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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

平板さはエロチズムを駆逐する? バルテュス展

2014-07-20 | 美術
ルネサンスというとどうしてもレオナル・ド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロのいわゆる3大巨匠ばかり取り上げられて、日本のルネサンス人気もそれらに収斂しがちであるが、これら3人が活躍した15世紀前後はルネサンスの「盛期」であって、その「盛期」が生まれるための前段階はそれほど関心が持たれていないように思う。ルネサンス「盛期」の前段階とは初期ルネサンスとくくられる15世紀初頭から中ごろである。ルネサンスの端緒については諸説あるが、イタリアルネサンスのそれこそ、萌芽というべき14世紀のジョットはベネチア近郊のパドヴァに大きな仕事を残したし(スクロヴェーニ礼拝堂)、ピエロ・デッラ・フランチェスカはサンセポルクロという小都市で活動した。フィレンツェはルサンスが花咲いた地であって、ルネサンス総体の土地ではないのだ。ピエロ・デッラ・フランチェスカは、画家と同時に数学者であって、だから綿密な遠近法を確立したのであろうと思う。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでお決まりであった大事な主題を大きく描くという、実際に見える様相とは大きく違った宗教画に、奥行きを与えた画期的なものだった。そのピエロ・デッラ・フランチェスカに大いに刺激された20世紀の画家がいた。バルテュスである。
バルテュスというとどうしても、偏見としてのロリコン表象であるが、それはある意味当たっているし、同時にバルテュスを説明するには不十分であると思う。まあ、観念としてのロリコンで何が悪いというのもあるが、バルテュスはあくまでロリコン表象と「見える」のであって、ロリコンかどうか(というか「ロリコン」の定義が、バルテュスの描いた時代とは異なりもはや明らかではない)は問題ではない。というのは、バルテュスの興味は「少女」の可能性であり、性志向の対象それではない、と思いたいからだ。
ぎりぎりなのだ。バルテュスの作品の多くに現れる一糸まとわぬ女性の裸体より、少女が足を開いてパンツ丸見えの肢体でまどろむ様の方がよっぽどエロチックであると思うのは、これら男性視線故である。そこには窃視の危うさのため、実際の性妄想(妄想自体が実際ではないが)がほとんど妄想までもういかない、妙に乾いた女性一般像になってしまうという見せ方である。例えば純なマリアが絵画の一素材として現れたとき。ピエロ・デッラ・フランチェスカである。
バルテュスはイタリア旅行でピエロ・デッラ・フランチェスカの作品に大きく感銘を受けたという。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでの宗教画に比べると格段に訴求力がある。しかし妙に覚めているのも事実だ。遠近法とは、物語を物語らしく見せるために、時間の前後をはっきり示したものであるが、同時に一つひとつの物語を感情的に訴えるものでない。そして、時間的説明を明確にしようとするあまり、逆に平板に見えてしまうことさえある。数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカはこの「感情的」にはむしろ興味がなかったのかもしれない。聖書にあらわれる一場面を切り取った場面が遠近法によって「感情的」に成功したのは、盛期ルネサンスのレオナルドの「最後の晩餐」などで明らかある。
そういう眼で見るとバルテュスの絵もエロチックを描いているのであろうのに、妙に「感情的」とはほど遠い。時代もあろう。バルテュスが活躍した20世紀初頭はシュールレアリズム絵画が花咲いた時代でもある。だから、バルテュスの作品はどこか、レジェなどキュビズム、マグリットをも想起させる。バルテュスは2度の兵役を経験しながら命長らえた。彼が生きた同じ時代に活動した、例えばドイツ表現主義の若い才能マッケやマルクらは戦争で亡くなった。戦争で命落とすことなく、生きて描いたバルテュスは、それがロリコンと物議をかもしたとしてしても生きて描いてよかったと思う。(夢見るテレーズ)
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西洋美術の流れを堪能 ポルディ・ペッツォーリ美術館展(あべのハルカス美術館)

2014-07-06 | 美術
イタリア美術が、その時代によって興隆した地域が変遷したのは周知のことである。ローマがルネサンス美術の中心となったのはミケランジェロやラファエロがヴァチカンの仕事をしたからであって、長いルネサンスの息吹の中では一部に過ぎない。けれど、ルネサンスというとフィレンツェかローマ。少なくとも観光地としてのイタリア・ルネサンスを見る目はそれ以外には少ない。
ところが日本でも大人気のダ・ヴィンチは、フィレンツェでは工房修業時代を含め、のちの成功譚としての時代ではない(ダ・ヴィンチのフィレンツェ時代の偉業は後世の発見・評価によるところが大きい。)。むしろダ・ヴィンチがその名を馳せたのはミラノの時代である。それは「最後の晩餐」で明らかだ。教会の食堂壁画として描かれた作品は、幾度の受難にもかかわらず今世紀まで遺った。そして500年の時空を超え世界遺産として愛でられている。それはさておき、イタリア美術の真骨頂はフィレンツェ、ローマだけではない。ということを言いたかったのだ。ミラノ、ヴェネチア、シエナ…。
今回、日本ではなじみの薄いミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館の収蔵品が公開されたことをうれしく思うとともに、西洋美術に対する関心がここまで広がったのかと感慨深く思う。というのは、一口に西洋美術といっても、多くの日本人は印象派かそれ以降の近代美術、あるいは宗教画とは思われていないフェルメールやレンブラントなどの風俗画を好んでいて、宗教美術は「分からない」とファンが激減するからだ。しかし、ダ・ヴインチ人気などでキリスト教美術に対する理解が増し、ファンが増えたのも事実だ。中でも「受胎告知」や「最後の晩餐」、「聖母子」などはあまりにも題材として有名で、ダ・ヴィンチ以外の作者のものであっても何が描かれているか分かるので、多くの人にとってそれなりに楽しめる。これら新約聖書の世界までは理解できるとしても、キリスト教以前となる旧約聖書の世界、キリスト教関連のお話であっても、イエスやマリア以外の聖人となればよっぽどの知識がないとお手上げである。かくいう筆者も聖フランチェスコなどはなんとなく分かるが、聖カタリナとくると誰だっけ?となる。
そういう意味で、今回ポルディ・ペッツォーリ展では、聖母子などのお決まりの題材から、この(アレクサンドリアの)聖カタリナ、聖ヒエロニムス、さらにはキリスト教美術の中でも特に日本では縁遠い中世の祭壇画などもあり、より広い意味で西洋美術を楽しむことができるだろう。
ミラノの貴族であったポルディ・ペッツォーリが19世紀私邸を美術館として遺すまでのコレクションが上記中世美術から、イタリア・ルネサンス、北方ルネサンス、バロックそして工芸品、タピストリーまで揃えた見事なものであったこと、そして少ない展示のなかで西洋美術の一部を堪能できたと感じさせるセレクトであったことが本展を成功に導いているのだろう。ただ、ミラノの美術館に実際足を運んだものとして、館の雰囲気と収蔵品の見事さは本展では実感できないとも思う。
ミラノには、ポルディ・ペッツォーリ美術館のほかに本展でも紹介されているヴェネチア派の作品が多く所蔵されているブレラ美術館、フランスゴシックとは趣の違う大聖堂、そして「最後の晩餐」を擁するサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会もある。モードに関心のない美術好きにも訪れたい街ではある。(「貴婦人の肖像」ピエロ・デル・ポッライウォーロ 1470頃)
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日本人の西洋絵画体験はここから始まったのかも  「夢見るフランス絵画」展

2014-05-05 | 美術
言うまでもなく、英語のimportは輸入、exportは輸出である。接頭辞であるimはinと同義で内に入れること、exは外に出すこと。印象派はimpressionism、表現主義はexpressionismと英訳されるが、千足伸行成城大学名誉教授の本展解説によれば、印象派は革新的と見えながら、その前の絵画芸術(新古典主義やロマン主義)の主流であったアカデミーのサロンから逃れることなく、いやそのエッセンスを取り入れ、離れることなく、時にサロンへの上梓を希求した印象派の若い画家たちの姿があったということ。つまり、印象派は古いサロンの手法を完全否定するのではなく、内包化しつつ新しい表現=戸外に出て描いたのだが、その象徴的な出来事は、たとえばモネはずっとアカデミーに出品し続けて認められようとしていたとか、サロンと印象派の展覧会に両方出品し続けてきた画家がほとんどであるとか。ドガのようにサロンに出す奴は、新しい絵画を目指すものとして許さん、みたいな印象派原理主義者は少数派で、千足さんによるとサロンは印象派にとって「必要悪」であったとのこと。だから、ドガのようなサロンを全否定した画家はほとんどいなくて、印象派の活動後何年もしてからサロンに出品、入選したことを率直に喜んだモネのような画家が残ったとも言えるのだ。
一方、表現主義は内に取り込むのではなくて、外への放出が彼らの立ち位置であったこと。表現主義の範囲をどこに求めるかで変わってくるが、例えばフォービズムのブラマンクやドラン。アカデミーのサロンへのこだわりは、印象派創世記の画家ほどなく、むしろその後サロンを完全に解体した近代絵画の流れ、ピカソらのキュビズム、バッラらイタリア未来派、そしてノルデらドイツ表現主義への萌芽を感じさせる。
本展の要諦は、「夢見るフランス絵画」と名付けられただけあって、日本(人)のフランス絵画人気もしくはフリークを物語るものであって、上述の印象派からの美術史的分析というより、フランス近代美術に日本(人)がどう惹かれてきたかという日本側から見た、いわば一方的なフランス画壇への憧憬である。であるから、印象派の次はルオー、ブラマンクといったフォーブの画家が取り上げられるが、エコール・ド・パリの画家である。「パリ派」の実態はベラルーシから来たユダヤ人シャガールや、ポーランド人のキスリング、イタリア人モジリアニ、そして日本人フジタなどパリに惹かれてやってきた異邦人の集合体であった。もちろん今回の出展者の蔵ゆえユトリロやローランサンなどフランス人の作品も多いが、むしろこの「個人」がエコール・ド・パリの面々個人々に深い興味・造詣があったわけではなく、入手しやすいものを入手したのか、あるいは、ユトリロ、ローランサンといった「分かりやすい」作品を好んだのなのかもしれない。
いずれにしても、日本人がフランス絵画を収集しようとするとき、「パリ」という響きに惹かれて、先述の美術史的観点からの欠落性、不連続性はあるにせよ、日本にパリを持ち込もうとしたのは間違いないであろう。もともと日本の近代画壇を背負った人たちは黒田清輝をはじめとして、みんなパリを目指したのであるから。そういった意味で、日本ではパリをいただくフランスに「夢見た」のは故なきことではなく、それが西洋絵画導入への嚆矢となったのはやはり否定できないのである。(ルノワール「ド・ガレア夫人の肖像」)
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日々変わりゆく表現こそ使命  ポンピドゥー・センター・コレクション

2014-01-19 | 美術
ポンピドゥー・センターは正確にいうと美術館のみならず舞台芸術や映像、研修センターなどを含む複合施設であって、その中の国立近代美術館は一セクションに過ぎない。しかし、パリ市民でない限りポンピドゥー イコール美術館である。
ルーブルが印象主義前、オルセーが印象主義、そしてポンピドゥーがその後ときっちり棲み分けがなされているパリの三大国立美術館のなかで、おそらくポンピドゥーが一番知名度も低く、観光客が訪れないところであろう。しかし、世界中の近代・現代美術館 - MoMA、テートモダン、ピナコーテク・モデルニ ― と比べても最大級の規模である、と思う。だから以前パリに行った時もオルセーには行かずポンピドゥーには行ったことがある。
現代美術館である限り、収蔵(候補)作品は日々増えていく運命にある。そのなかで何を収蔵あるいは展示し、鑑賞者にプレゼンするかが問われている。数年前ポンピドゥーを訪れたときは女性作家に焦点をあてた特別展をしていて、ニキ・ド・サンファルの巨大な作品などあり満喫したが、今回兵庫県立美術館に来た作品群はニキよりも新しいものが多く、意欲的、挑戦的である。
展示作品の中、日本で一般に知られている作家は少ない。強いていえばゲルハルト・リヒターやサイ・トゥオンブリー、ピエール・スーラージュなど戦前生まれの人たちであろう。この人たちは言わばドローイングの名手である。リヒターの大きな筆で描いた後わざと横に刷ったような、まるで心電図か何かのような流れるドローイングは有名だが、トゥオンブリーは抽象表現主義の大家。ポロックなど天地左右が不明な絵画は抽象表現主義の特徴だがトゥオンブリーの作品も、どちらを上にしてもいいように見える。だから隅々まで筆を走らせた繊細さこそ、これらドローイングの本道としてすばらしい。ドローイングというと大きな筆で無計画に書き殴ったもの、というのがまだまだ現代美術全般に対するものも含め、その印象ではないだろうか。しかし、ポロック、トゥオンブリーを見れば分かるように綿密に計算され、どの方向からの視線にも耐えうる迫力に違いない。
50~60年代がドローイングの時代であれば、その後はインスタレーション、そしてビデオ等映像を中心とした見せ方の時代である。今回出展された作家は総じて若い。平面作品でいえば、無機質な工場風景画、疎外感を露わにしたヴィルヘルム・サスナレウは72年生まれ、モンドリアンを思わせる単色のブロックの張り合わせだけで複雑な立体図を想起せしめたファラー・アタッシは81年生まれである。映像ではアルプスの山並みとチェロで対話するツェ・スーメイは73年生まれ、のぞき見を罪悪感なく経験させたレアンドロ・エルリッヒも73年生まれ、水中で舞う女性の衣が見飽きさせないジャナイナ・チェッペ(この作品が今回お気に入り!)も73年生まれ。インスタレーションでは見る者の触覚や嗅覚まで喚起させるエルネスト・ネトは64年生まれである。それほどポンピドゥー・センターが日々、現代美術に“現代的に”向きあい、現代の地位を失わない探究と好奇の姿勢を持ち続けているからであろう。
一つひとつの作品の面白さを解説するのは難しいが、じっくり見れば味わい深い作品ばかりである。現代美術という巨大で何を描こうとしているのかよく分からないから短時間で流してきたという人こそ見てほしい、見れば見るほど不思議なコンセプトにあふれている世界を。たとえそれがパリの何百分の一しかでないとしても。(エルネスト・ネト「私たちはあの時ちょうどここで立ち止まった」2002)
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線で表せる人の営み    ベン・シャーン展

2013-12-09 | 美術
「ラッキードラゴン」とは第五福竜丸のことである。たしかに福と竜を訳せばそうなるのかもしれないが、皮肉である。第五福竜丸にとって、日本にとって核は福でなかったからである。
ヨーロッパ在住のユダヤ人の多くが20世紀初頭から第2次対戦集結までの間、迫害を逃れてアメリカに渡った。が、ベン・シャーンは、もともろロシア生まれで父について子どもの頃アメリカに渡っている。であるからベン・シャーンの作品にはナチスの蛮行やヨーロッパ全土で吹き荒れたユダヤ人迫害を告発する作品は見当たらない。しかし、ベン・シャーンは戦中・戦後のアメリカで多くの美術家が人権や戦争のテーマを取り上げなかった中で、いわば直球勝負でそれらを取り上げた。ラッキードラゴンシリースは、アメリカの核実験によって被曝した第五福竜丸、そして亡くなった久保山愛吉さんを描いた、差別や戦争、現代社会の問題に正面から取り組んだベン・シャーンの答えである。
ベン・シャーンは人間を描く。それは人を選ばない。ある程度上流階級の人から労働者、そこいらの洗濯婦やたんに街で見かけた人まで。しかし、それらの人を書き分けているわけではない。みんな同じ、ベン・シャーンの眼からは同等、同列なのだ。だからいい。人を描くということは、その人の生きている証を描くということ。やがて、ベン・シャーンは無辜の死刑囚となったサッコとバンゼッティや第五福竜丸の久保山さん、キング牧師まで描き始める。それも線画で。そう、ベン・シャーンは線画が美しく、またその画力・力量を見せつけるものはない。
西洋絵画の世界ではキリスト教絵画のあと肖像画が流行り、また、崇高と見なされ、ヤン・ファン・エイク、レンブラントをはじめダヴィッドやルブランなど肖像画の名手と呼ばれた画家たちを輩出するが、印象派以降肖像画はたちまち人気をなくした。しかし、旧来の肖像画ではないがゴッホやピカソなど人を描くことにこだわった画家が20世紀に出て、ベン・シャーンもその系列につながるかどうかは分からないが、人を描くということにこだわる。線画といえども、その深い表情、劇的な眼差しは見るものを圧倒する。ケーテ・コルヴィッツが単純かつ明快に太い線画をものにしたのに対し、ベン・シャーンの線画はそれほど太くはない。それでいて見ているこちら側の戸惑いと想像力をかきたてて止まないのは、単純なその造影が描かれた者の本質をずばりと衝いているにほかならない。そして描かれる対象はこちらを見ているのも、まるで非現実的なアイドル写真が、どの方向からもこちらを見ていると感じさせる錯覚に似ていて、キング牧師も労働者も描かれているのではない、あちらがこちらを見ているのだとの驚愕に落とし込む。
肖像画の名手ベン・シャーンは広告全盛のアメリカで、デザインの世界でも成功する。それは出版物の扉絵であったり、挿画であったり、演劇のポスターでもあったりするが、やはりベン・シャーンの真骨頂はテーマではなく、線画そのものにあったのではないか。そして、自己の出自との関わりであった旧約聖書の題材など。
ベン・シャーンを社会性や反差別の文脈で語るのは容易いし、それは一面的を得ているであろう。しかし、線画やデザインの力で何が表現でき、見る人に何を想像させるのか。絵画の向こうにあるもの―時にそれは差別の問題であるかもしれない―にどれだけ興味を抱かせるか。第五福竜丸で明らかになった核の問題は、福島第一原発事故で今や日常で身近な問題となった。現代を描いたベン・シャーンの問題提起として「現代」は私たちの手に負えないものになってしまっている。
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「あなたの肖像」のあなたとは私である   工藤哲巳回顧展

2013-12-03 | 美術
草間彌生の初期作品に無数のビニール製の突起物が咲いている!作品がある。見ればすぐ分かる。男性器だ。草間には無数の精子を想起させる作品もあり、作品を作る上で男性「性」にただならぬ関心があったことが窺われる。芸術家にとって性の位相は作品を創造するときのテーマであり、根源であり、もっとも描きたい真理であるのかもしれない。そう言う意味では工藤哲巳が男性器をしつこく作製、表現形態としたことは彼の言う「あなたの肖像」という、えぐって欲しくない個の性的存在、と同時に人間の本質的表象を鏡に映し出すようでいて、あまりにも現実的そして居心地が悪いものである。
「あなたの肖像」とは何か。それは、工藤が描く作品を見ているこちら側である。では工藤の描くあなたは、ペニスであり、皮膚だけになった腕であり、足であり、眼球であり、脳であり、唇である。要するにヒトを形作るのに典型的な表層と機能、をフィーチャーして「これがあなたです」と言っているに等しい。不思議に思ったのは、男性芸術家(というか男性が多いが)がわざと、あるいは、執拗に描く女性性器がないこと。工藤にとってペニスは重要であったがヴァギナはさほど重要でなかったということか。それはそれで、工藤のこだわりでいいのだが、圧倒的なのはそのしつこさである。
繰り返し、繰り返し乱立する男性器。乱「立」どころか、小さな、しょぼい?ものまである。しかしこれこそ現実で、それは皮膚を表す手や足型、脳皮、眼球にいたるまで人間がこれらの要素で出来ているにもかかわらず、それに無関心、無感覚で特に性器や眼球、唇は性行為と不可分の対象で、それらこそ人間を形作っている本質であると、工藤は訴えるのであろう。
ところで、工藤が活動し始めた1950年代といえば、阪神間で旧来の美術からアートへの萌芽が開いた戦前世代の具体の面々が活動し始めた頃。しかし、具体としての活動は60年代になってから。工藤の先進性、先取性、アバンギャルドなテイストが窺われる。
なぜ、芸術家は性器にこだわるのか。それは、人間の本質を絵画や彫刻で表わそうとするとき、自己の表現意欲が性欲と不可分であるからとの説明が可能である。70歳を超えて結婚したピカソをはじめ、衰えることを知らない欲望の発現は性欲がもっとも表現しやすい自己実現であったのかもしれない。ただ、工藤にとっては、実は性器は腕や眼球、唇、いや、繰り返し出てくる毛髪や、なにかよく分からない工業製品と等価である。それは、工藤と同時代に活動した荒川修作や、篠原有司男などと同じく現実破壊の前提として現実直視があるに過ぎない。アバンギャルドが「前衛」と訳されるとき、その前衛が現実を直視しない旧来の美術表現に対する対抗言説に過ぎなかったこと、旧来の美術の本質を暴露するものとしての機能ゆえに存在したことで「前衛」たりえたことを、工藤の挑発的な表現は物語っている。
今や、形を変えこそすれ、性器を前面に押し出すことなどある意味普通である。パリで長く過ごし、帰国後東京芸大の教授に就いた工藤はわずかその3年後この世を去った。工藤が受け入れられ、あるいは、受け入れられなかった前衛は60年経った今でも古びることなく、私たちの眼前に前衛であることを確認できたいい展覧会であった。
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東京美術展ぶらり2

2013-10-17 | 美術
国立西洋美術館の次は新国立美術館。常設展がなく、特別展だけの新国立美術館は「印象派を超えて 点描の画家たち」と「アメリカン・ポップ・アート」展。「点描の…」はオランダはクレラー=ミュラー美術館の収蔵品を中心に、従来新印象派として「バンチスト(点描)」の代表たるスーラの業績を紹介されることが多かったものに対して、改めて「分割主義」(スーラの盟友ポールシ・ニャックが普及させた理念)を再考する意欲的な展覧会である。
「Divisionism(分割主義)」は、印象主義、新印象主義、フォービズム、キュビズムなどにくらべると馴染みのない用語だが、美術史的には確立された概念で、新印象主義以降分割主義をとおった画家こそが後世に遺る仕事を成し遂げたという。今でこそ展覧会で長い行列のできるゴッホも生前1点しか売れなかったのは有名だが、分割主義の技法に挑戦、試したという。たしかにゴッホはフォービズムの画家としてくくられることが多いが、その作品群は点描の影響が大きいというのは明らかだ。
分割主義は画壇での寿命は短いように見えるが、スーラ以前、印象主義のピサロやシスレー、シニャック、レイセルベルヘ、ゴッホ、ナビ派のドニ、そしてピカソ、レジェ、モンドリアンと確実に近代絵画の主要系譜を跡付けている。恥ずかしながら、ピサロとシスレーの画風の違いがよく分からなかったことと、点描の偉大な貢献者ベルギーのレイセルベルヘの名は知らなかった。まずピサロの細かな緑、その上で流れるような筆致とシスレーの点描に忠実な、それでいて森林の緑にこだわらない広い色彩感は、見比べるとその違いがよく分かる。が、これは「分割主義」という切り口ではじめて分かったこと。そして、分割主義こそが、近代絵画の成熟=フォービズム、キュビズムを通り、モンドリアンに代表される近現代デザインの萌芽=を方向付ける出発点となったことを理解できるのである。
分割主義は単なる色彩理論でも、画法の一亜流でもない。それは32歳で夭逝したスーラの理論的に絵画の構成を解明しようとした、そして、それを実践しようとした人間の眼に対する期待と探索の旅に思える。セザンヌはモネを「モネは眼だけだ。だがその眼がすごい」と言ったとか。原色に近い点で描かれた集合体を大きな景色として美しいととらえる人間の眼。スーラの探求はしっかりと後世の画家に受け継がれている。
同じ新国立美術館で開催されていたのはアメリカン・ポップ・アート展。さすがに美術館自体が広いので、2階の展示場もいつ終わりになるのかと言うほどの規模。アメリカン・ポップ・アートといえばアンディ・ウォホール。しかし、ポップ・アート自体がお家芸のアメリカでは、ポップ・アートこそアメリカなのである。ウォホールはキャンベルのスープ缶に代表されるように商業主義を逆手に取りアートをマーケティングに近づけたが、一方、ジャスパー・ジョーンズは星条旗というナショナリズムを商業主義に近づけ、反対にロバート・ラウシェンバーグは日常のつまらないものをアートや社会性につなげた。
かようにアメリカのポップはアートになり、同時にその時代のアメリカそのものであった。1950年代、アメリカではミニマリズムの旋風の中でコンセプチュアルアート全盛で、ポップ・アートはまだ大きな力とはなっていなかった。しかし、占領した日本にモノ的アメリカ文化を注入し終えたアメリカではむしろいきついた商業主義への批判がポップ・アートを生んだとも言える。と同時に大量生産、大量消費の、それも選択肢のない同じ商品を消費し続ける大多数のアメリカ国民の姿は「アメリカン・ポップ・アート展」として「消費」する日本の笑えない現実を象徴しているようでもある。
ウォホールの代表作に故ケネディ大統領の夫人像「ジャッキー」がある。その娘が今や駐日大使として赴任する。日本はやはりアメリカが好きなだ、ということをアメリカはよく知っていると思えてならない。(「キャンベルのスープ缶」アンディ・ウォホール)
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東京美術展ぶらり1

2013-10-12 | 美術
あざみ野市で開催されたWeフォーラム(Weの会・フェミックス主催)に参加するため東京に行ったのでいくつか美術展も回ってきた。
国立西洋美術館に新館ができたのは知っていたが、なかなか訪れる機会がなかった。一応西洋美術を擁する日本最大の美術館なので、ル・コルビュジェ作とはいえ本館だけでは淋しい規模であったから、日の目を見なかった収蔵品が展示されるのは喜ばしいことだ。もちろんヨーロッパの名だたる美術館が、中世(以前)のキリスト教美術から押さえているのに比べると「西洋」を語るには貧相なのはいたしかたない。けれど、おもに印象派以降の近代美術に特化して、日本人の印象派好きになるよう多大な貢献をしてきた功績?は評価されてしかるべきだと思う。 
本館で開催されていたのは、印象派ではなく「ミケランジェロ展 天才の軌跡」。イタリアルネサンス3巨匠のうち彫刻と絵画の両面で名をなし、システィーナ礼拝堂の天井画をはじめ、日本人にもなじみ深い作品も多い。ただ、ダ・ヴィンチの作品が海外へも持ってこられるのに対し(「モナ・リザ」も西洋美術館に来たことがある)、ミケランジェロの作品が海外にでることは難しい。ミケランジェロがなぜ天才であるのか。それは、「神のごとき」観察眼と技で天井画を完成させ(教皇から依頼された礼拝堂天井画と壁画(最後の審判)を依頼されたときミケランジェロは30歳、制作に40年の歳月を費やした)、その地位を揺るぎなきものにしただけではない。ルネサンス絵画で飛躍的に技術が向上した遠近法を大胆に取り入れ、タブーであった裸体を多用、肉体を究極まで追求した技巧の技はピエタやダヴィデで十分に証明されている。しかし、教皇に依頼され、慣れない天井画に挑んだ巨匠。神は細部に宿るとの言はミケランジェロより大分後の時代だが、ミケランジェロの仕事の粋はまさに細部に宿った。天井画は、見上げることが前提で、また物語も壁に飾る絵画より一覧性に秀でていなければならない。それを成し遂げたのが神の手所以。
ダ・ヴィンチはもちろんのこと、バロックの巨匠レンブラント、19世紀ではゴヤ、印象派のドガ、20世紀のピカソ、モディリアーニなど素描展をいくつか見たことがあるが、いずれも感嘆の技量であった。そしてミケランジェロ、本展はその素描もいくつか展示されているが、妥協を許さない完成作たるシスティーナの天井画と壁画がそれら驚嘆の素描の集大成であることがよく分かる。「神のごとき」ミケランジェロなのである。
同じく西洋美術館で今回もっとも惹かれた展示が「ル・コルビュジエと20世紀美術」展。この西洋美術館を設計したコルビュジエは、建築以前というか、並行して絵画、彫刻、版画、タピスリーな多岐にわたって作品を遺していた。その全容に迫るとの意気込みで本当に多くの作品群。建築でキュビズム的構成を現出させたコルビュジエが、20世紀の構成主義、キュビズムに惹かれたのはよく分かる。その作品群はフェルナン・レジェの影響が大きく、その色彩、フォルムともレジェ本体よりレジェらしい。
19世紀末印象主義からフォービズム、キュビズムへとより抽象主義に変化したのは理由がある。勝手な解釈だけれども印象主義以前、キリスト教を中心とした画題に縛られていた美術界は、印象主義に出会うことによって、宗教や神話を取り上げないで絵画が成り立つということを知った。そして、再び宗教や神話を描かない証として、画家は物語がなくても見る眼そのものによって物語がつくられる、あるいは物語自体を必要としない絵画に出会ったのだ。
コルビュジエの絵は建築に行かなければ、ピカソやレジェなどキュビズムの極致を達成したかもしれない。それくらい、後の建築作品の萌芽が、コルビュジエの絵画に読みとれるのである。しかし、コルビュジエはそれで終わらなかった。そう、キュビズムの非人間性を3次元では親人間性に還元して見せたのだ。その代表作があのロンシャン礼拝堂であると筆者は思っている。いや、そう思ってみれば、レジェなど2次元の世界もかなり親人間的であるではないか。コルビュジエの世界はまだまだ広がっていく。
(ル・コルビュジエ「円卓の前の女性と蹄鉄」)
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北欧めぐり2013 ④

2013-09-09 | 美術
「北欧めぐり」と言いながらコペンハーゲンからハンブルクにやってきた。ハンブルクはドイツで3番目の大都市。ハンブルク中央駅は、東西南北がよく分からない四角くて巨大。自慢ではないが、ヨーロッパでもあまり道に迷わない方だが、方角を間違えた。というのは、ホテルに荷物を置いて中央駅に戻り、まず目指したのがハンブルク市立美術館。のはずだった。駅のそばにあり、なんなくたどり着き、市立美術館にしては、工芸品ばかりで絵画がないなと思っていたら、なんとリーメンシュナイダーの聖母子像に見(まみ)えた。リーメンシュナイダーがドイツ(やそのほかの国)のどこにあるか、どの作品が見ごたえがあるかは福田緑さんにご教示いただいていたが(「リーメンシュナイダーを歩く」 http://www.geocities.jp/midfk4915/j_top.html)。福田さんの労作は『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(いずれも丸善プラネット刊)で楽しめる。)、ハンブルクにあると紹介されていたのをよく覚えていなかったので、うれしい驚き。1505年頃の作とされるが、正式には「三日月の上の聖母子像」というそう。そう、ここは市立美術館ではなく「市立工芸博物館」であったのだ。
リーメンシュナイダーに会えたのは、もちろんうれしかったが、工芸博物館はマイセンをはじめドイツが誇る磁器をはじめ、ヨーロッパ、近くはロイヤルコペンハーゲンだの、フランスのリモージュだとか、はては中国の景徳鎮まで、ものすごいコレクションで圧倒されたのだ。間違えて入ったのがこんなに眼福を授けてくれるなんて。疲れを飛ばしてくれる、とはいかず、かなり疲れていてゆっくり見られなかったが、ドレスデンの工芸館に並ぶドイツ(とその他の国)の巧緻と出会える至極贅沢な空間である。夕食はフリカデル(要するにハンバーグ)とビールをいっぱいいただいた。
今回の旅行最後の観光日。予約していたミニチュア・ワンダーランドへ。前日ドイツの巧緻に触れた気がしたが、こちらは現代の巧緻。しょせんプラモ、人形と侮るなかれ。そこは究極までリアリティを追求する職人の技にあふれている。展示コンセプトはハンブルク市街、北欧の都市、アメリカはグランドキャニオンなどと多くはないが、感動したのは、ベルリンの様子が中世の時代から、産業革命を経た近代、ナチスの時代、ベルリンの壁、そして壁崩壊後の現代と時代に沿ってジオラマが展開する特別展。見とれる。歴史絵巻を展示する際、時代考証にはとてつもない労力を割くと聞いたことがある。ここもオタクに突っ込まれないよう細心の注意をはらっているに違いない。そして、常設展の規模とメカの複雑さ。一日が過ぎるのを感じられるよう、昼間のざわめきから夜が更け、真っ暗になり、そして青く開けていく街並み。列車や自動車も夜は車内灯をきちんと点け、飛行機も飛び立ち、着陸する。プラモデル小僧もNゲージおじさんもここに来るがよい。多分一日では足りないだろう、見とれるのに。
前日間違えて行けなかった市立美術館へ。こちらは本当に絵画が充実。特にうれしかったのは、孤高の画家フリードリッヒのコレクションとドイツ表現主義、それもブリュッケの作品が充実していたこと。ノルデやキルヒナーなどブリュッケの作品は、ベルリンのブリュッケ美術館はそろっているが、ドイツ表現主義というとどうしても、ミュンヘン派の青騎士のコレクションが多い。青騎士はマッケなどドイツ人画家は夭逝したのでカンデインスキーなどドイツ人ではない画家が主導したものと思っているが、ブリュッケは、ナチスに迫害されながらも描き続けたノルデ、そして圧倒的な色彩演出のキルヒナーを擁し、こちらの方こそドイツ表現主義の王道のようにも思える。エルンスト・バルラハの彫刻も何点かあり、にんまりしたが、もう旅も最後。体力も限界だ。
アルスター湖遊覧したのは、座って過ごせるから。強い日差しの中を船は湖を一周。泳いでいる人、ボートを揺らしている人、競技艇を漕いでいる人。ハンブルク市民の日常を感じながらこの旅最後の夜に向かう。ネットで見て、なにか感じるものがあったのと、前日フリカデルを食べに行こうとした途中に、その店を目指すカップルのただならぬ意気込みに気になっていたフィレ・オブ・ソウルへ。すばらしい。
ドイツは料理の選択肢は少ないが、基本的に美味しいと思っている。が、洗練された料理となるとやはり探さないといけない。フィレ・オブ・ソウルの料理は魚料理もいくつか選べて、前菜のガスパッチョも絶品。お店の勧めるオリジナルワインもグッドで、やっと暗くなってきたハンブルクの夜を、この旅の最後を締めくくったのであった。(リーメンシュナイダー「聖母子」ハンブルク美術工芸博物館)      (了)
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北欧めぐり2013 ③

2013-09-08 | 美術
コペンハーゲンの3日目はハーバーバス(船のバス)に乗って「人魚の像」へ。さすがに世界3大がっかり!のことだけあって、小さくなんでこんなに有名なのか分からないほど。爆破されたり、頭をとられたりと受難も多いにもかかわらず、柵や金網もなく今でも触れるくらい近づけるのがコペンハーゲン市の度量の広さか。再びハーバーバスに乗ってクリスチャンスボー城へ。現役の宮殿で清潔で明るく設えられているようだ。ただ、宮殿の敷地内はあちこち工事中で、見学できる部分はそんなに多くはなかった(入口が分からなかった?)のと、宮殿のそばを保育園児くらいの集団が行きかうのに見とれていたほうが印象深い。本当にコペンハーゲンの街角ではどこでも小さな子どもをみかける。
 クリスチャンスボー城からはバスですぐのニュー・カールスベア美術館へ。ビールメーカーのカールスバーグがつくった巨大美術館。屋上からはある程度コペンハーゲン市内が見渡せ、中庭も広くくつろげる。彫刻も多いが、基本的にデンマーク近現代画家の作品群。デンマークというとハンマースホイしか知らないのが恥ずかしい。(「静かなる詩情」への近接 ハンマースホイとの初対面http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/0fc1ac03b9e7823de02ae4e7595bf804)
かなり広いのでゆっくり見ていたら切がないし、名前もどう読むのか分からない。向かいのチボリ公園のアトラクションの悲鳴が気になるが、コペンハーゲン随一の規模とコレクションであることは間違いない。国立美術館も周囲が工事中で、少し不安定な仮設通路を渡って入館する。思ったより広く、デンマーク画家のほか、マチスのコレクションもあった。開館されたのが1996年ということでかなり新しい美術館で、収容規模からするとまだまだコレクションも増えそうで楽しみだ。が、物価の高いコペンハーゲンに2度と来ることはあるだろうか。
夕餉は予約しておいたコペンハーゲン大学すぐ近くのレストランKrebse Gaardenへ。若者が寝そべってお酒を飲んだり、ドラッグかな?なんかタバコみたいなのを吸っている人も。レストランの向かいはSMショップ!で、チトタダならぬ雰囲気の中にお店はあった。スウェーデンでは8月末にならないと解禁されないザリガニを前菜に地ビール。メインは鱈を一度塩漬け、干したものをもどしてグリルしてトマトソース。塩辛くなく美味。勧められたワインもおいしく、デザートに10種のチーズプレートまでいただいて、テイスティングワインはサービス。ウエイターのよくしゃべること。よどみない英語をこれでもかというほど浴びせられたが、理解できたのは? それでも、ワインを選ぶとき、ボトルで取るな、グラスでおススメがあるから、そのたびに注文しろ、には納得。どっしりとしていてボトルで頼んだら飲みきれなかったかもしれない。物価の高いコペンハーゲンにしては良心的なお代で、コペンハーゲンの夜を満喫した。
翌朝は特急列車でコペンハーゲンからハンブルクまで移動。この行程を選んだのは、列車がそのままフェリーに乗りこんで海を渡るという珍しいものだから。2両編成くらいの列車が来るものと思っていたら、6~8両ある普通の特急列車。その日は一日雨で、風景は芳しくなかったが、予定通り列車はフェリーに。フェリーであるからほかに車がたくさん載っていて、列車もその一員に過ぎないだけである。列車の前にすでにほとんどの車が載っていて、乗船後車と同じく、列車の乗客も降車して客室に移動しなければならないのだが、もう座るところもない。レストランはもちろん印税店もあり、国境を越えるのだから当然と言えば当然。列車に乗り込んで、どんどん街並みに建物が増え、ハンブルクに到着したのは昼過ぎ。陽は高いしまだ観光の時間だ。(コペンハーゲンの町中を散歩する子どもたち)
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