kenroのミニコミ

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そう、関西最大の美術運動なのに「未知」であったのだ。「すべて未知の世界へ GUTAI  分化と統合」

2022-12-06 | 美術

ちょうどゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館2022.10.15~2023.1.29)で見たリヒターの〈アブストラクト・ペインティング〉(「抽象画」というとそのままだが、作品名(シリーズ)である。)でスキージ(squeegee:平ヘラ)が使用され始めたのが1980年代だと知ったことから、名坂有子が具体美術協会で活動しだした1960年代にスキージを使用した同心円状の作品を多く制作していたことに驚いた。ただ、両者の間には制作手段(道具)がたまたま似ていただけでその意味合いは大きく異なるだろう。リヒターの「かたちを成してはまた別様に転じる」手法は「20世紀後半のモダニズム絵画が志向したような絵画の自律性とは異なり、メディウムとしての絵具が自律へと解放されている」からだ(「「絵画は役に立つのです」−リヒター作品における「もの」と「ビルト」、「複数性」と「真実性」をめぐって」鈴木俊晴『ゲルハルト・リヒター展図録』2022)。

「絵画の自律性」とは何か。筆者の拙い理解で言うと、絵画はそれ自体で完成形であり、他の要素に左右されない、という考え方と言っていいだろう。ここでいう「他の要素」は、典型的には明確な政治的主張や美術界にとどまらない既存の体制に対する反抗といったものが考えつくだろう。それは、戦争中自由な表現が圧殺され、体制が認める表現しか選択しえなかった世代が、戦後、民主主義の世の中となり、圧殺の反動として開花させた表現でもあった。大正期に花開いた近代日本美術の中の前衛は、徐々に体制側に組み込まれ、ある者は従軍画家のように戦意高揚の片棒を担ぎ、ある者は積極的に美術界の国家主義化、天皇制軍国主義発意の頭目となった。そして、1941年にシュルレアリストの福沢一郎と瀧口修造が治安維持法違反で検挙されるに及んで、日本の前衛美術は終焉した。

 戦後、前衛をはじめ画家らは活動を再開し、戦争下の鬱屈を表現したり、明るい希望を画布に託そうとした。そういった中で共産党など左翼陣営の復興に合わせて、労働運動・農民運動をサポートする絵画(ルポルタージュ絵画)や、より自由な表現を求めてアンデパンダン展への「過激な」出品なども相まった。これらはいずれも「他の要素」を背景とした、美術作品で自己の主張を背景にした表現活動と言えるだろう。

そういった時代背景の中で、占領下も終わり、戦後10年近く経った時、「(絵画の)自律性」を高らかに宣言した美術運動が始まった。1954年発足の、政治も美術もあらゆる近代的価値の中心地である東京ではなく、関西、それも大阪ではない地芦屋と言う街で勃興した「具体美術協会」(「具体」)である。指導者・吉原治良の宣言は言う。「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。具体美術に於ては人間精神と物質が対立したまま、握手している。」(「具体美術宣言」『芸術新潮』1956年12月号)。折りからのアメリカ抽象表現主義の理論的バックボーンともなった、絵画における歴史的文脈を拭い去ろうとしたフォーマリズムを、さらに戦後・解放後の日本の美術事情を加えたメディウムの力、表現そのものの力を強調する物言いと言えるであろう。

本展では、大阪中之島美術館で具体の個々のメンバーの表現の独立した挑戦を「分化」で、国立国際美術館では、その個々のメンバーが団体として「統合」する様を読み解く。具体の作品がそれぞれに散らばっていたものを集合、系統立てて知ることができるのも2館を跨いだ本展の特徴だ。戦後、関西が産んだ最大の美術運動であるのに、美術界以外の一般鑑賞者にはとっつきにくい感もあった具体の総合展。心して見ていきたい。(すべて未知の世界へ  -GUTAI 分化と統合 展は、1月9日まで)

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