来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
「米百俵」でつくった学校は?
6月22日に「『米百俵』の理念」というテーマの一文を記した。この話に関して、私は長年大きな関心をもってきた。教育を重視することは、政治の根幹に位置するテーマなのではないか、と。
そういえば、かつてこの話を援用して演説を行った首相がいた。2001年4月、第1次小泉内閣を発足させた小泉首相は5月7日、総理大臣として初めての所信表明演説に臨んだ。その演説の最後の節で新潟県長岡市に伝わる「米百俵」のエピソードに触れ、「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」と訴えた。
その後の小泉改革の中で「教育」がどこまで重視され、小林虎三郎の精神が活かされたか、については触れない。トップの為政者が言葉だけでも「米百俵の精神」を触れることは評価されるべきかも知れない。
童門冬二・稲川明雄の両氏がつくった「米百俵と小林虎三郎」という本を参照して、「最後のサムライ」であった河井継之助のあとを継いだ小林虎三郎の事績の一端を記しておこう。
戊辰戦争で薩長軍に大敗した長岡藩は明治2年以降の明治維新の流れに苦闘する。この時に見舞いとして分家筋の三根山藩(今の新潟市に含まれる地域)から米百俵が送られて来る。
長岡藩の武士たちは、これまでの経緯(敗戦など)で喰う物にも事欠く状態だった。だからその百俵を分配して欲しいという。しかし小林虎三郎は、周知のように、子弟の教育を重要視すべきだ、と言う方針を貫徹する。そしてこの米の代金はおよそ270両になった。
設立された「国漢学校」、明治3年時には国漢学に175人、洋学35人。その後版籍奉還、廃藩置県などの動きの中で国漢学校は合併・分立を繰り返し、旧制長岡中学校、現新潟県立長岡高校へと歴史を刻んできた。その両校からの人材としては山本五十六などがいる。また今も活躍している人に半藤一利氏など。
(山本五十六に関して、20111224と20220214付けで記している)。
そういえば、かつてこの話を援用して演説を行った首相がいた。2001年4月、第1次小泉内閣を発足させた小泉首相は5月7日、総理大臣として初めての所信表明演説に臨んだ。その演説の最後の節で新潟県長岡市に伝わる「米百俵」のエピソードに触れ、「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」と訴えた。
その後の小泉改革の中で「教育」がどこまで重視され、小林虎三郎の精神が活かされたか、については触れない。トップの為政者が言葉だけでも「米百俵の精神」を触れることは評価されるべきかも知れない。
童門冬二・稲川明雄の両氏がつくった「米百俵と小林虎三郎」という本を参照して、「最後のサムライ」であった河井継之助のあとを継いだ小林虎三郎の事績の一端を記しておこう。
戊辰戦争で薩長軍に大敗した長岡藩は明治2年以降の明治維新の流れに苦闘する。この時に見舞いとして分家筋の三根山藩(今の新潟市に含まれる地域)から米百俵が送られて来る。
長岡藩の武士たちは、これまでの経緯(敗戦など)で喰う物にも事欠く状態だった。だからその百俵を分配して欲しいという。しかし小林虎三郎は、周知のように、子弟の教育を重要視すべきだ、と言う方針を貫徹する。そしてこの米の代金はおよそ270両になった。
設立された「国漢学校」、明治3年時には国漢学に175人、洋学35人。その後版籍奉還、廃藩置県などの動きの中で国漢学校は合併・分立を繰り返し、旧制長岡中学校、現新潟県立長岡高校へと歴史を刻んできた。その両校からの人材としては山本五十六などがいる。また今も活躍している人に半藤一利氏など。
(山本五十六に関して、20111224と20220214付けで記している)。
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