3 胤綱の代、評定衆を罷免され上総国に追放された。
3-1 承久三年(1221)に起った「承久の変」に際しては、胤正の孫千葉介胤綱が足利氏や三浦氏の軍勢とともに東海道より上洛して活躍した。胤綱は、このとき十四歳であったという。
胤綱の代、一族の上総権介秀胤は幕府の評定衆として羽振りを利かせていたが、北条光時らと執権北条時頼打倒を図った首謀者であるとして、評定衆を罷免され上総国に追放された。
3-2 胤綱は若くして死去したため、千葉介は弟の時胤が継いだ。しかし、時胤も急死したため、頼胤がわずか三歳で千葉介を継いだ。
鎌倉幕府草創期、有力御家人の多くが執権北条氏と対立して没落していった。乱を制した北条氏の権力は確立されたのである。北条氏と千葉氏とは姻戚関係も結ぶなどして、概ね良好であったようだ。
常胤以来、下総守護職を世襲する千葉氏に対して、北条氏も一目をおかざるをえなかったのであろう。