kenroのミニコミ

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線で表せる人の営み    ベン・シャーン展

2013-12-09 | 美術
「ラッキードラゴン」とは第五福竜丸のことである。たしかに福と竜を訳せばそうなるのかもしれないが、皮肉である。第五福竜丸にとって、日本にとって核は福でなかったからである。
ヨーロッパ在住のユダヤ人の多くが20世紀初頭から第2次対戦集結までの間、迫害を逃れてアメリカに渡った。が、ベン・シャーンは、もともろロシア生まれで父について子どもの頃アメリカに渡っている。であるからベン・シャーンの作品にはナチスの蛮行やヨーロッパ全土で吹き荒れたユダヤ人迫害を告発する作品は見当たらない。しかし、ベン・シャーンは戦中・戦後のアメリカで多くの美術家が人権や戦争のテーマを取り上げなかった中で、いわば直球勝負でそれらを取り上げた。ラッキードラゴンシリースは、アメリカの核実験によって被曝した第五福竜丸、そして亡くなった久保山愛吉さんを描いた、差別や戦争、現代社会の問題に正面から取り組んだベン・シャーンの答えである。
ベン・シャーンは人間を描く。それは人を選ばない。ある程度上流階級の人から労働者、そこいらの洗濯婦やたんに街で見かけた人まで。しかし、それらの人を書き分けているわけではない。みんな同じ、ベン・シャーンの眼からは同等、同列なのだ。だからいい。人を描くということは、その人の生きている証を描くということ。やがて、ベン・シャーンは無辜の死刑囚となったサッコとバンゼッティや第五福竜丸の久保山さん、キング牧師まで描き始める。それも線画で。そう、ベン・シャーンは線画が美しく、またその画力・力量を見せつけるものはない。
西洋絵画の世界ではキリスト教絵画のあと肖像画が流行り、また、崇高と見なされ、ヤン・ファン・エイク、レンブラントをはじめダヴィッドやルブランなど肖像画の名手と呼ばれた画家たちを輩出するが、印象派以降肖像画はたちまち人気をなくした。しかし、旧来の肖像画ではないがゴッホやピカソなど人を描くことにこだわった画家が20世紀に出て、ベン・シャーンもその系列につながるかどうかは分からないが、人を描くということにこだわる。線画といえども、その深い表情、劇的な眼差しは見るものを圧倒する。ケーテ・コルヴィッツが単純かつ明快に太い線画をものにしたのに対し、ベン・シャーンの線画はそれほど太くはない。それでいて見ているこちら側の戸惑いと想像力をかきたてて止まないのは、単純なその造影が描かれた者の本質をずばりと衝いているにほかならない。そして描かれる対象はこちらを見ているのも、まるで非現実的なアイドル写真が、どの方向からもこちらを見ていると感じさせる錯覚に似ていて、キング牧師も労働者も描かれているのではない、あちらがこちらを見ているのだとの驚愕に落とし込む。
肖像画の名手ベン・シャーンは広告全盛のアメリカで、デザインの世界でも成功する。それは出版物の扉絵であったり、挿画であったり、演劇のポスターでもあったりするが、やはりベン・シャーンの真骨頂はテーマではなく、線画そのものにあったのではないか。そして、自己の出自との関わりであった旧約聖書の題材など。
ベン・シャーンを社会性や反差別の文脈で語るのは容易いし、それは一面的を得ているであろう。しかし、線画やデザインの力で何が表現でき、見る人に何を想像させるのか。絵画の向こうにあるもの―時にそれは差別の問題であるかもしれない―にどれだけ興味を抱かせるか。第五福竜丸で明らかになった核の問題は、福島第一原発事故で今や日常で身近な問題となった。現代を描いたベン・シャーンの問題提起として「現代」は私たちの手に負えないものになってしまっている。

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