kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

ガウディとサグラダファミリア展⑩「サグラダファミリアの軌跡 クリプタ」

2024年01月31日 | ガウディとサグラダ・ファミリア展
名古屋市美術館で「ガウディとサグラダファミリア展」が開催されています。2023年12月19日(火)~2024年3月10日(日)

私はWEB予約して、2023年年11月24日に佐川美術館開催の
「ガウディとサグラダ・ファミリア展」へ行きました。

滋賀展の佐川美術館では日時予約制でしたが
名古屋展では時間指定は無いようです。



数年前から図録は購入しないようにしていましたが
今回は購入した図録を見ながらブログに残しています。


クリプタ(地下礼拝堂)  1882‐87

ガウディ就任時(1883年11月)、ビリャール案で着工したクリプタ外周壁は付け柱の柱頭に達していた。貴重な財源を無駄にはできず、平面形は原案を活かしながらも、聖堂交差部からの大階段を端部の放射状祭室2ヶ所に移し、内陣の床を支える中央ホール天井を10m高くする。

これは採光を考慮してのことであり、クリプタ周辺にも採光と換気を兼ねた空堀を設けた。典型的なネオ・ゴシック様式のつくりで、柱頭はヴィオレ=ル=デュク著『フランス中世建築事典』を参考にした。


ステンドグラス

左:クリプタのステンドグラスはガウディの最初期の極めて時代がかったさ作品で、絵付け後に熱してガラスに密着させる技法がとられた。放射状7祭室中央の聖ヨセフ祭室(1885)が最初で、残りの6祭室ステンドグラスは1890年に設置された。

合計21個のステンドグラスはすべて同じデザイン、各窓8体の天使(祈り、歌う、奏でる、供えるの各2体)とユリが描かれる。

右:放射状祭室中央の聖ヨセフ祭室1885年完成
より有名なガウディのステンドグラスは、マリョルカ大聖堂修復(1904-14)で制作された内側のバラ窓や高窓で、3原色の色ガラスを重ねる技法が使われた。最高の出来栄えだが、費用と時間がかかるのに加え、重いという欠点があった。


サグラダファミリア聖堂   2023年6月現在

全体図の中で建設が完了している部分は白く
これから建設する部分は茶色に描き分けられています。


受難の正面


降誕の正面側



ガウディとサグラダファミリア展の①~⑨
は←でご覧ください。


●追記
キリスト磔刑像(たっけいぞう) 卓上十字架・燭台

未完の聖堂と知られますが、クリプタでの礼拝が可能で既に聖堂として機能していたからこそ、未完であることが許されたといえます。そのため礼拝用聖具が必要に応じて順次制作されました。錬鉄細工の卓上十字架や燭台などの聖具はガウディの手によるものである。

卓上十字架は十字架本体と2台の燭台の脚部からなる。この燭台のねじれ(ラセン)は最初錬鉄細工で、後に円柱で採用されたガウディの常套手段。銅・鋳鉄製のキリスト磔刑像はカサ・バッリョの祭壇用にガウディの指示で彫刻家カルロス・マニに作らせたもので、クリプタの主祭壇用にも利用された。
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京都・金戒光明寺「紫雲石 西雲院 と會津藩墓地」

2024年01月28日 | 京都
「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏」さまの続きです。


アフロ大仏さまとお別れして・・・



「會津藩墓地」へ向かいます。


紫雲石 西雲院 (しうんせき さいうんいん)  

會津藩墓地へ向かう道に「紫雲石 西雲院」があります。

會津藩殖難者墓地をあずかる、西雲院開基の「宗厳(そうごん)」は、秀吉が朝鮮に出兵の時に連れ帰った一人でした。
宗厳はのちに出家して、元和2年にこの紫雲石を賜りました。



見難いですが「紫雲石 西雲院」と書いています。

「紫雲石」は
1175年(承安5)法然上人がこの地の石に腰を下ろし、日想観をしていると、紫雲がたなびいて、悟った上人は、この岡に庵を結んだのが金戒光明寺の始まりであり「紫雲石」といわれました。

西雲院の庫裡前には「侠客 會津小鉄」のお墓があります。
會津小鉄は本名「上阪(こうさか)仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏では新選組の密偵として大活躍しました。



小鉄は、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ、戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名と、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したといわれています。


以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に
黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守しました。



そして
清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っています。


會津藩墓地

6月の第2日曜日には、京都會津会主催で「會津松平家第十四代当主 松平保久(もりひさ)」氏もご列席で、會津藩殉難者追悼法要を勤められているそうです。



墓地前の道は「真如堂」への裏道(近道)でもありました。



少し歩いていくと
正面に見えたのは、真如堂の「本堂」南側でした。
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もし驚かせたらごめんなさい!「あのナスDから目が離せない・・・」

2024年01月28日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか
今日の1月28日10時58分から、テレビ朝日の社員ディレクター友寄隆英さんの 「ナスD 大冒険」がABCテレビで放送されます。


●ここからは、2018年1月の再投稿です。

この人は世界の秘境と部族を巡る旅にでる、芸人も凌駕する強烈なキャラで登場する「黄金伝説」のプロデューサーでもある、破天荒の「ナスD」ことディレクターの友寄隆英 さんです。

初めて「陸海空 世界征服するなんて」(毎土曜日、朝日放送22時からの番組)を見たときは、現地の人から「美容に良い」と言われてナスDが塗ると全身が、真っ黒に染まったアバター状態になったのです。(それが上の写真です。)

その後で、塗った実のしぼり汁は白髪染めやタトゥーのインクに使われる染料だったことが判明。(*_*);
それからナスDから目が離せなくなりました!
ここまでは昨年(2017年)のことですが・・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2018年 新春2時間SP「真冬の無人島で2泊3日」放送のナスD。


岩の下にタコを見つけ、素手で捕まえたタコの急所を押さえるが、タコはナスDの右腕を締め上げて墨を吐き逃げていきます。

でも、右腕から離れ泳ぎだした瞬間!
ナスDの左手は、すぐさまタコを捉えます。

最後は、タコをヘッドロックして
背中におぶって強引に引きずり上げました。



そして獲れたてのタコにかぶりつくナスDです。(驚)

スタッフ:お味は?
ナス D:スゴい危ない。(^_^;)))

全く寝ないで30時間後、食料が少しなので海に行こうします。
スタッフ:疲れの色が見えますね。
ナス D:何言ってるんですか?
     全然全く疲れてないし、眠気もないですから。



潜って7分後にブダイをキャッチ!
すると海の中で調理を始め、内臓とウロコにエラを取り



そのまま、かぶりつき「美味しい!白身でほんのり甘い。」

ナスDが言うのには、海から出た瞬間、外気の方が冷たいから一気に体温が下がって低体温症になって死ぬことがあるから、ウエットスーツを脱いだ瞬間が一番危ないので、下半身を温めてから上を脱げるんです。

ナスDはちゃんとしたお料理も上手で、凄い知識があっての破天荒なのです。そしてナスDの奥さんは美人料理家の森崎友紀さんと知ってまた驚きました。

今日放送されるので
ナスDの冒険を期待してビデオ予約しました。(^^)/
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「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏さま」に会えました!

2024年01月27日 | 京都
分からないように城構えだった「金戒光明寺」の続きです。


「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏さま」に会いたくて
行ったのは、城構えだった 黒谷の金戒光明寺でした。


2020年11月28日

会いたかった「アフロ大仏さま」へ行くのには
山門を上がった正面の御影堂前を右に行きます。



そして突き当りの「新清和殿」を右へ曲がります。
(左:清和殿 右:新清和殿)



新清和殿の前を右に曲がると階段があって下りた先は
蓮池と「アフロ大仏」さまへの案内板がありました。



案内板をみて「極楽橋」の前へ向かい



極楽橋を渡って正面の階段を上がっていきますが
会津墓地参道と同じようです。


五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆい あみだぶつ)

階段を上がっていくと、突然左に見えたのは
「アフロ大仏の 五劫思惟阿弥陀仏」さまでした。

「アフロ大仏」と呼ばれているのには
通常の阿弥陀仏と違う頭髪(螺髪らほつ)が
かぶさるような非常に大きな髪型からです。



私が会いたかった「アフロ大仏」さまが
いま目の前に・・・おられます。(^^♪

「無量寿経」によると
阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。



五劫は、時の長さで一劫とは
「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。

そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。

落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」は
ここからきているそうです。

五劫思惟阿弥陀仏さまは
特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われていますが、とても綺麗で風化の跡は感じませんでした。


この後は
6月の第2日曜日に、京都會津会主催で「會津松平家第十四代当主 松平保久(もりひさ)」氏もご列席で、會津藩殉難者追悼法要を勤められている、紫雲石西雲院と會津藩墓地へ向かいます。
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京都・分からないように城構えだった「金戒光明寺」

2024年01月26日 | 京都
京都へは何度も行ってますが
「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏さま」に会いたくて
2020年に初めて「金戒光明寺」へ行きました。


金戎光明寺

「黒谷金戒光明寺」は、新選組発祥の地でもあります。

新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のために
浪士組を結成したことに始まります。


高麗門

徳川家康は幕府を盤石なものにする為
特に京都に力を注ぎました。

直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれと分からないように城構えにしました。

黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく
西側には立派な高麗門が城門のように建てられたそうです。



幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し
手のつけようのない状態になっていました。

文久二年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになりました。これが京都守護職です。



御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞のくだり、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地だったのです。



黒谷には大小五十二の宿坊があり、駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されています。



浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り
草庵を結ばれたのが、浄土宗最初の寺院のはじまりです。



階段を上がった左に鐘楼があり



上がってきた階段から振り返ると「山門」が見えます。

ここからは、京都を見渡せることができるので
要衝の地に選ばれたことが分かるような気がします。



正面の御影堂には
宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安されています。

次へと続きますが
右の道を行くと「アフロ大仏」さんと会えますので
あなたにも「アフロ大仏」さんに会って欲しいです。(^^♪
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インド・100年以上続くラジャスタン地方伝統の「ラクダアート」

2024年01月24日 | Weblog
100年以上の歴史を持つインドの伝統技法であるラクダアートは
「世界ふしぎ発見!」のTV放送で見た、ラジャスタン地方に100年以上続く伝統ある”ビガネール キャメル フェスティバル”でした。

「ラクダアート」2018年03月22日


インドのラクダアート選手権に挑戦する中に
日本人女性・武市萌美さんがおられました。

ビガネール ラクダ フェスティバルは
1.ラクダ選びから始まり。
2.毛を刈り美しい模様を描きます。



ラクダの毛を短く刈りこんでデザインしています。

これはフェスティバルに参加するため
武市さんがラクダ選びから始めた時のデザインです!

2018年、こんなに素晴らしいラクダアートで
1位を狙っていた武市さんは、残念ながら2位でしたが

2019年、インド・ビカネールで開催された世界最大の
ラクダ祭りの毛刈り部門で1位を獲得されていました。

数日前から「ラクダアート」の記事にアクセス数があり
1位を獲得されたことも含めて再投稿します。
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落葉した赤い実は「ウメモドキ?」&「初雪草」 は夏の花・・・

2024年01月23日 | 花・草・木・鳥 他
昨日は母の月命日なので、毎月のお墓参りしてきました。
母の納骨後は、週に2~3度のお墓参りでしたが
数年後には月に4度となり、今は月に1度のお墓参りです。



このお墓参りの帰り道で見た木は
「知らんけど、ウメモドキだと思います。」(^^ゞ

青空に、落葉した枝から直径約5mmの赤い実は
小鳥が好んで食べるそうです。

ウメモドキ(梅擬)は、モチノキ科・モチノキ属の落葉低木で、葉の形がウメの葉に似ていることからでした。が、落葉しているので葉はありませんが「ウメモドキ」だと思いました。

~~~~~~~~~~

ハツユキソウ(初雪草) 2009年09月06日

ハツユキソウも、ウメモドキと同じお墓参りの帰り道で見た、忘れられない花の一つですが

これは花ではなくて、緑の葉縁に白い覆輪が入った
葉色がとても美しい非耐寒性の一年草でした。



名前の由来は、葉っぱのふちの部分が真白っで
まるで雪をかぶったように見えることからでした。

この時に初めて「ハツユキソウ」を見ましたが
最近は色んな所で見るようになりました。
でも、この時に見た「ハツユキソウ」が一番きれいです。
いまは無くなっているので、この写真が最後になりました。
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大阪吹田市・旧西尾家住宅の 「茶室と四腰掛(よつこしかけ)」

2024年01月22日 | 大阪
日本を代表する音楽家「貴志康一氏」の生家でもあった西尾邸は
「仙洞御料の庄屋を務めていた 旧西尾家住宅」の続きです。


主屋を出て庭園の木立の中を歩いて行くと・・・左手に
緑を愛でながらお茶が点じられる茶室「積翠庵」がありました。


茶室「積翠庵(せきすいあん)」

この茶室は薮内流10代家元・休々斎の指導で明治26年(1893)に建てられたもので、薮内家を代表する名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られています。燕庵を模して造ることが許されるのは、薮内流皆伝を授かった者だけでした。

写真の茶室「積翠庵」は、当主の号に因み積翠庵と名づけられたそうです。離れて造られているのですが、水屋を介して巧みに結合させ一棟になっていました。



お一人のお客様の時に使われていたそうです。
(積翠庵の写真右側です。)

当時、年に数回ある「積翠庵のお茶席」は抽選だったので
遠くからも何度も申し込まれて、来られていたそうです。

抽選に当たった方は
お庭にある「四腰掛」でご亭主のお出迎えを待ちます。順番が来るとお茶室の前にある手水で、左手、右手、口の中を清め、勺を立てて持ち手に水をかけ元通りに置いてから、お茶室に向かいます。



四腰掛の説明です。


四腰掛(よつこしかけ)

桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われる「四腰掛」は
どの腰掛に座っても、他の腰掛に座っている人とは正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛でした。


宝形屋根(ほうぎょうやね)

明治三十九年(1906)ごろの建築だと
庭園に関する記録から推定されています。

私が行ったのは、2009年06月17日でしたので同じ年の
2009年(平成21年)12月8日、重要文化財に指定されました。
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大阪・吹田市「仙洞御料の庄屋を務めていた 旧西尾家住宅」

2024年01月21日 | 大阪
昨日の「ビリケン」さんの記事は、吹田市の「旧西尾家住宅」を思い出していたことで、池田市を吹田市と数カ所間違って入力したようです。(^^ゞ

「旧西尾家住宅」へは、2009年06月 に行ったことがあり、数年後にもう一度行きたいと思っていたところでしたが

行きたいと思いホームページを見ると・・・
平成30年6月18日(月)午前7時58分に発生した大阪北部地震及び9月4日(火)の台風21号の影響により、旧西尾家住宅では瓦の落下や塀が傾く等の被害があり、安全確保を優先し災害復旧に万全を期するため当面の間、臨時休館いたします。
気になっていたのですが、行く機会もなく年月が経ちました。

が・・・、令和6年元旦の「能登半島地震」で
忘れかけていた「旧西尾家住宅」の事を思い出していました。


吹田市「旧西尾家住宅」 2009年06月17日

旧西尾家は、間口が二間半もある大きな門ですが
当初は立派な長屋門だったそうです。



江戸時代の吹田村に「仙洞御料(せんとうごりょう)」の庄屋を務めていた伝統と茶の湯の精神を感じるお屋敷「旧西尾家住宅」です。



主屋 正面

仙洞御料とは天皇を譲位した上皇の所領地のことで、ここから皇室や伊勢神宮の新嘗祭(にいなめさい)などに、米や野菜のお供え物の神饌(しんせん)を献上してきました。



主屋 内部



日本を代表する音楽家、貴志康一氏の生家でもありました。



貴志康一氏は1909年(明治42)3月31日、大阪府吹田市にある母カメの実家、西尾邸で二男六女の長男として生まれました。



とてもご親切なボランティアの方が案内してくださるので
色んなことを教えて頂きました。(^^♪



吹田で最初に電話を設置したのは旧西尾家で
電話が開通した時に、1番の番号を充てられたそうです。



いま敷地内の建物は築110年を超えているため
一部の建物を除き耐震性の修繕をしていくようです。



主屋 内部(台所)

広い台所の中央にタイル貼りの配膳台と大きな配電盤が見えます。伝統と新しい考え方を上手に取り入れられた立派なお屋敷です。



台所から外へ出ると
焼却炉のような設備がある、とても広いお庭でした。

旧西尾家住宅「茶室と四腰掛(よつこしかけ)」へ続きます。
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大阪・通天閣で人気の神様「ビリケンさんは池田市出身です!」

2024年01月20日 | Weblog
今日は、2019年04月に池田市へ行った時のことです。


私の知っているビリケンさんは
通天閣の展望台で、迎えてくれる幸運の神様ですが

どこから見ても、通天閣と同じビリケンさんが
池田市の能勢街道沿いに鎮座していました。



笑っているのか怒っているのか・・・
不思議な表情と、愛嬌あるポーズが人気のビリケンさんが
どうして池田市にあるのでしょう?



近くで見ても
大きく突き出したビリケンさんの足の裏を撫でるとご利益があると言われる「通天閣のビリケンさん」と同じです。



福をもたらす”ビリケン”さんは
池田市出身で繊維商社(株)初代 田村駒治郎氏が
商標登録をされた「福のまち池田」のシンボルでした。


※ビリケンさんの誕生は1908(明治41)年。
作者は米国の女性芸術家、フローレンス・プリッツが「夢の中で見た神様」をモデルとし制作した作品が起源と言われ、当時の大統領のウィリアム・ハワード・タフトのウィリアムの愛称「ビリー」に、小さいを表す接尾語「-ken」を加えたのが名前の由来だと言われています。

足を突き出す座り方はアフリカ人、顔立ちは東洋人がモデルです。 足の裏をかいて笑えば願いが叶う福の神「ビリケン」さんは、大阪府池田市の出身でした。

gabaosanさんからコメントを頂いて
池田市を吹田市に間違って入力していたのが分かりましたので訂正します。gabaosanさん、ありがとうございます。(^^ゞ
コメント (4)
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