2019年の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」が開幕後3日で展示中止に追い込まれた事件は衝撃だった。開催を求める署名や、中止の間閉ざされた扉にメッセージを貼り付けるなど本当にささやかだが運動にも参加した。そして大村知事の姿勢と関係者の尽力で再開された展示にも赴いたが残念ながら抽選に漏れ、見ることができなかった。この中止展示=展示を許さない意図、の構図はとても単純だった。従軍慰安婦を象徴するとされる「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やす場面があるビデオ映像を快く思わない層が実行委員会や主催者の愛知県に大量の電話を寄せ、中には脅迫もあった。そしてそれを煽るかのような公人の発言(河村たかし名古屋市長、松井一郎大阪市長ら)の上に、文化庁からの補助金の不交付を後から決定するなど、表現の自由に対する政府の横槍、妨害意図が明らかだったこと、などである。そしてこれらの公の立場にある者たちの民主主義に対する考えが完全に誤っていることである。
しかし、本書を紐解けば、現代アートに対する公の妨害、牽制そして検閲などはあいトリに始まったことではなく、着々と進行しているがよくわかる。それはアメリカではトランピズム=反知性主義による、アート=エリートのお高く止まったエスタブリッシュメントへの攻撃に現在現れていて、より表現世界を狭めている。それが、「忖度」によって自らの道を狭めているのが日本の美術館、キュレーションの現実だ。「(あいトリの「不自由展」、作家、作品への圧力は)多数派とアートの専門家の無知あるいは事なかれ主義による表現の自由の圧殺である」(362頁)。
アートプロデューサーであり、キュレーションのプロである著者の姿勢、提言は明確だ。「アートとは何かをなるべく多くの人が考えるように仕向け、毒にも薬にもなるアートの性質を知らしめ、毒でさえ我々の世界を豊かにすることがあるという事実を共有するのである」(370頁)。そのためにはアーティストとアートを守りたいと思う者は、さまざまになされる公と、そういった公をたった一つの方向性に向かわせようとする者たちの攻撃に立ち向かうための理論武装と横の繋がりが重要と説くのである。この攻撃にはあいトリに見られたような補助金不交付という経済的に「干す」やり方もあれば、東京都現代美術館や広島市現代美術館であったような規制・検閲もある。さらには、その攻撃の対象が、性や暴力などをめぐるむき出しの対・表現の自由の時もあれば、この国にはそれよりもある意味超えがたい菊のタブーが存在する。
そして、公に一切頼らないとフリーにアンデパンダンとしてするやり方もあるが、これでは多様な人の多様な結びつきを狭めてしまうという意味で、アングラ化するだけという問題も指摘する。さらに著者は、ペストの時代から現在のコロナ・パンデミックの時代まで通覧し、アートにおけるウイルスとそれがもたらす分断、すなわち差別が不可分であったことも解き明かす。それは「接続と切断、再接続と再切断を繰り返せば、悪玉病原体は消え去るかもしれない。そして、アートは世界に的確に取り込まれ、ともに進化するかもしれない」(371頁)。しかし、日本学術会議の任命拒否問題にも明らかなように現実はそれとは逆の方向に進んでいる。だから境界を広げるためにあるアートは、世界を豊かにするのだからアート自らが境界を築いたり、どのような境界が持ち込まれるのか普段に警戒しなければならない。世界を豊かにするという時の「豊か」は政治的に正しいとは限らないと釘をさす。上述のように毒でさえ豊かの範疇に入りうる。
「世界は多様であり、あらゆるものが芸術表現の対象になりうるし、なっていい。制約となるのは物理法則と法律だけであり、主題や行為にタブーはない。」「(公的助成が絡むシーンでは)必要な場合に、それを観たくない者が観なくてすむように、適切なゾーニングを施すことだけだ。」(377頁)「本来は「個」の集合体である「公」は、「個」の少数派を守り、アートを守らなければならない。」(378頁)明快である。(小崎哲哉著 河出書房新社)
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