kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

あるがままに生きた画家 タカハシノブオを視る

2014-11-17 | 美術
なんという激しさだ。画面に叩きつけた筆跡は、具象、抽象を超えて肉体からほとばしった血潮や、吐血さえ思わせる。「あるがままに生きた画家」高橋信夫。神戸は港湾現場を中心に日雇い労働に従事した高橋は、安定した生活とは無縁で妻の死後、生活苦のため、娘とは生き別れとなる。
ただ一人、不安定な生活の中でも絵と詩の創作はほとんど途切れることなく続けた。高橋は自身の画作にタカハシノブオと記した。漢字であるとただ普通の日本人に見えるところが、カタカナで表記することによって日本人であるとか、高橋という日本ではありふれている属性から自分を解放しようとしたのか、自分は何者でもないタカハシノブオという他に代えがたい一個の存在であると。
タカハシノブオの画題は、身の回りを中心に実に狭い。なかでも繰り返し魚(の頭)を描いた小品群は、逆説的だが圧巻だ。というのは、魚の頭など取るに足りない題材で、タカハシの描くそれは市場から買ってきた塩鮭の頭だとか、せいぜい鯛ではない生の小さな安魚のそれでしかないのに、その生気あふれる様に圧倒されるのだから。絵画を格闘と言ったのはゴッホだったか、白髪一雄だったか。数多の画家が描画に格闘し、その闘いは果てるともなく、ある者は筆を折り、ある者はキャンパスを御したと嘯き、そしてある者は、格闘したまま果てていった。タカハシノブオはどうだろうか。少なくとも果ててはいないし、果てようとしたのでもない。あるのは、眼前にある魚の頭と格闘し続けるエネルギーだけだ。しかしそのエネルギーは止まるところを知らない。
ものすごく単純化するとある種の画家はエネルギッシュすぎる人種である。体が言うことをきかなくなっても描き続けたルノアールやモネ、セザンヌといった印象派の面々やピカソ、日本ではとてつもなく長生きの小倉遊亀や先ごろ文化勲章を受章した野見山暁治なども入るかもしれない。そのエネルギーはどこへ向かうのか。2回の結婚、数人の愛人など性的に旺盛だったピカソは女性性器をかたどった作品も多い。タカハシノブオも女体や女性器そのものの作品もある。しかし、タカハシノブオの興味は、次第に街の風景や、出会った飲み屋の女性、娼婦?のポートレート、そして先の魚の頭を描くようになる。そしてタカハシノブオをして晩年はほとんど制作できなかった深酒は体を蝕んでいた。
絵画の歴史のなかですでにある区分から見れば、タカハシノブオの作風はフォービズムか抽象表現主義か。おそらくそのどちらも入っていて、そのどちらでもない。画材は水彩をはじめ、油絵、クレパス、線画など多岐にわたるが菓子箱や段ボール紙を使うなど決して恵まれた環境ではなかったタカハシノブオの描画意欲を支えたものはなにか。それは怒りではなかったか。2度の応召、炭鉱そして神戸は新開地に流れてきての窮乏生活、その中で妻を失い、愛娘との決別。しかし描き続け、詩作もやめなかったし、港湾労働者としてベトナム戦争反対運動に参加する。貧しさへの怒り、社会的不公平・不公正への怒り、どうにもならない自身への怒り。
画家が世に出る、後世に遺るのはきちんと画家の作品を受け止め、収集し、散逸の危険を防いだコレクターらの苦労があるからだ。その点、タカハシノブオを早い段階から見出し、収集に励んだ「神戸わたくし美術館」の三浦徹氏の功績がとても大きい。感動できる心と言ってもいい。三浦氏の慧眼なくしてタカハシノブオが私たち眼前に広がることはなかった偶然に感謝の念をささげたい。(無題)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「忘却」とは実は忘れないこ... | トップ | 「生きて帰ってきた」事実に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

美術」カテゴリの最新記事