ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

故郷の低山-河内飯盛山に登る(2012. 02. 19)

2012-02-20 17:28:33 | 山日記
飯盛の山を仰げと襟にゆかし楠の香りよ…母校(高校)の校歌である。

私(変愚院)の生まれは大阪市内だが、国民学校(小学)5年生のとき北河内郡四条村(現大東市)に疎開して、小、中学校と終戦前後の多難な時代を過ごした。その後も高校、大学、そして就職と、新婚時代の2年間を除くと1969年まで25年間をここで暮らした。飯盛山には数え切れぬくらい登っているが、2003年に♀ペンと一緒に登ったときは東側(室池)からだったので、今日は久しぶりに正面の四条畷神社から登る。

四条畷でバスを下りて少し北に歩くと、小楠公御墓所と四条畷神社を東西に結ぶ商店街にでる。左に折れてJR片町線の踏切を渡り、まずは商店街の突き当りにある小楠公御墓所へお参りする。



「吉野をいでてうち向かう 飯盛山の松風に…」(唱歌・四条畷)

「小楠公」とは河内の郷士・楠木正成(大楠公)の嫡子である楠木正行の尊称である。
兵庫湊川で戦死した父・正成の遺志を継いで、南朝方として足利幕府軍と戦った楠木正行は、正平三年(1348年)に河内国四条縄手の戦いで足利方の高師直の大軍と戦って敗北し、弟の正時と刺し違えて自害した。



戦死した地とされている此処(異説あり)には当初、小さな石碑があったが、ほぼ100年後にその両脇に植えられた楠が今は合体して樹齢550年の大楠となった。60年前の私は毎日、この前を通って高校へ通学していた。学校の門を入ったところにも大きな楠が植えられていた。さて参拝をすませて、すっかり様相の変わった商店街を引き返し、踏切を渡って直進して正面に見える飯盛山へ。高校の帰りに寄った喫茶店、成人したあとでよく行った立ち飲み屋…なじみの店が一軒も残っていないのが淋しい。



東高野街道(国道170号線)を渡り鳥居を潜って広い参道を約600m、緩やかに登っていく。両側に続いていた筈の松並木はところどころに面影を残しているだけ。変わって新しい住宅が目に付く。



ここが神社の入口。階段を登ると左手が境内、社殿は南を向いている。墓地は東向きなので正対していない。



拝殿。主祭神は楠木正行、弟正時以下一族の将士24人を配祀している。明治23年、別格官幣社として創設された神社で戦意高揚にも利用されたが、私たち近辺の住民にとっては「なんこうさん」として親しんだ神社である。左手には正行の母・久子を祀る御妣神社がある。



境内東側の「桜井の別れ」像
湊川の戦いに臨む正茂(右)が、従軍を願う正行に天皇から贈られた短刀を渡し、「父なきあとわが意志を継いで天皇を守れ。それが汝の孝行だ」と諭す場面。「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕間暮れ…正成涙を打ち払いわが子正行呼び寄せて…」この唱歌「桜井の訣別」もよく歌った。

境内を出て神社南端から山に入る。笹原の中に続く旧登山道は「法面崩壊のため通行禁止。新登山道を…」の表示がある。どうも無視して歩かれているようだが、新しい道にも興味があるので標識に従って左に入る。道はまず南北に走る主稜線の西側斜面を等高線に沿うように北東に進む。左手斜面が開け梅林が造成中である。2003年に登った北の御机神社からの道(ほぼ主稜線沿い)に出合うまでには少し距離があるようだ。少し先にある分岐で右の雑木林をジグザグに登る踏み跡に入る。私たちの後から来た人があり、そのまま直進して行った。踏み跡はすぐにしっかりした登山道に合わさって、下りてきた人に出会う。毎日登る人が多いようで、どちらも軽装である。道は何度も分岐するが、ともかく高みを目指して登る。ときどき林が切れると展望が開け、下の町が次第に低くなっていく。



神社の登山口から35分で格好の展望台に出た。
南北の尾根上に並ぶ飯盛山城遺構のうち北端にあたる「二の丸廓」の一角である。見渡すと大東・四条畷の市街地の向こうに大阪のビル群。遠く六甲から北摂にかけての山々が霞んでいる。昔に比べると周囲の建物が増えたので、母校を探すのにやや手間取った。左右に一直線に伸びる白い線は第二京阪道路で、これは初めて見る眺めであった。
少し先の大きな岩塊が積み重なったところには「登山200回記念碑」が立っている。ここが「二の丸御体塚廓」。ここを下ると小さな石垣が残り、左は楠公寺へ200mの標識があった。山頂へは直進300mで、ここから先が本丸になる。三本松廓、蔵屋敷廓と少しづつ登っていき、



木の階段を登ると、展望台があり数人のハイカーが休んでいた。



さらに一段上が本丸高櫓廓のあった山頂で、楠正行の銅像が立っている。314.3mの三角点は周囲を探したが見つからなかった。小楠公銅像は背に太陽を背負って完全に逆光なので、横から写真を撮った。少し風があり汗が引くと寒さを感じたので南ヘ進み、ロープの下がっている急坂を下る。鞍部からも楠公寺へ下る道があり、舗装路を登っていくと右手にNHKと802のFM送信所がある。ここは本丸千畳敷廓。飯盛城は南北朝時代に始まり、室町時代の三好長慶が畿内経営の本拠として全盛期を迎えたが、信長によって廃城となった。南北1200mに及ぶ山稜に70もの廓が並ぶ巨大な山城であった。(以上、山頂に設置された大東市教育委員会の「飯盛城」案内板を参照した。)送信所を過ぎると南丸、城の入口「虎口」で城跡は終わる。市民植樹が行われている広場では、大グループのハイカーが食事中だった。私たちもしばらく腰を下ろしてコーヒータイムにする。



昼が近くなったためか南側から登ってくるハイカーが多くなった。こちらからの人はしっかりした装備の人が多い。桜池、尻池への道を左に分け「大東の杜ハイキングコース」に入る。さらに分岐があるが、右へ「竹林コース」を下る。林の中の緩やかな下りから次の分岐で急な坂道となり、美しい竹林の中を行く。清らかな流れに小さな水車を回す「ちくりんの水」が三か所あり、山神の祠を過ぎると右から下ってきた「絵日傘コース」と合流する。左手の流れに沿って下り、車道が登ってきているところで橋を渡って左の山道に入る。ここから少し登ると観音峠の標識があった。右に展望台らしい所が見えるので登ってみる。



展望広場には「野崎城址」の表示があった。飯盛山南西の尾根上にあり、眼下に東高野街道を見下ろす軍事上の要衝であったらしく、太平記にも登場する南北朝の頃築かれ、飯盛城が栄えた16世紀には出城の役割を果たしたという。この野崎城については初めて知った。展望台のある廓の下にも二つの廓址があり、それぞれ展望が良い。眼下にかって学んだ小学校(今は統廃合されてコミュニティセンターへ衣替え中)、その向こうに大東市街、さらに向こうには「なみはやドーム」や大阪のビル群が見える。大阪城はしばらく探しても見つからなかった。最後の廓址には九重石塔が立っている。100mほど先に吊り橋があるというので見に行ったが短いものだった。石塔に帰り少し下りると、野崎観音境内の鐘楼横にでた。



正しくは福聚山慈眼寺という禅寺だが、東海林太郎の「野崎小唄」や落語の「野崎詣り」、新版歌祭文~野崎村の段「お染久松」有名である。幼い頃から「のざきのかんのんさん」で親しみ、5月1日から10日までの「のざきまいり」は参道にずらりと屋台が並び、特に8日の無縁経法要の日は「ようかび」といって小・中学校が休校だった。新制中学ができたばかりの1年生の頃、図書館の本の費用捻出のために、工作の時間に造った屋形船を境内で売ったことがある。また本尊の十一面観音は行基作と伝えられ、縁結び・安産・子授けのご利益があるといわれている。息子が生まれる前の安産祈願に行って腹帯を頂いたのもこの寺である。



お染久松の墓。前の池の畔にウメの花が綻び始めていた。
山門を出て参道を下り東高野街道のバス停で、懐かしい故郷の低山歩きを終えた。様々な思い出とともに新しい発見もあり、短いが充実した山歩きだった。

<コースタイム> 四条畷(近鉄バス)09:33…小楠公御墓所09:40~09:45…四条畷神社10:00~10:10…二の丸廓址10:45~10:50…飯盛山11:00~11:20…竹林コース入口11:30…野崎城址12:00~12:05…野崎観音12:20~12:30…野崎観音前(近鉄バス)12:35