goo blog サービス終了のお知らせ 

教育科学研究会編「現実と向きあう教育学」2

この書に「不登校」に関する記述はない。検討の対象としたい記述がない、という意味である。数カ所の指摘はある。
こういうことをいえば、「無い物ねだり」的な論理は納得できない、と言われそうだ。無い物ねだりというのは、記述されていないことを指摘して「これもないあれもない」と論難する論理のことである。
しかし、何度もいうように、この書は(また教科研は)子どもの現実と向き合うことを標榜しているのである。この「現実」の中に、どうして毎年12万人以上の不登校の児童生徒が出ていることを含めないのか、全く解せない。「本質的な問題意識の欠落」といえば失礼だろうか。

ただ若干説明すれば、いくつかの指摘はある。例えば、藤田和也氏が第6章に「今日の子どもの発達困難と日本社会」の中で次のような記述をする。
「人間関係につまずく子が増えてきたことも最近の特徴である。…それは1980年代のツッパリや対教師暴力などの『荒れ』状況から、不登校・保健室登校・引きこもりなどの『閉じ』状況に問題がシフトしてきたことと軌を一にしているように思われる」。
つまり、かつての「荒れ」と今の「不登校」は基本的に同じだというわけだ。

そして藤田氏は、その今日的問題点を丁寧に指摘する。その上で、発達支援の改善と発達支援の課題をいう。
子どもの困難の様相を丁寧にとらえる、ケア(見守りと世話)を捉え直す、などという基本的な視点をいいながら、発達環境としての家庭や地域の形成力(…略)が求められる、ということである。問題を指摘しながら、自分では課題をごく抽象的にしか提起しない学者特有の論理展開である。

不登校についての記述は、久富善之氏が第19章「なぜ学校に通うのか」で触れる。この中で「学校制度が抱え込んだ『四つの難問(アポリア)』と、その帰趨」の3点目「学校秩序の抑圧性と開放性とのバランス、その歴史的変化」である。中等教育(高校)修了者が9割を超える飽和期になると、学校の職業的意義が低下する。「開放性が弱まり、元来の抑圧性が強く顕在化する。…70年代半ば以降の『不登校』と『いじめ』問題の増加や『学校知識離れ』は、こうした学校性格の歴史的変化を背景としているだろう。

学校性格は歴史的に変化してきたということは、長年進められてきた教育と学校のシステムが現状に合わなくなってきているということではないのか。であればこの変化をどう評価し教育と学校改革のための私見を言うべきだと思う。
ただ久富氏のために補足すれば、この論述の最後に「教師にとどまらない『学校の当事者たち』(スクール・ホルダーズともよばれる、生徒、父母、教職員、地域住民、地域行政当局者、など)のあいだに、…『学校づくり』『学校改革』の指向が生まれており…」と記していた。それがどうなるかは、帰趨が問われている、という。
学校性格の変化に応じた学校づくりの展望について、自分自身は何らコメントしない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 教育科学研究... 教育科学研究... »