kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

京都・同志社大学で学食してきました。(^з^)-☆

2014年09月29日 | 京都

この素晴らしい建物は「同志社大学」内の建物の一つです。


上の建物の北側に、新しい建物が建っていたので入って行くと
重厚な階段が見えたので下に降りていきました。

ここは、同志社大学の食堂のようです・・・警備員の方がおられて
「もう少ししたら開きますので食べに来てください。」とお声を掛けて
頂いたのでかったので、承天閣美術館の帰りに寄ることにしました。


そして、これは美術館の帰りに寄って頂いた私の学食です。

まぐろ丼が一番高くて380円だったかな?
他の小鉢は、一つが100円もしなかったので驚きです!
学食は安くて美味しかったです。


ちょっぴり学生気分を楽しんできました。(^з^)-☆
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京都・相国寺「承天閣美術館の庭に色んな形の灯篭」

2014年09月28日 | 京都
相国寺 承天閣美術館の 「 伊藤若冲の名宝展」 に行った時に
美術館の入口までに色んな灯籠があったので撮ってきました。


美術館の入口(門)は、この正面の右側にあります。


が、正面の囲いの中に灯籠があります。


門を入って右手に見えたのが、この灯籠です。


ここにも


そして、ここにも違う形の灯籠があります。


これは、美術館前にあった灯籠です。
色んな灯籠があるんですね。(^з^)-☆
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御嶽山が大噴火!

2014年09月27日 | YouTube


偶然居合わせた登山家たちによる火山灰超貴重映像です。
長野と岐阜県境にある御嶽山(標高3067メートル)が噴火しています。
御嶽山の噴火は2007年3月以来のことです。
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京都文化財時別公開・揚屋建築の唯一の遺構 「角屋」

2014年09月25日 | 京都


角屋は、島原開設当初から江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である
揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に
指定されました。


台所 (重要文化財)

揚屋とは・・・
江戸時代の書物の中で、客を「饗す(もてなす)を業とする也」
とされ、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられています。


台所の次に案内された 「網代の間」(重要文化財)
 
天井板が網代の形状に組まれていることから、「網代の間」と呼ばれています。
広さは二十八畳で、欄間は障子が入った網組で飾られ天井は行灯の油煙によって
真っ黒に煤けていました。


玄関から続く廊下の突き当りです。


松の間

廊下の右にある座敷が、角屋で一番広い大座敷の「松の間」です。
松の間から主庭の臥龍松(がりょうのまつ)を観望できるため
このように呼ばれています。

広さは43畳もあり、大正14年(1925)に一部を焼失しましたが
翌年再建するが、松の間のみが国の重要文化財指定から外れました。


松の間から眺め観る主庭と臥龍松(がりょうのまつ)

右手にみえるのは、茶室の「曲木亭(きょくぼくてい)」と
その奥には、清隠斎茶席(せいいんさいちゃせき)があります。

大座敷に面して広庭とお茶席のあることが揚屋の条件となっています。
臥龍松は一本の幹から成っており、その美しさは江戸時代に描かれた
図絵にも紹介されています。 (京都市指定名勝)

しかし初代の臥龍松は大正末に枯れ、現在のものは二代目です。
平成22年(2010)4月1日、主庭が「京都市指定名勝」に指定されました。

「しょうざん」 「九條家遺構 拾翠亭」 「島原の輪違屋と角屋」は
第39回 京の夏の旅 文化財特別公開でした。 9月7日(日)
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京都島原・花街の名残を示す数少ない遺構の一つ 「福原大門」

2014年09月20日 | 京都
島原は新選組隊士がよく遊んだ花街で
壬生の南にあって、新選組屯所から近い場所にあります。


花街の内側から見た「島原大門 (しまばらおおもん)」

新選組が結成されるまでは尊王派の志士もよく訪れていたそうですが
新選組が闊歩するようになってからは、あまり近づかなくなったそうです。


京都市登録有形文化財
島原大門
慶応三年(1867)五月 建築
昭和六十一年六月二日 登録


花街の外側から見た 「島原大門」


島原のことはあまり知られていませんが、わが国最初の幕府公認の花街で
寛永18年(1641年)に、六条三筋町(東本願寺の北側)から移されました。
その当時は、祇園よりも高い格式を誇っていたそうです。

島原の名の起こりは、幕府の命により三筋町から朱雀野に移転する際に
あまりにも急な移転騒動であったことから、直前にあった九州島原の乱に
なぞらえて「島原」と名付けられたそうです。

島原の大門は、かつての花街の名残を示す数少ない遺構の一つでした。
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文化財時別公開・新選組ゆかりの島原に現存する置屋 「輪違屋 」

2014年09月19日 | 京都

10年ぶりの一般公開される輪違屋(わちがいや)さんは
元禄年間(1688~1704)の創業以来320年以上も営業されている


旧花街・島原に現存する唯一の置屋です。


中に入ると大きな階段がありました。


階段の横に入ったところです。
一階の座敷には、新選組の近藤勇の屏風がありました。


これは輪違屋の入場券ですが、写真を撮るのは禁止になっている
二階の座敷にある、襖に道中傘を貼り込んだ「傘の間」です。

同じ二階の写真禁止だったのは、壁に本物の紅葉を塗り込んでかたどった
座敷の「紅葉の間」が残っていました。 二階の部屋はすべて廊下から部屋を
見るだけだったので、部屋に入って見ることが出来なくて残念でした。
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特別公開・京都御苑 旧九條家の別邸「拾翠亭(しゅうすいてい)」

2014年09月17日 | 京都
拾翠亭は、京御苑の南の一角に建つ江戸時代後期に九條家の別邸として
建築されたものであり、当時の公家の生活と数寄屋風書院造りを現在に
伝える数少ない 貴重な文化遺産です。(五摂家の一つだった)


「九條邸跡」の説明板が立っている高倉橋のたもとです。

九條池の中央に架かる立派な反橋は、明治十五年に施工しました。
この九條池は、勾玉の形から「勾玉の池」とも呼ばれているそうです。


ここが「拾翠亭」です。

「拾翠亭」の名前は、緑の草花を拾い集めるという意味が込められており
「翠」の字には、みどりの美しい鳥のカワセミという意味もあって
この池に数多くのカワセミが飛来したことから名付けられたそうです。


初めに案内されたのは一階の広間です。

室内は十畳ほどの部屋で、床柱は皮付き丸太を用い簡素な竿縁天井です。


広間の東側に広縁があり、九條池に向かっている広縁は幅広の板を敷いた部分と
榑縁(くれ)の部分に別れています。 (広縁中央の少し段が有るところ。)

天井も広板部分は鏡天井ですが、榑縁(くれ)の部分は化粧屋根裏になってます。
天井の構成を分けることで、座の性格が違うことを暗示しているそうです。


子間
広間の北側にある茶室です。


三畳中板の子間で、

広間と子間が隣接していることから、お公家さんたちは
二つの茶室を行き来しながらお茶を楽しまれていたようです。


これは染みではなく「ほたる壁」です。


ここは、二階の座敷です。

南西隅に踏み込み床を構える、一階の広間より自由なお床のようです。


二階から見える高倉橋と、大きなサルスベリの木が見えます。


二階の窓に、丁子七宝の透かし彫りがありました。

九条家の家紋は九条藤なのですが
別紋として、この丁字紋を使っておられたのでしょうか?


お庭に出ると、一階の広縁などがよく分かります。

拾翠亭は二階建ての数寄屋造りで
屋根の上には一対の鯱が置かれてました。


九條池の北側に、厳島神社が見えてます。

広島県・厳島神社の分社で、鳥居が横に真っ直ぐではなく
「京都三珍鳥居」の 一つなのだそうです。
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京都・しょうざん庭園「酒樽茶室と裏千家設計の聴松庵」

2014年09月16日 | 京都
紙屋川を渡ると台杉はなく景色は一変してました。


酒樽に茅葺をのせた酒樽茶室です。


こちらが入口のようです。


お茶室に近いところに門があります。


特別公開の峰玉亭が見えてます。


ここにも、酒樽のお茶室があります。


聴松庵(ちょうしょうあん)

珍しく案内板がありました。
裏千家11代・玄々斎(げんげんさい)自らの設計による茶室で
「下座床(しもざどこ)」の様式を用い、突き上げ式の窓です。

明治維新、廃藩置県の際に大徳寺から何度も場所を変えて
移築を繰り返しながら、しょうざん庭園に落ち着いたそうです。
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しょうざん・京料理「紙屋川別館 湧泉閣」

2014年09月15日 | 京都
特別公開の峰玉亭を出たあと
同じ庭園内にある「紙屋川別館 湧泉閣」に向かいました。


ここは、今日のお昼を頂く「紙屋川別館 湧泉閣」です。


屋根を見ると・・・


冷製の炊き合わせに、冷やし茶碗蒸しがあります。

「梅干しだと思ったらトマトだわ」の声が聞こえたので
私も炊き合わせの赤いのを食べると、それはプチトマトでした。
品数も多く美味しかったので満足のお昼でした。(^з^)-☆


昔、タスキ掛けの職人が紙を漉いたという「紙屋川」の渓流です。
だから紙屋川の名前なんですね。


紙屋川は、天神川の上流部の呼び名で古くは西堀河だったそうです。
「天神川」の名は、中流で北野天満宮の西を流れているからだそうです。
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文化財時別公開 「しょうざん 峰玉亭(ほうぎょくてい)」

2014年09月14日 | 京都
北山台杉や紀州青石で造られた、約3万5000坪の広大な「しょうざん庭園」の
中に建つ峰玉亭は、創始者松山政雄氏が昭和30年代に建てた数寄屋造です。
南天の床柱や欅の一枚板の床板など、全国から選りすぐりの材を集めて建てられ
江戸期の狩野派の襖絵や、竹内栖鳳の掛軸が掛けられた迎賓館でした。


峰玉亭の玄関です。


初めに案内された部屋は、栖鳳(せいほう)の間
竹内栖鳳の掛軸がかけられており、部屋の名前になっています。

一枚板の床に南天の床柱、家にも南天はありますが・・・
こんなに太い南天は初めて見ました。


そして狩野派の襖絵です。


廊下の床財は「とちの木」です。
(肌触りが良くて裸足で歩きたいほど)


廊下の天井部分も、各地から集められた竹で凝っています。
(すべての天井に、凝った竹が使われていました。)


こんなお部屋も・・・


ここは、金箔の襖のお部屋です。


いま通ってきた廊下の端に鶏の襖絵が・・・
これは伊藤若冲が描いたものです。


吉井勇の間
商談に使われた部屋で、部屋の片側が書院棚のようになっています。
そこに商品(着物)を並べて、お客さんに品定めをして貰っていたそうです。


「吉井勇の間」に名付けられた、吉井勇の直筆がかけられています。


振り返えると、すぐ後ろに「円山応挙」の襖絵が・・・


応拳の名前があります。
こんなに近くで見ていいの? と思うほど近くです。(^з^)-☆


最後に案内された部屋です。
床柱は最初の部屋にあったナンテンと同じ木の下半分だそうです。


富岡鉄斎の作品があります。(富岡鉄斎の間?)


窓の外に見えるのは、坂東妻三郎邸にあった梅ノ木が移植されたものだそうです。
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