トニナの王8(名称不詳)に捕らえられた捕虜が描かれている。
碑文には、戦いに長けた王8が多数の保護者という称号をもっていたこと、西暦799年に先祖の墓に火を入れる儀式を行ったことなどが記されている。


 第3章ー2 マヤ世界に生きた人々
64 支配者層の土偶

大きな口を開けた蛇の冠を被り、壮麗な服を着て、円形の王座か椅子に座っている。このような豪奢な服装は、大きな祭祀の際の装いである。王ないしそれに次ぐ高位の男性を表した土偶であろう。


65 貴婦人の土偶  66 戦士の土偶  67 捕虜かシャーマンの土偶


No65

青色のドレスで高い位の女性で、トウモロコシ神を真似た
頭蓋変形や口元の装飾が表されている。

No66

都市のF儀礼的戦闘の闘士か儀式用の盛装をした
戦士と考えられる。

No67

帯を巻いた頭飾りは神官を表すとされるが
耳の紙帯や首と腕の縄の表現から、戦闘捕虜の可能性がある。


68 書記とみられる女性の土偶

整った頭髪、大きな首飾りや腕輪
右手に携えた文書の表現から女性の書記と考えられる。 


71  織物をする女性の土偶 72・73 紡錘車 74 紡錘


No71

大きな耳飾りと首飾りを付けた高位の女性が
機織りをしている姿。

No72・73・74
マヤの女性にとって機織りは重要な仕事であり、王族や貴族の女性も紡錘(ぼうすい)車やNo74の紡錘を用いて糸を紡いでいたと考えられる。


77・78・79  押型

赤や黒、白などの顔料が付着した例があり、布や皮膚に文様をつけるための道具と考えられるが、印(はんこ)のように紙などに使われた可能性もある。

マヤの時代には、暦や文字など高度な知識があったのですね。
長くなりましたが見たかった「赤い女王」へ続きます。
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特別展 古代メキシコ③「羽毛の蛇ピラミッド 都市の広がりと多様性」

2024年05月06日 | 美術館・博物館
 2章-3 羽毛の蛇ピラミッド






44 45 トランペット




大きい画像にしました・・・


46 嵐の神の土器




大きい画像にしました。


47 椀

オレンジ色が、きれいに残っていました。



広い場所に出てきました。


羽毛の蛇ピラミッド



40 羽毛の蛇神石彫

羽毛の蛇ピラミッドの壁面を飾った大石彫。





41 シパクトリ神の頭飾り石彫

羽毛の蛇神の波打つ胴体に、創造神シパクトリの頭飾りを配するモティーフが繰り返し彫られる。



羽毛の蛇神による戴冠式を表す。



 2章ー4 都市の広がりと多様性
48 嵐の神の壁画

テオティワカンでは、集合式住居群や公共建造物、あるいは儀礼施設に色彩豊かな壁画が数多く描かれ、都市空間を彩っていました。


49 嵐の神の屋根飾り

テオンティワカンの大半の住民が暮らしていたのは中庭をもつアパートメント式住居で、その屋根の上部に飾られた。アステカ文明で「トラロク神」と呼ばれた嵐の神は、雨と農耕を
司った。


50 香炉

香を焚く胴部と煙突、蓋からなる香炉。
型づくりのパーツを組み合わせた華美な装飾がみられる。矢や楯などのモティーフから、戦士の魂を鎮める儀礼に使われたものと推察される。


53 盾を持つ小僧

出土不明ながら、顔面装飾やペンダント、ベルト、楯などは典型的なテオティワカン様式である。テオティワカンの土偶は戦士像が多いものの、副葬品としては出土せず、子供の玩具だったかもしれない。


54 鳥形土器

発掘者により「奇抜なアヒル」と名付けられた
貝などの華美な装飾をもつ鳥の容器。



メキシコ湾岸部との交易を担った
貝商人にかかわる副葬品かもしれない。


55 人形骨壺

都市内のオアハカ移民地区内で出土。
デザインはサポテカ族のもので、胎土の分析から、その故郷モンテ・アルバンで作られたとみられる。移民地区内のリーダー、もしくは先祖や神を表わすものか。


56 三足(さんそく)土器

典型的なテオティワカン様式の三足土器。
心臓を抉(えぐ)られた生贄と、その心臓を挿したナイフを手に持つ神官または戦士が描かれる。生贄儀礼は古代国家の最大の関心事であった。


57 鏡の裏

黄鉄鉱の鏡の裏に貼られた土製の装飾。
羽を広げた鳥が、盾や投槍と共に描かれる。マヤのティカルには「投槍フクロウ」と彼らが呼んだテオティワカン王の軍事介入を示唆する記録がみられる。この王を描いた可能性がある。



テオティワカン文明、350~550年。

展示番号は、展示の順序と一致しません。
長くなりますので「マヤ文明」へと続きます。
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特別展 古代メキシコ②「 三大ピラミッドの都市遺跡 テオティワカン」

2024年05月05日 | 美術館・博物館
  第2章 テオティワカン神々の都 
テオティワカンは 
スペイン侵攻以前から話されていたナワトル語で「神々の座所」を意味します。メキシコ中央高原にある都市遺跡です。死者の大通りと呼ばれる巨大空間を中心に、ピラミッドや儀礼の場、官僚の施設、移住域などが立ち並んでいます。


 2章‐1 太陽のピラミッド

死者の大通りに面し、日没の方向を向いて建てられた、高さ64mを誇るテオティワカンで最大の建造物です。西暦200年頃に建設され、その後の増築で現在の規模になりました。

地下にはトンネルがあり、その最奥には王墓があったとみられます。王墓の上に建てられた神殿だったのでしょう。内部からは幼児の生贄の穂か生贄儀礼に関わる遺物が出土しました。このピラミッドは太陽や火などを象徴し、暦に関わる儀礼が行われたと考えられます。


20 マスク

ピラミッドの中心付近で出土。
地下に存在したであろう王墓に捧げられた奉納品か
テオティワカンで現在確認されている最古のマスク。


21 頭飾りとペンダントを着けた小立像   22 小立像

ピラミッドの中止付近で出土。
実在の高貴な人物、あるいは生贄となった人物を表すものか。No21は、頭飾りとペンダントのほか、かつては耳飾りも着けていたとみられる。


23 死のディスク石彫

太陽のピラミッド西の広場から出土。
メキシコ先住民の世界観では太陽は沈んだ(死んだ)のち、夜明けとともに東から再生すると信じられていました。



この作品は地平線に沈んだ夜の太陽をを表すと考えられています。復元すると直径1.5mにもなる大型の石彫です。


24 火の老人石彫

太陽のピラミッド頂上部より出土し
そこでの火や太陽に関わる儀式のためのものとみられる。



頭の上に火鉢を載せ、火を焚くために用いられた石像。


 2章-2 月のピラミッド

月のピラミッドは、死者の大通りの最奥にあります。
テオンティワカンで2番目に大きな建造物です。



正面には中小の神殿に囲まれた月の広場があり、背後には聖なる山がそびえています。発掘調査により、このピラミッドは西暦100年頃に建設され、その後約50年おきに、一回り大きなものへと、6回の建築が行われたことが明らかになっています。

増築時には生贄が豪華な副葬品とともに捧げられていて、その総数は37人に及びます。付近で出土した水の女神石彫などの遺物から、このピラミッドは月や水などを象徴していたと考えられます。


25 耳飾りを着けた女性立像




大きい画像にしました。


26 首飾り

「耳飾りを着けた女性立像」の周囲に
副葬品として奉納されていた。


28 モザイク立像

月のピラミッドの埋葬墓で12人の生贄の骨と共に発見されました。象徴的な法の品。胴体は蛇紋石とヒスイ輝石岩の小片により、口と目は貝殻と黄鉄鉱の小ピースで形作られています。


33 小座像

こんなに小さいですが
生贄に関わる王族を示すものでした。



大きい画像にしました。


34 耳  35 首  36 ペンダント 

マヤの生贄だった人の装飾品だった可能性が・・・

長くなりますので「羽毛の蛇ピラミッド」へ続きます。
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国立国際美術館・古代メキシコ 「マヤ、アステカ、テオティワカン」

2024年05月01日 | 美術館・博物館

古代メキシコ 「マヤ、アステカ、テオティワカン」展へ
行ったのは4月5日(金)です。



桜を楽しみにながら、国立国際美術館へ向かいました。



紀元前15世紀から後16世紀のスペイン侵攻まで



3千年以上にわたって繁栄したメキシコの古代文明の



「テオティワカン文明・マヤ文明・アステカ文明」を中心に
多彩な遺物約140件が展示されています。


  第1章 古代メキシコへのいざない
1 オルメカ様式の石偶  オルメカ文明 

半人半ジャガーの幼児像。
オルメカはメソアメリカ最古の文明であり、人頭を象(かたど)った巨大な石彫で知られている。


2 ジャガーの土器  マヤ文明

ジャガーの頭部を象った土器。
メソアメリカでは、じゃがーは王や戦士の権威の象徴であり、神秘的な力をもつものとして崇拝された。


4 クモザルの容器  中央ベラクルス

メソアメリカ低地部に生息するクモザルを象った容器。



黒曜石を目に嵌める。小型で素早いクモザルは、道化やいたずら者としてマヤの神話に登場する。


5 チコメコアトル神の火鉢(複製) アステカ文明

熟したトウモロコシの女神であるチコメコアトル神を表した香炉。手にトウモロコシの穂を二重にした形の杓を握る。


8 夜空の石板  アステカ文明

夜空を主題とする浮き彫りの石板。
両脇には金星と星、中央にはワシと兵士が表されている。戦争や生贄で亡くなった兵士の魂は、太陽と共に天球上を旅しなければならなかった。


10 球技をする人の土像  マヤ文明  

チームに分かれた選手たちが腰とお尻だけを使って(足や手を使うことは禁止されていた)ボールを操った。ボールをワンバウンドさせて相手チームのコートの奥の壁に当てればゴールだが、硬くて重いボールが体に当たり、命にかかわるような大けがをすることも少なくなかった。


11・12  ユーゴ(競技用防具)・ゴムボール

ゴムの木の樹液と熱帯朝顔の草汁で作ったボールと、腰に着ける防具。重たい石製ユーゴが実際に使われたかは不明。木や革製が実用品で、石製は祭祀具とする説もある。


13 シペ・トテック神の頭像  アステカ文明

シぺ・トテックとは「皮を剥がれた我らが主」と言う意味で、生贄となった人間の皮をまとう神。戦争とも関連づけられ、アステカの王たちは、戦争時にはこの神に扮した。


18 貴人の土偶  マヤ文明

つばの大きな帽子を被り、美しいコートを羽織った貴人の土偶。1,000年以上経った今でも鮮やかな青色は、マヤ・ブルーと呼ばれる。


19 装飾ドクロ  アステカ文明

頭蓋骨を胴体から切り離し、前頭に毛を押し込み、目のくぼみに貝殻と黄鉄鉱を嵌めたマスク。死者の世界の主であるミクトランテクトリ神を表す。

長くなりますので「テオティワカン文明」へと続きます。

※会場内作品撮影OKですが、撮ってきた写真は多くて全部は掲載できませんが、出来るだけ掲載したいと思っています。
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「ガウディ サグラダ・ファミリア展」のチケットを予約購入しました。

2023年11月15日 | 美術館・博物館


佐川美術館で「ガウディ サグラダ・ファミリア展」が
2023年9月30日(土)~12月3日(日)まで
開催されるので、予約チケットを購入しました。

滋賀県・佐川美術館へは行ったことがありますが
水の上に浮かぶ芸術作品のような美術館でした。


●公益財団法人 佐川美術館  (2012年11月30日撮)

琵琶湖を望む近江・守山市に、佐川急便株式会社が
創業40周年記念事業の一環として1998年3月に開館しました。
※水庭の奥に見えている建物は、新館の樂吉左衞門館です。



展示館の入口は、写真の右端に少し見える橋を渡って行きます。


美術館の敷地は大部分が水庭(人工池)になっていて
水の中に浮かぶように見える展示館は芸術作品です。



2棟の切妻屋根の展示館は
株式会社 竹中工務店が設計・施工・デザインが高く評価され
グッドデザイン賞など多くの賞を頂いています。

敷地面積:28,872m² 建築面積:8,372m²
(本館6,107m² + 新館2,265m²)



展示館へ通じる橋を渡ると
お出迎えをしてくれたは、佐藤忠良氏の作品 「萌」 でした。



展示館へは、この通路を通ります。
(一番上の写真、左側に見える廊下部分)



佐藤忠良氏の作品 「蝦夷鹿(エゾシカ」



佐川美術館の展示館の入り口です。



水庭を眺めながら・・・


●当時は新館だった、水庭に浮かぶ 「樂吉左衞門館」

千利休の言葉 「守破離 (しゅはり)」 をコンセプトに
美術館としては珍しい、水庭に埋設された地下展示室と
水庭に浮かぶように建設された茶室です。
(一番上の写真、水庭の奥に見える建物が樂吉左衞門館です。)

守破離(しゅはり)とは
「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本をわするな」


●水庭に埋設された地下展示室

吉左衞門X    暗闇の音   静寂の光

開催期間:2012年09月29日(土)~2013年04月07日(日)
樂吉左衞門館開館5周年記念 でした。
高谷史郎・音/ 映像 + 樂吉左衞門・茶碗

主に2000年以降に作陶された焼貫黒樂茶碗や黒樂茶碗
焼貫茶入、焼貫水指などの作品が展示されていました。

もう一度、行きたいと思っていた
「水の上に浮かぶ美術館」に行くのが楽しみです。(^^♪
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大阪中之島美術館・佐伯祐三 「第3章 ヴィリエ=シュル=モラン」完

2023年07月12日 | 美術館・博物館


第3章 ヴィリエ=シュル=モラン
1928年2月、佐伯はパリから電車で1時間ほどの小さな村「ヴィリエ=シェル=モラン」に滞在し新たな造形を模索しました。


〈煉瓦焼〉 1928年 大阪中之島美術館蔵

モランの村はずれにある煉瓦焼の窯。


〈サンタンス教会〉 1928年 三重県立美術館所蔵



〈モランの寺〉1928年 大阪中之島美術館所蔵



〈新聞屋〉  1927年  朝日新聞東京本社所蔵



〈人形〉 1925年 大阪中之島美術館所蔵



〈リュクサンプール公園〉 1927年 田辺市立美術館

脇村義太郎氏コレクション


〈オプセルヴァトワール附近〉1927年 和歌山県立近代美術館



〈裏町の広告〉1927年 京都国立近代美術館



〈モランの寺〉 1928年 東京国立近代美術館所蔵



〈郵便配達夫 半身〉1928年 大阪中之島美術館蔵

(山本清雄氏寄贈)


〈郵便配達夫〉1928年 大阪中之島美術館蔵 

(山本清雄氏寄贈)

〈ロシアの少女〉 1928年 大阪中之島美術館

(山本清雄氏寄贈)


〈黄色いレストラン〉1928年 大阪中之島美術館所蔵

(山本清雄氏寄贈)
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で
佐伯祐三が「描きった。」と家族に説明していたそうです。


〈扉〉1928年 田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション)

展示場最後の作品は、この143番目の「扉」でした。


●佐伯祐三の作品を寄贈されている「山本清雄氏」は
山本發次郎氏の没後に美術品を継承した二男の山本清雄氏が1983年に大阪市へ墨蹟、染織および近代絵画作品約600点を寄贈し、これが近代美術館構想の契機となりました。

●山本發次郎氏
岡山県出身。旧姓名戸田清。大阪船場でメリヤス業を営む山本家の長女はなさんと結婚、婿養子に入る。

1920年家督を相続、山本發次郎を襲名。メリヤスおよび整髪事業のかたわら、1929年頃より美術品収集を始め、墨蹟、浮世絵、御宸翰、近代絵画、陶器、染織などを集める。

佐伯祐三作品の真価を見出したことで知られ、第二次世界大戦でコレクションの多くを失うも戦後事業を再興し収集を再開しました。
  大阪中之島美術館より


佐伯祐三遺作展覧会 山本發次郎氏所蔵 1937年



山本發次郎氏所蔵 佐伯祐三画集  1937年



~~~~~~~~~~

1930年協会第一同洋画展来会会場にて

左より佐伯祐三、小島善太郎、里見勝蔵、木下孝則、前田寛治。


広徳寺にて(実家) 1927年 

前列左から佐伯祐三、ひとりおいて彌智子 米子、母タキ
後列左から3人目が兄 祐正
※大阪市・中津の光徳寺の住職一家の四男三女の次男


〈彌惠子像〉1923年 大阪中之島美術館(山本義太郎氏寄贈)

彌智子(やえこ)1歳頃の姿を描く。
柔らかく暖かな色彩には、わが子を見つめる優しい視線がそのまま表現されているようである。

2歳を迎える前に両親とともに渡仏した彌智子は、フランス語を上手に話すようになり、佐伯の友人たちにも可愛がられ、パリで撮られた写真には必ずと言われるほど佐伯のそばに彌智子の姿がありました。しかし、佐伯が死去して約2週間後、父と同じ結核によりわずか6歳で生涯を閉じました。


〈米子像〉 1927年 三重県立美術館所蔵

東京都・銀座の貿易商、池田嘉吉の次女として生まれる。
東京女学館を卒業後、はじめに川合玉堂に日本画を学ぶ。
1921年、東京美術学校の学生であった佐伯祐三と結婚。

家族で渡仏するが、翌年に夫祐三、娘の彌智子を相次いで亡くし、傷心のまま帰国。大正~昭和期の洋画家で、1947年女流画家協会の創立に発起人として参加。1949年二紀会委員に推挙。1967年第二十一回二紀展で文部大臣奨励賞を受賞。享年70歳。

ほとんどの作品が写真OKだったので長くなりましたが
全部はブログに残せませんので、代表作が一堂に集結した「大阪中之島美術館 佐伯祐三」は、これで終わります。
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