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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

人為がなす神の怒りか  現在進行形でデップが訴えるMINAMATA

2021-10-02 | 映画

熊本県には2回行ったことがある。いずれも水俣病のことを学ぶスタディ・ツアー的なもので、ずいぶん以前に行った際には、原田正純さんの講演と砂田明さんの一人芝居を観劇した。そして割と近年行った際には、水俣に生きる人の思いを受け止めるとても若い世代の永野三智さん(『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』著者 2018 ころから)にガイドをしていただいた。

だが、自分自身は水俣病にきっちりと向き合ってきたわけではない。いわゆる「公害問題」を同時代的に実感するには、その土地の出身ではない限り、かなり主体的、意識的に関わらない限り難しいのかもしれない。言い訳ではあるけれど。

ジョニー・デップ演じるユージン・スミスはかなり破滅的だ。過去の栄光を引っ下げてLIFE誌の編集長に直談判する際にはもう酒でヘロヘロ。一念発起で訪れたはずの水俣でもウイスキーの小瓶が手放せない。「写真を撮る行為は、撮る者の魂をも奪う」というアイリーンへ放つ言葉は、その時点では重みも深みも感じられない。その、どうも役立ちそうにない、水俣病の患者や支援者、運動する人たちに寄り添い、直面する姿勢は見られない実相をデップは演じきった。信頼とは、相手の立場まで寄り添い、自己を居させる、上から、客観的ではありえないとの姿を示したのだ。

ユージンとアイリーンの写真集「MINAMATA」の象徴的作品となった、胎児性水俣病被害者の智子さんと母親の入浴シーンはピエタであった。その姿は、誰も侵すことのできない聖性を備えていた。しかし、そのように感じること自体、ユージンの写したかったものと、写された対象を蔑ろにする自己本位な感傷であるのかもしれない。ところが、初めてサン・ピエトロ大聖堂のピエタと対面した時、無神論者の自分が、そのあまりの神々しさや荘厳さに打たれて頬に涙が伝わったことが、智子さんの入浴シーンでも経験したことは本当だ。

映画では、チッソの工場前で大怪我を負ったユージンが、その包帯だらけの手でレリーズまで使用して、なんとか智子さんを写そうと苦心する様が描かれる。しかし、事実は大怪我したのは智子さんを撮った後のことであるそうだ。ここにドキュメンタリーではなく、作り物としてのフィクションに過ぎないと一蹴することは容易い。しかし、デップはドキュメンタリーを撮ろうとしたわけではないし、ユージンを演じ、描くことで「映画の持つ力をフルに活用して、伝えたいメッセージを発信することが我々の願望」であったのだ(2020年ベルリン国際映画祭公式記者会見から)。その「伝えたいメッセージ」とはなにか。それは環境活動家や反原発運動のリーダーでもない一俳優にすぎないデップが、その素人くささゆえに訴えた人為による悲劇を2度と起こしてはならない、ということだろう。

エンドロールに流れるテロップでは、世界中で繰り返されてきた公害や、薬害、原発事故などさまざまな環境汚染と人身破壊の歴史が続いていく。そこにはMINAMATAと並ぶアルファベットでの世界標準の表記となったFUKUSHIMAもある。そしてこれらは現在進行形であり、人為がなす神の怒りの発露なのかもしれない。映画の後援を熊本県はしたが、水俣市はしなかったそうだ。地元の人、患者らが抱える現在進行形の重みと苦しみが続いていると思える。

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