kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

奈良市・皇室とも縁が深い「帯解寺(おびとけでら)」

2021年11月13日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画

帯解駅(おびとけえき)は、奈良市桜井線の駅です。
帯解の地名から、どんなことを想像されますか・・・?

帯解駅より北へ徒歩5分ほどに、華厳宗の「帯解寺」があります。
平安前期、文徳天皇の皇后藤原明子がお子様に恵まれずお悩みの折、当寺本尊にご祈願され、まもなくご懐妊、無事清和天皇を安産されたことから帯解寺の名がついたと伝えられ「帯解地蔵尊」の名で親しまれています。

そして皇室とも縁が深いお寺で、美智子皇后、皇太子妃雅子殿下
秋篠宮妃紀子妃殿下も、岩田帯を献納されているそうです。


宝塚市「中山寺」

私の所では、兵庫県宝塚市の安産祈願は「中山寺」さんです。

中山さんの「鐘の緒」は、女性の大役である出産の無事安泰を祈る霊跡です。幕末には中山一位局が当山の鐘の緒を受けて明治天皇を御平産され、明治天皇勅願所として霊徳をたかめ 「安産の寺 」としても名高いお寺です。


子安山 帯解寺(こやすざん おびとけでら)
〒630-8444 奈良県奈良市今市町734
Tel : 0742-61-3861(電話応対時間:毎日9:00~16:30)


止むない事情で、2週間ほどブログを休まさせて頂きますが
時間が許される時は、訪問させて頂きますのでヨロシク。(^^ゞ
いつもご訪問して下さる方達にお礼申し上げます。
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奈良県・難読地名「京終」と、京都・難読地名「上終町」

2021年11月05日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
奈良・京終

壺阪山駅で電車を待っている時に
奈良の地図を見ていると「京終」がありました。

京終は、観光で知られる「ならまち」の南側にあります。
友人は知っていましたが、私は読めませんでした。

大阪にも読めない難読地名は多いのですが
ある時に、地名の由来として色々と知ることがあったので
奈良に来て知った「京終」の読みと、由来が気になり探すことに
難読地名「京終」は、すぐに「きょうばて」だと分かりました。


この「京終(きょうばて)」という地名は
難読地名として有名で、奈良交通バスのバス停には「北京終町」や「南京終町」といったバス停があるそうです。

初めて奈良に訪れた人は、私のように「きょうばて」と読める人は少なく、「北京終町=ぺきんおわりまち」「南京終町=なんきんおわりまち」と読み間違える人がいるそうですが、私もその中の一人だと思います。(^^ゞ


地名の由来
その漢字の意味する通り「京」の「終わり」からでした。

奈良時代の平城京から、この京終地域は南東端にあたる場所でした。平城京が無くなって次第に現在のならまち一帯が奈良のまちの中心部となってからも、やはり京終地域は奈良のまちの南の端、南の玄関でした。

伊勢神宮や長谷寺参詣の主要ルートとして多くの参詣者が通った「街道沿い」でもあり、現在でも石燈籠などにその面影が残されているそうです。


京都にもあった終わりの字がつく「京都・上終町」
縄文式土器の遺跡群落として知られるている、左京区北白川通と東鞍馬口通の交差付近の地名に「上終町(かみはてちょう)」の難読地名があります。

名前の由来は
1918年(大正7)京都市に編入の際に
北白川地域の最北端の町という意味で、名付けられました。

難読地名は、地名の成り立ちで分かりますね。
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奈良「あすか マンホール・たかとり マンホール 他」

2021年11月03日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
明日香村のマンホール

高松塚古墳壁画を見た後
鬼の俎・雪隠へ向かう道にありました。


明日香村のマンホール

中央に「明日香村」の村章
周囲に、村の花「タチバナ」と、村の木「ツキ(槻)」を図案化。


「四神の広場」のマンホール

何のマンホールかな・・・?
北の方向を指しています。


高取町のマンホール

中央に「高取町」の町章
周囲に、町の花「サツキ」と、町の木「カエデ」を図案化。


JR奈良駅周辺のマンホール   2018年10月

これは、おまけの「奈良公園の鹿と桜」です。
「大仏鉄道遺構めぐり」の帰り、JR奈良駅周辺で撮りました。

中央に、奈良市の花「ナラノヤエザクラ」と
「奈」をデザインした市章です。
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奈良・高取町は「高取藩2万5千石の城下町」と「町家のかかし巡り」

2021年11月02日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
大阪の選挙区で、擁立候補が全勝した維新は衆院で第3党になりました。
大阪10区では立憲前職の辻元清美氏が、維新新顔の池下卓氏(46)に敗れ比例復活も果たせませんでした。

辻元氏は、落選から一夜明けた1日午前7時からJR高槻駅前に姿を見せ「心からお詫びを申し上げたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。」
そこへ現れたのが「維新の池下です。おかげ様で初当選させていただきました。」そんな朝だったそうです。


高取町は「高取藩2万5千石の城下町」

キトラ古墳を出て、近鉄壺阪山駅から京都駅へ帰ります。


壺阪山駅までの長閑な550mです。


「町家のかかし巡り」と書かれた、幟(のぼり)が見えます。


車も人も少ないですね。


右側に見えたのは・・・


可愛い「かかし」さん達でした。


テレビで見たことはありましたが
こうして見るのは初めてです。


高取町は、高取藩2万5千石の城下町として栄えた所でした。

土佐街道

街道に土佐の名が付く由来は、飛鳥時代の初期にまで遡ります。
大和朝廷の都造りに駆り出された土佐(高知)の人々が帰郷できず
この地に住み着いたことが起源とされています。


当時は500軒もの商家が軒を連ねたといわれ、タイルには9種の薬草が描かれ埋め込まれているそうですが、駅へ向かったので見ていません。


信号の先に「壺阪山駅」が見えています。


家の前に、かわいい女の子がいます。


ここは、消防署の人達かな。


壺阪山駅前に着きました。


高取町には「高取城址」があり、薬の町としても賑わったようです。

高取山を正面に望む細長い城下町は、現在の上土佐と下土佐を中心に発展しました。そして寛永7(1640)年に植村氏が藩主となって以後は、山城での生活は不便になり藩主や家臣の屋敷は街道筋に移されました。


改札口前では「町家のかかし巡りのマップ」を用意して
お迎えしていました。


この電車に乗って「橿原神宮前駅」へ行って


橿原神宮前駅で乗り換えて「京都駅」に向かいます。

10月19日(火)は古墳壁画と古墳を見て、いっぱい歩いてきました。
「緊急事態宣言」が解除され、行くことが出来て良かったです。
知識が豊富な友人と一緒だったので、何倍も楽しんできました。感謝
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第21回キトラ古墳壁画公開④「終末期古墳 キトラ古墳」

2021年10月31日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
今日は、第49回衆議院議員総選挙の投開票日です。
期待して○○さんに投票してきたので、当選して欲しいです!
そして・・・仮装姿で賑わうハロウィンの当日でした。


キトラ古墳 

四神館の地下1階で、キトラ古墳石室の原寸大レプリカなどを
見てからキトラ古墳に向かいました。


キトラ古墳壁画が浮き彫りにされたプレートから
図像を和紙に写し取る乾拓ができるそうです。


キトラ古墳の円墳が少し見えてきました。


キトラ古墳の復元模型があります。
キトラ古墳も高松塚古墳と同じくきれいな丸い円墳です。

特別史跡 キトラ古墳

7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されています。
古墳時代と呼ばれる時代の終わり頃です。

この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。

発掘調査中のキトラ古墳

天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が想像されています。


キトラ古墳は2段築成の小さな円墳で
東西にのびる丘陵の南斜面にありました。


発掘調査で、墳丘は下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mと判明。


石室内からは被葬者の人骨と歯牙も発見され
分析により50~60歳代の男性1体分とわかりました。

また、金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人のお墓であったことがわかっています。


墳丘面には全体に保護盛土を施し、南海地震などの被害で大きく崩落していた墳丘の南から南西側も盛土を施し、古代の地形に近づけているそうです。


キトラ古墳が遠くなりました。
高松塚古墳に続き、日本で2番目に発見された壁画古墳です。


古墳が発見された時から行きたかった「飛鳥時代の古墳」です。(^^♪

10月19日(火)
鬼の俎→鬼の雪隠→高松塚古墳壁画公開→高松塚壁画館→高松塚古墳
文武天皇陵→キトラ古墳壁画公開→四神館(地下展示室)→キトラ古墳

最後に、高松塚古墳とキトラ古墳の名前の由来
●高松塚古墳
江戸時代末に描かれた絵図には、古墳の上に大きな松の木が描かれていたので「高松塚」と呼ばれるようになったそうです。

●キトラ古墳
中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説。古墳の南側の地名「小字北浦(きたうら」がなまって「キトラ」になったという説。またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。


キトラ古墳壁画保存管理施設のホームページは・・・こちら
それでは、京都駅へ帰る「壺阪山駅」へ向かいます。
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第21回キトラ古墳壁画公開③「地下展示室でみるキトラ古墳と壁画」

2021年10月30日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
四神の館1階の、見学用ガラス窓から「西壁 白虎・天井 天文図」を
見たあと、キトラ古墳石室などがの地下1階の展示室へ行きました。

四神の館 地下1階の展示室

写真も撮ることが出来て、楽しく学べ施設になっています。


キトラ古墳・円墳の断面図です。

石室の原寸大レプリカ

写真左が西壁で、正面が北壁、右が東壁、
そして、盗掘者が破壊した南壁は入口右側にあります。

十二支の動物たち

キトラ古墳壁画の獣頭人身の十二支は方位に合わせて各壁に配置されています。十二支の歴史的な起源は大変古く、その発生は殷(いん)代(紀元前17~11世紀)にさかのぼります。

干支は、季節や天文がめぐる状況を数えるために用いられ、初めは日を、のちに年月時刻や方位表すようになりました。現代のように「年」を十二支で記すのは、約12年で天球上を一周する木星の運行と十二支が結びつき始まったものです。キトラ古墳の十二支像は、日本で十二獣を表したもっとも古い例のひとつです。



写真左「西壁 白虎」、下に「申・酉・戌」


写真正面「北壁 玄武」と、上「天井 天文図」
下に「亥・子・牛」


写真右「東壁 青龍」、下に「寅・卯・辰」


南壁は、棺をいれた後に石室を塞ぐ閉塞石です。
「南壁 朱雀」の下に「巳・午・羊」

奇跡的に残った「朱雀(すざく)」
石室を塞ぐ閉塞石に、泥棒が入り込んだあとがありました。石を壊して孔(あな)をあけ、石室内に入り込んだのです。しかし偶然にも、その孔は石の内側に描かれた「朱雀」を避けてあけられていました。


キトラ古墳 「天井 天文図」

キトラ古墳石室の天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の科学的な天文図です。天の赤道や太陽の通り道である黄道が描かれ、大きな呪術的力をもつとされた北斗七星をはじめとする中国の星座が配置されています。円を描くためのコンパスを使ったあとも確認されており、正確とは言えないまでも、実用的な天文図をもとにして描いたと考えられています。

高松塚古墳 「天井 天文図」

『日本書記』の天文に関する記録によれば、日本で天文に大きな関心がもたれるようになった時期は飛鳥時代からです。

●四神とは、四方を司る霊獣です。(※四神の画像を追加しました。)
 東は 「青龍 」


 南は 「朱雀」


西は 「白虎」


北は 「玄武」



地下展示室では、他にもいっぱい見たのですが限が無いので
これ位にして、キトラ古墳へ向かいます。
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第21回キトラ古墳壁画公開②「国宝 西壁白虎・世界最古の天文図」

2021年10月29日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
キトラ古墳壁画公開の受付は地下1階でしたが、展示室は1階へ・・・

四神の館

国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区に
平成28年9月にオープンしました。

キトラ古墳壁画保存管理施設

写真は駄目なのでお借りしました。

高松塚古墳壁画と同じように
見学通路からガラス越しに壁画を見学します。

キトラ古墳壁画保存管理施設は「四神の館」の1階にあり
キトラ古墳の壁画や出土品を保存管理・展示しています。


第21回キトラ古墳壁画公開 「西壁 白虎・天井 天文図」


国宝「西壁 白虎」

四神の中でも白虎は、西を守る神獣です。
秋の季節を象徴し、色は白があてられています。

キトラ古墳の白虎は、細身で首が長く前脚を前方に突き出し
尾が右後脚をくぐって立ち上がる姿で描かれています。

一般的に、白虎は南側(向かって左)を向いて描かれるが
この白虎は北側(向かって右)を向いている点が特徴です。

キトラ古墳では四神の顔の向きを揃えることで
石室内の気の流れが循環することを意識した可能性もある。


国宝 世界最古の科学的な「天文図」

西壁には、十二支のうち申・酉・戌が描かれていたと考えられるが
現在、確認できるのは戌のみでした。


図像は不鮮明で、肉眼では襟(えり)を表すV字状の赤い線と
袖口を描いたと思われる赤い色がわずかに確認できるのみです。


他の十二支同様、裾(すそ)の長い着物を着て
右手には儀式用の武器を持っていたと考えられています。

地階展示室では
キトラ古墳壁画の4面マルチ高精細映像や、原寸大のキトラ古墳の模型がありました。そして嬉しいことに入場・写真自由でしたので明日へ続きます。
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第21回キトラ古墳壁画公開①「壁画公開の受付 四神の館と広場」

2021年10月28日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
高松塚古墳から文武天皇陵、そしてキトラ古墳へ向かっています。


キトラ古墳壁画公開に応募して、高松塚古墳壁画公開と
同じ日に参加証がきたので、とてもラッキーでした。(^^♪

四神の館

ここは、キトラ古墳壁画公開の受付場所なのですが


受付をするのは、地下1階だったので
「四神の館」前にある階段を下りて行きます。


この階段を下りてきました。


地下の入口が目の前にあり
入口を入って右へ行くと受付場所でした。

受付を済ませ、少し時間があったので広場へ行くことに
上写真の入口を左に行くと四神の広場に出ます。


受付を済ませ、広場に出て来たところです。


四神の広場から、左上に「四神の館」が見えています。
芝生広場は、手入れが行き届いてとてもきれいです。


今日は開催されていませんが
キトラ古墳と古代飛鳥に関わる勾玉づくりなどの
体験ができる体験学習室などがあります。


キトラ古墳地区の最も広い芝生広場です。

ここでもイベントが開催されるそうですが
お弁当を食べたり、くつろげる場所になっています。


この芝生の広場で、飛鳥駅前で買ってきた
「黒米入り あすか巻」を食べて一休みです。

今日は平日でもありイベントは無いので
公開に来られた人の姿が、チラホラあるだけでした。
公開の時間になったので、受付へ向かいます。
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奈良・明日香村「女性天皇で知られる持統天皇の孫 文武天皇陵」

2021年10月27日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
文武天皇(もんむてんのう)

高松塚古墳から下りて来たところですが・・・


文武天皇陵が近くにありそうなので行ってみます。


文武天皇は、飛鳥時代(在位697~707)の第42代天皇です。
父は草壁皇子、母は元明天皇です。


天武直系として、697年に15歳で第42代天皇に即位します。

持統天皇は、孫の文武天皇を即位させるために
女性天皇として第41代天皇につかれました・・・。
愛子さまにも、女性天皇になって欲しいですね。

時間がなくて行けませんでしたが「鬼の俎・鬼の雪隠」の近くに
女性天皇として有名な歴史に残る「持統天皇陵」がありました。

そして持統天皇で思い出したのは、2015年5月に「第62回 式年遷宮」の前にお伊勢さんまいりした時に、第1回の式年遷宮(しきねんせんぐう)が内宮で行われたのは、持統天皇4年 (690) だったことです。


桧前川(ひのくまがわ)

文武天皇陵を出ると、明日香村檜前(ひのくま)を北流する川がありました。橋の右側に書かれているのは「桧前川」ですが「ひのくま」とは難しくて読めませんね。

御園橋

橋の左には「御園橋」と書いています。


広い道に出てきました・・・右へ行けば「飛鳥駅」へ
左に行けば、次の目的地「四神の館・キトラ古墳」です。


キトラ古墳へ向かって歩いていますが
右方向の600m先に公園があるようです。


あそこに見えるのが「明日香村 近隣公園」のようです。


キトラ古墳壁画公開の受付場所「四神の広場」まで220mです。

高松塚古墳からキトラ古墳まではもう少しですが
思っていた以上に歩いた気がしますので、明日へ続きます。(^^ゞ
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高松塚古墳壁画公開④「1972年に壁画が発見された高松塚古墳」

2021年10月26日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
昨日11月25日(月)、11か月ぶりに時短営業が解除されましたね。
このまま、終息に向かうことを願うばかりです。

そして今日は、眞子さんが小室圭さんと結婚して皇室を離れ、午後にお二人で結婚会見に臨まれますが・・・女性皇族の結婚式後に夫婦そろって行われる記者の口頭での質疑応答は無くなり文書で回答するだけになりました。

眞子さまが事前に提出された記者の質問案を見て「間違った情報が真実であるかのように印象を与えかねない質問に強い衝撃を受け、多くの記者やカメラの前で回答することに強い不安や恐怖を感じたため」と説明。

お二人の会見をテレビ放送で見ましたが
「間違った情報」は、国民が知りたかった事だと思います。眞子さま抜きの質疑応答で国民が納得できる説明が欲しかったですね。


壁画が発見された高松塚古墳へ

応募していた「高松塚古墳壁画公開」のあと
鬼の俎・鬼の雪隠にも行ってきました。

スタート地点

このスタート地点は、飛鳥歴史公園館と高松塚古墳壁画公開と
高松塚古墳、キトラ古墳へのスタート地点でもあります。
高松塚古墳壁画を見たので、高松塚古墳へ向かってスタートです

芝生広場

芝生広場では、色んなイベントが開催されるようです。


今年は外出を控えていましたが
10月6日に箕面公園へ行ったので、2回目のウォーキングです。


高松塚古墳まで150mです。
この上は、休憩所になっています。

高松塚古墳壁館

高松塚古墳に向かって少し行くと「高松塚古墳壁館」があります。
ここでも「鬼の雪隠」で見かけた子供たちが来ていました。


古墳壁画の公開に行かなかった人は
ここで、壁画の模写や復元模型が見られます。


高松塚古墳

高松塚古墳壁館を出ると、左横に高松塚古墳が見えました。

発見の経緯
1962(昭和37)年頃、明日香村檜前の村人がショウガを貯蔵しようと直径約60cmの穴を、現在の墳丘南側に掘ったところ、穴の奥で擬灰岩の四角い切石が見つかったことが発端でした。


近くまで行けそうなので行って見ます。


7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳です。

下段:直径23m  上段:18m、高さ5mの二段式の円墳です。
前方後円墳は何度も見ていますが、円墳を見るのは初めてです。


1973(昭和48)年高松塚古墳は特別史跡になりました。
そして極彩色壁画は、1974(昭和49)年に国宝に指定されています。

壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され
2020年3月に保存修理が完了し公開されています。


当初は、盗掘を逃れ残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、藤原京期(694年~710年)の間と確定されました。


でも、被葬者は特定されていませんが
忍壁皇子、高市皇子、天武天皇の皇子を被葬者とする説があります。

古墳をひと回りして、元の場所に戻ってきました。
次の目的地「キトラ古墳」まで行きますので、今日はここまでにします。
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