来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
元号制(「令和」)について
今世界で大きな時間の区切りを表現する基準はいうまでもなく西暦だ。イスラム圏はイスラム暦だろうが、世界の主流は西暦。もっともこれもイエスの誕生を元年としているように、宗教的な性格はあるのだが、世界の大勢はこれで行われている。だから日本もごく内輪での区切りでは和暦を使うがこれは衰退の一途をたどっていくのだろう。
しかし歴史の流れの中でかすかにこのような「個性」が残ってもいいだろう、と私も思う。
大化の改新は西暦645年とされ、それまでは「〇〇天皇の何年」と言っていたのを、中国にならって、西暦646年から「大化」何年というような元号制ができてきた。そして天皇はその後100人前後だったのに、元号だけは247個もあったという。
明治期からを近代というなら、近代日本は明治・大正・昭和・平成・令和の5つの「区切り」をもつ。ここから、それぞれの期は何年あったのだろう、という煩わしさが出るが、明治の45年間には初めての対外戦争があり、憲法がつくられ、…などとその特徴をいうことができるから、19世紀後半の日本は…というより、わかりやすいのかも知れない。
しかし何度もいっているように、この元号制は日本の内向きの自己満足でしかない。世界的な視野でいえば、ほとんど何の共通性もない。
令和という元号は、日本人がみんな仲良くしていこうという理想を表しているのです、などといってもどういう世界的意味をもつのだろうか。
令は命令を意味する語、和は仲良くという意味をもつ。だから「令和」は、「人をして仲良くせしむ」というような上から目線で示す意味を持っているように理解するのだ。
そもそも聖徳太子が定めたという「十七条憲法」の第一条「和をもって貴しとす」も、仲違いしていた当時の豪族どもを、天皇の地位と権威で従わせる意味をもっていた。まさに「令和」そのものものだった。
こんなひねくれ解釈はダメかな。しかしこの理解は正鵠を射ていると思っているのだが。
しかし歴史の流れの中でかすかにこのような「個性」が残ってもいいだろう、と私も思う。
大化の改新は西暦645年とされ、それまでは「〇〇天皇の何年」と言っていたのを、中国にならって、西暦646年から「大化」何年というような元号制ができてきた。そして天皇はその後100人前後だったのに、元号だけは247個もあったという。
明治期からを近代というなら、近代日本は明治・大正・昭和・平成・令和の5つの「区切り」をもつ。ここから、それぞれの期は何年あったのだろう、という煩わしさが出るが、明治の45年間には初めての対外戦争があり、憲法がつくられ、…などとその特徴をいうことができるから、19世紀後半の日本は…というより、わかりやすいのかも知れない。
しかし何度もいっているように、この元号制は日本の内向きの自己満足でしかない。世界的な視野でいえば、ほとんど何の共通性もない。
令和という元号は、日本人がみんな仲良くしていこうという理想を表しているのです、などといってもどういう世界的意味をもつのだろうか。
令は命令を意味する語、和は仲良くという意味をもつ。だから「令和」は、「人をして仲良くせしむ」というような上から目線で示す意味を持っているように理解するのだ。
そもそも聖徳太子が定めたという「十七条憲法」の第一条「和をもって貴しとす」も、仲違いしていた当時の豪族どもを、天皇の地位と権威で従わせる意味をもっていた。まさに「令和」そのものものだった。
こんなひねくれ解釈はダメかな。しかしこの理解は正鵠を射ていると思っているのだが。
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