昭和45年(1970)に直営館が少ない大映と、同じ悩みを抱えていた日活と一緒になっ
て新しい配給会社ダイニチを設立しました。それが撮影所の効率化にもつながると
考えられたからです。
社長には大映専務の松山英夫、副社長に日活常務の坪壺田重三が就任、運営スタ
ッフは両社から社員が出向しましたが、選ばれた一人、私の気持ちはまるで特攻隊
のような気分でした。
まずダイニチの運営スタッフと配給作品のラインアップを全国向けに発表しましたが、
とにかくスタートは派手にやろうと、九州では大映から藤村志保・長谷川待子、日活は
山本陽子・梶芽衣子を参加させた館主招待パーティを開きました。
そのような状態でスタートしたダイニチでしたが、製作費の縮小ばかりか俳優やスタッ
フの流失もあい次ぎ製作現場も上映館も荒廃の一途をたどり、1971年(昭和46年)8月
にはダイニチから日活が離脱、11月には遂に大映倒産の日を迎えるたのです。
私が大映に入社した昭和29年から最終までの大映作品スチールは、作品ごとにスク
ラップにまとめていて、退社後に持ち帰ったスチール写真は自宅の押入れ一杯ほどあ
りました。数年後に家人からの要望もあり、それを大事に保管・利用してくださるという
方に思い切って差し上げましたが、いま思えば少々残念でした。
最近では権利を引き継いでくださったKADOKAWAさんが、大映男優祭・女優祭などを
積極的に展開してくれています。大映OBとすれば、嬉しい思いもありますが、正直言っ
て少々淋しい気持ちでもあります。
映画の宣伝に意気揚々とされていた時と
趣は違って、この時はシリアスな状況に
一丸となって当たられていた時と思います、、。
けんさんの想いはいつも変わることなく、
大映に対する熱い想いが伝わってきます。
切ない想いを超えて、日に日に力強く大映のことを想います☆
それからピーターラビットのコメントに書いたのですが
大映の映画のスチールをnetで見た時、
どなたがお持ちになっているのかなあと素朴に考えてしまいました。あまりにも素晴らしいスチールだったからです。どこから来たんだろうと☆
宣伝という仕事を無我夢中でやっていた時代ですが、それでも結構楽しかったです。
大映のもと社員の中には、倒産した会社や永田社長のことを悪く言う人もいますが、
私はそんな気持ちは全くありませんし、そんなもと社員の気持ちが判らないのです。
変ですかね・・・。
大映とけんさんとの情熱が本当に羨ましいです
物事の関わり方や縁は、それぞれかもしれないですが熱く打ち込める仕事に邁進できるということは幸せですね(*´ー`)
ところで、知り合いの知り合いの知り合いの方なのですが、京都の大映の大道具?(美術)にいらした方で、口も達者なので、映画イベントなどで司会をされてような方を御存じありませんか?雷蔵さんや、須賀不二夫さんなどと、飲み仲間だった?ようなスタッフの方です。1965年以前に亡くなられていますが・・。
レスが遅れてご免なさい。
撮影所には個性的な人が多く、申し訳ありませんが、
お名前をお聞きしないと判りません。
社員名簿がありますので、お名前さえ判れば色々引き出せる
と思います。