ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

バレンタイン・デー

2012-02-14 18:10:44 | 我が家の歳時記
夕方、表に車が停まり♀ペンがでると、ご近所の奥さんと一緒に下りてきたのは、お孫さんのYUIちゃん。「私ではアカンねんて。『パンダのおじちゃん、いる?』て言うてるよ」。で顔を出すと、「パンダのおじちゃん、これ」と金色の包み紙の入った紙袋をくれました。



この頃は義理チョコも貰う機会がなくなったので淋しいバレンタインデーだったのに…可愛い保育園児からのプレゼントに大感謝大感激です。開けてみるとGODIVAのチョコレート菓子でした。後の二つはYUIちゃんのお母さんと、そのお母さん(つまり♀ペンの年若い友人)からの酒飲み夫婦へのプレゼントです。

ちなみに変愚院がペンギンでなく「パンダのおじちゃん」かといいますと、前に成都のパンダ飼育基地のお土産にあげた「パンダのバッグ」が大のお気に入りで、それ以来♀ペンは「パンダのおばちゃん」変愚院は「パンダのおじちゃん」で大好きなのです。

今夜は、これでブランデーでも飲みましょう。YUIちゃん、ありがとう。

春の気配・矢田丘陵(2012.02.12)

2012-02-12 16:33:47 | 矢田だより
二人で葛城山にでも行くつもりが、朝なかなか布団から出られず、結局はいつもの裏山歩きに…。今日は少し長めに歩こうと、10時20分、大和民俗公園の駐車場に車を置いて「こどもの森」へ向かう。市民マラソン大会のランナーが北村からの道を続々と駆け下りてくるので、敬遠して東村の中を通り、神社横から三の矢塚を見て北村へ回る。ここの集落を抜ける道はかなり急で、次第に汗ばんでくる。



ようやく勾配が緩むところの分岐で、♀ペンが「滝寺へ行ってみようか」というので右の小さい沢に下る。数分下ると「瀧寺磨崖仏」の前に出る。この磨崖仏は県指定文化財に指定されている、我が国でも最も古い磨崖仏の一つである。



薄暗いお堂の中も今日は光線の当たり具合がよく、浮き彫りにされた仏や菩薩などをゆっくり拝むことができた。こんな山深いところなのに周辺はきれいに掃除され、石仏の前の供花も新しくて近辺の人の信仰が厚いことが偲ばれる(10時55分~11時)。もとの道に帰って殆ど傾斜のない広くなった舗装路を歩く。



峠池(下池)の堤下で車道を離れ、矢田山への山道に入る。サクラの広場を抜けて二つの池の間の堤に来る。上池に矢田山が影を落とし、二羽のアヒルが堤に上がって中年の夫婦からパンを貰っていた。下池では今日もたくさんの水鳥が泳いでいる(11時18分)。のどかな光景に心を和ませて東明寺分岐を過ぎ、一昨日下ってきた道を登る。



三角点分岐を過ぎてから、♀ペンのご希望で左手の尾根を最高所に向けて直登する。伐採で以前の踏跡は消えていたがブッシュは思ったほどではなく、見当をつけて登るとあやまたず最高所の標点にでた(11時55分)。まほろば展望所のベンチに腰を下ろして水を飲んでいると、麓から正午のサイレンが聞こえたので出発。



町石道をどんどん下って矢田寺にお参り(12時33分)して参道を下る。味噌舐め地蔵さんの向かい側のアジサイ園でウグイスが遊んでいた。



横山の牧場では、いつもの人懐っこいウシくんが近づいて挨拶してくれた。近くには菜の花が咲いている。今朝は我が家の庭にもメジロが遊びに来たし、先ほどのウグイスといい、いよいよ春が近づいてきた。



矢田座久志玉比古神社へもお参りして、13時10分、大和民俗公園駐車場に帰った。3時間近く、歩数計の数字もあと25歩で17,000になる。今日も良いトレーニングができた。

矢田丘陵・陽だまりウォーク(2012.02,10)

2012-02-10 15:05:18 | 矢田だより


風もなく穏やかに晴れ上がりました。9時20分、いつものお地蔵さんの辻に駐車してスタート。



近畿自然歩道を矢田寺へ歩きます。味噌舐め地蔵さんの前を通り、本堂を拝んで南へ(9時30分)。



竹林を抜けて道が南西に向かうところに「ここからキツイぞ」の張り紙。これまでにも「こっちヤデ」とかの標識?がいくつかありましたが、今日は毎年恒例の松尾山麓にある奈良学園中・高等学校の「矢田山縦走マラソン」の日だそうです。国見台に登る急坂が始まる南僧坊谷橋のたもとに先生が立っています。急な登りや階段道で稜線が近づくと賑やかな声が聞こえます。



国見台にも先生が立っておられました。今日は割合に遠目が効き、高見山や台高の山並みが霞んでいます。ここから松尾山へ緩く下る道では、大勢の生徒たちとすれ違いました。殆どの生徒が元気に挨拶してくれるので、こちらも「コンニチハ」とか「頑張れよ」とか返事をするのに忙しいほどです。



途中で車道から登ってくる道と分かれ、昨日と反対側から松尾山頂に着きました。写真右下辺りにある三角点を踏んで建物をぐるりを回って引き返します。最後のランナーの後姿を見ながら国見台に帰ると、早や先頭のランナーが急坂を駆け登ってきました。
 分岐を北へ直進して尾根道を矢田山へ向かいます。最後尾の女生徒はかなり疲れているようで、私と前後しながら頑張っています。氷の張った南僧坊池から矢田峠を経て、最後の頑張りで矢田山へ。貼り札などを回収にきた先生たちの指示で、生徒たちは頂上展望台の下から急坂を下っていきました。



頂上の「まほろば休憩所」で気温3℃。日向ではもっと暖かいでしょう。少し休んで出発(10時55分~11時)。今日も東明寺の方に下ることにしました。ここからは緑ヶ丘休憩所で休んでおられた老夫婦の他には、誰にも出会わない静かな山道でした。ふかふかの枯葉を踏んで、こどもの森分岐から右に折れて東明寺へ。



お参りを済ませて山麓の道を南へ帰ります。(11時35分)



東明寺の下でイヌノフグリが咲いていました。もう春がそこまで来ている気配です。



ぽつんと一台だけ愛車の待つ辻に帰り、お地蔵さんに今日も元気に歩けたお礼を言って2時間半のウォーキングを終えました。今日は15,170歩。結構よく歩きました。

春寒・松尾山 (2012.02.09)

2012-02-09 17:06:45 | 矢田だより


よく晴れていますが風の冷たい朝。9時半、法起寺横の斑鳩町営駐車場をスタート。寒々した田園風景の中をまず法隆寺の方へ向かいます。左手には墓地の上に中宮寺宮址の森が見えます。現在の中宮寺より東に500mほど離れたここが元中宮寺のあったところです。



右側にも大きな墓地が見え、その手前の池で水鳥たちが身を寄せ合っています。町営斎場の角を右に折れて斑鳩神社を左に見て法隆寺から来る道に合流。ここからまた右折して広い道を山に向かって登ります。風が強くなりヤッケのフードを被りました。池の手前で車道を離れ、ゴルフ場を抜ける道(法隆寺CC)に入ります。池の堤の下辺りに車が何台か置いてありますが、毎日登山の方のもののようです。



ここからが山道(昔の町石道)の始まり。松尾寺まで1.2kmの標識があります。町石は「十一丁」。左の道を登ります。早や、下りてきた毎日登山の方に出会いました。矢田寺と違って、いつ来ても大勢の人が行き来している矢田丘陵では人気の道です。(9時50分)

急坂やなだらかな道を何度か繰り返すうちに汗ばんできたので、ヤッケを腰に巻きました。20分ほどで松尾寺の山門をくぐり、手水を使って本堂にお参り。境内を通り抜けて休まずにそのまま三重塔の石段へ。



ロウバイの黄と南天の赤が鮮やかです。塔の前を左に折れると急に静かな山道になります。



林の中を三度ほど折り返して切通しに出ます。この辺りの地層が松尾山断層を示していると聞いたことがあります。道標(近畿自然歩道)の見えるところをまっすぐ下ると白石畑に出ます。松尾山へは右へ。更に登ります。もとは「行者峰入道」の表示があった道ですが、いつの間にか標識がなくなりました。



尾根道をしばらく上下して広い舗装路に出ます。頭上にTV塔を見上げながら最後の急坂を上ると、松尾山電波中継所の前に出ます。三角点はぐるりと回り込んだ西北の雑木林の中。まったくの無展望です。(10時30分)



下りは広い舗装路を下ると10分足らずで山門、さらにこの南門を通過。



どんどん元の道を下って11時20分、駐車場に帰りました。帰りは風も止み、どことなく春の気配を感じるのどかな風景でした。

竜の地名を歩く(4)

2012-02-08 10:10:06 | 四方山話
今回は我が家からも近い「竜」の名をもつ名所です。

奈良県生駒郡斑鳩町「龍田」



いうまでもなく紅葉の名所で、
「千早ぶる 神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは」在原業平
「嵐吹く 三室の山のもみじ葉は 竜田の川の錦なりけり」 能因法師
「竜田川 もみぢ葉流る 神なびの みむろの山に 時雨降るらし」詠み人しらず
など、数々の名歌で知られるところ。



この写真では「紅葉まつり」(11月後半の連休頃)の準備が行われています。正面に見えるこんもりした丘・三室山周辺はサクラの名所でもあります。



東側高台に登っていたところ。美しい紅葉の間に信貴山が見えます。背後には山を切り開いて、すぐ近くまで新しい住宅地が迫っています。



同じ生駒郡ですが、少し離れた三郷町「立」野にある龍田大社。ここも紅葉の名所です。
崇神天皇の時代に凶作が続き疫病が流行したので、天皇が祈願したところ、「天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れ」という夢のお告げによって創建されたといわれます。
なお斑鳩町にもここと同じ崇神天皇創建の龍田神社があり、法隆寺の鎮守社とされていました。しかし、明治の廃仏毀釈で、この本宮の摂社となっています。(大正以降は独立して現在は県社の格)



モミジやカエデの樹に囲まれた広い境内のを拝殿に向かいます。玉砂利を踏んで進むと左手に手水舎、右手には社務所があります。(写真は社務所横のカエデ)



拝殿から本殿を拝みます。龍田大社は「風神様」とされていて、日本書紀天武天皇紀に「4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田に祀らせた」の記事があります。この辺りはかって、風の通り道だったのでしょうか?



拝殿の吊り灯籠。珍しい木製でモミジの葉が彫られています。



なお、この龍田大社近くから河内(国分・柏原)に抜ける街道は古来「龍田越え」と言われました。現在、国道25号線が通る大和側南岸沿いの「亀の瀬」越えの他、北岸の山地「龍田山」越えの道も使われていました。
この河内古市郡の嶽山から竜田山にかけては、古代に製鉄・鍛冶が盛んであった地域と言われています。

製鉄と龍(蛇)との関わりを示す伝説は、わが国でも出雲、三輪などに見られます。この「龍田」の地名も、製鉄と何らかのつながりを示しているのではないかと想像しています。

黒猫の遊歩あるいは美学講義

2012-02-06 15:44:21 | 読書日記
ファイロ・ヴァンスという名探偵をご存じでしょうか?S・S・ヴァン=ダインという作家が生涯に書いた12作の長編推理小説(ベンスン殺人事件、グリーン家殺人事件、僧正殺人事件、カナリ殺人事件…)のすべてに、この名探偵が登場します。ヴァン=ダインは1920年代末から登場した古い作家ですが、第二次大戦後、欧米の翻訳<探偵>小説全盛期に高校~大学生だった変愚院は夜遅くまで読みふけったものです。
 ファイロ・ヴァンスが断片的な証拠から犯人を見つける推理は明晰ですが、その過程で様々なウンチクが散りばめられていて、煙に巻かれながらも楽しみでした。今でいえば、TVドラマ「相棒」の杉下右京を、もっとスペシャリストにしたような感じです。



昨年、早川書房がイギリスのアガサ・クリスティー社の公認を得て「アガサ・クリスティー賞」を創設して、新人の発掘を試みました。アガサ・クリスティーはE・ポワロやミス・マープルもので知られる「ミステリの女王」と呼ばれた作家ですが、候補作107編から選ばれて「第1回アガサ・クリスティー賞」を受賞したのが、この本です。(副賞100万円、漫才大賞に比べるともっとあげて欲しい)

最初にファイロ・ヴァンスの事を書いたのは、この本の探偵役「黒猫」が、ファイロ・ヴァンスに負けず劣らずのペダンティックな言葉をまき散らすからなのです。なにしろ「黒猫」は弱冠24才の「美学」を駆使する大学教授。普段の付き人(これが同世代の女性でポーの研究者)との会話でも「僕がここで言うカタルシスはプラトン的なものではなくてアリストテレス的なもので、アリストテレスは負の感情を浄化する点で悲劇にこの効用があるといっている」くらいは当たり前。焼き鳥屋にいっても「焼き鳥というのも死のアレゴリーになったりはしないのかしら?」「んん、普遍性がまだ足りないね」といったやり取りになるんです。ついていけんなあ。

この本は六つの短編からできていますが、すべて彼と彼女の身の回りのちょっとした謎ばかりです。たとえば「川に振り掛けられた香水」「でたらめな地図」などで、大きな事件は起こりません。しかし、すべてE・A・ポーの作品、これまた懐かしい「モルグ街の殺人事件」「盗まれた手紙」「黄金虫」…をモチーフにしているという趣向です。

その謎をイケメンで、頭が良くて、ぶっきら棒なようで時にふとした優しさを見せる「黒猫」が解いていく。こんな男には敵いません。もちろん「話し手」でもある私はメロメロ。最後には、どうも黒猫もまんざらではない様子で、これはプラトニックな恋愛小説でもあります。ウンチクもそれ程嫌味もなく、難しいところはザット読み飛ばすと爽やかな読後感が残りました。

ただ、この本で惜しいと思ったのは、何か所かにポー作品の「ネタばらし」があることです。
S・S・ヴァン=ダインはアガサ・クリスティの処女作『アクロイド殺人事件』を酷評しました。理由は彼が推理小説を書く上での鉄則を記した「ヴァン・ダインの二十則」に、クリスティが違反している、つまり「読者に対してフェアでない」という点にあります。
いかにポーの作品はすでに古典に属するとはいえ、推理小説のネタをばらすことは、最大のルール違反ではないでしょうか?

立春の矢田丘陵(1212.02.04)

2012-02-04 17:43:07 | 矢田だより


各地で最低気温を更新した節分の昨日から、一夜明けた今日は次第に良いお天気になりました。
10時10分、北横山のお地蔵さんに手を合わせてスタート。今日はいつもとは逆回りで東明寺の方に向かいます。大池の下では少しだけ雪が残っていました。



10時25分、東明寺。鐘楼の陰にだけ雪が残っていました。
落ち葉に埋もれた道を登って、10時35分、「こどもの森」への分岐。いつもは、ここから左へ折れて「緑ヶ丘休憩所」の前の急坂を上って矢田山の尾根に出るのですが、急に思い立って「こどもの森」へ降りてみることにしました。芝生の広場には犬を遊ばす人がひとり。静かな土曜日でした。



二つある峠池の間の堤を歩きます。左側の上池には氷の上に積もった雪が美しい模様をつくり、



日当たりがよく氷の溶けた下池では水鳥がたくさん遊んでいました。(10時45分)
「こども交流館」の前にはマウンティンバイクの若者が二人。裏に通り抜けて尾根道を登り返します。



少し気温が上がって汗ばむほどになり、ジャケットを脱ぎました。気持ちの良い森林浴の道です。



「小笹の辻」から久しぶりに矢田山三角点に登ってみました。(11時17分)



「まほろば展望所」から東方の眺め。28日に山焼きの済んだ若草山が黒っぽく見えます。気温は予想外に暖かく2℃ありました。標点に行った後(11時30分)、大石のほうへ降りようと展望台に行ってみました。
しっかりした山支度の先着の男女…なんとなく見覚えのある後姿に♀ペンが声をあげました。



なんと日本山岳会在籍中は何かとお世話になった関西支部長の重廣恒夫さんと、この人とも何度か山行を共にしたMさんでした。ご一緒に展望台に登りました。
 重廣さんは73年、エベレスト南西壁の世界最高点到達。77年、日本人初のK2初登頂。80年、北壁からの新ルートでチョモランマ(エベレスト)登頂。88年、日本・中国・ネパールのチョモランマ交差縦走の登攀隊長…と数々の記録を打ち立てた日本を代表する実力派アルピニストです。
 こんなところで思いがけず何年ぶりかの再会に驚きました。聞くと『 Challenge 4000 (日本全国4000山踏破)計画の一環で、この辺りではここ矢田山がまだなので来てみた』ということでした。



松尾山から来られて東生駒まで歩かれるとのことで、予定を変更してご一緒することにして元の道を帰ります。これは今日二度目の最高所。このあと、もう一度三角点にも登りました。重廣さんは「これで1,381山目。4000山まで、まだまだですよ」と笑っておられましたが、本当に凄いチャレンジです。

最近のJACの様子や、昔の仲間の現況、私たちの最近の状況などをお話ししながら「子ども交流館」までご一緒して、「また、どこかの山で…」と差し出された手を握ってお別れしました。(12時25分)



東明寺からポカポカと春近しを思わせる陽射しを背中に浴びながら元の駐車場所に帰ると、ジャスト13時でした。休みなしで3時間近く、歩数計の数字は13,618になりました。思いがけない出会いもあり充実した楽しい山歩きでした。

竜の地名を歩く(3)

2012-02-03 08:56:49 | 四方山話
中国・臥龍(ウォロン)



四川省の省都・成都から西北へ約100キロm。正しくは四川省アバ・チベット族自治州ブン川県臥龍鎮という、田舎の町です。ここが町の入口。「熊猫之郷」という看板が立っています。



大姑娘山(タークーニャンシャン・5025m)に登ったときに成都を立って最初に泊まったのがこの町です。
その時の宿、ロッジと言った感じの「臥龍山荘」



ロビーで。この町は熊猫=パンダが売り物なのです。



6日後、無事登頂を終えての帰り道で「大熊猫保護研究中心(センター)」を見学しました。女性ガイドの話では、この辺りには中国のパンダ約8000頭のうち8割が棲息していたが、「台湾や香港の悪い人たち」がパンダの皮を珍重するので密猟が絶えず、数が激減しているということです。



ここには28頭のパンダが飼育されていました。



大切に保護されてのびのびと育っている様子です。まさに生きた縫いぐるみの感じで可愛い…。



「一日中見ていても飽きない」という♀ペンが抱っこさせて貰いました。この子は雌のロンファンで生後8カ月、もう体重は30キロ近くあります。100元(当時のレートで1500円)で貴重な体験ができました。。(現在は1,000元だとか…)。

ところで「臥龍」は三国志で有名な諸葛孔明の綽名(伏竜とも)でもあります。この辺りは三国志の舞台・蜀だったところですから、何か関係があるのかも知れません。


竜の地名を歩く(2)

2012-02-02 09:43:34 | 四方山話
ヴェトナム・ハロン湾



ヴェトナム北西部にある世界遺産に登録されている湾ですが、漢字表記では「下竜湾」なのです。



このような観光船に乗って湾内を周航しました。



湾内には大小3,000もの奇岩や島が浮かんでいます。「海の桂林」と呼ばれる美しい風景が次々と目の前に現れて、時の経つのを忘れます。



伝説によると、昔、中国がヴェトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を打ち破りました。その時、口から吐き出した宝玉が湾内の島々になったということです。



かっては海賊の住処だったこともあり、今も殆どの島が無人島ですが、このような海上生活者の村には小学校もありました。



無人島の一つに上陸しました。



様々な色彩でライトアップされた鍾乳洞を見て、船に帰りました。(2009年3月)