小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 15

2014-04-18 12:20:35 | 小説
 八郎の暗殺された文久3年4月13日は、現行歴に換算すれば1863年5月30日である。
 暗殺された時刻は『官武通紀』に「夕七ツ時頃」と記し、増戸武兵衛の談話では「七ツ頃、即ち今の午後四時頃」、泥舟も「薄暮」と語った。
 七ツ頃というのは確からしい。しかし、増戸の「今の午後四時頃」というのは、筆録者の付けたしではないだろうか。
 1863年5月30日の江戸の「日の入り」は午後6時50分であった。すると、この日の7ツという時刻は午後5時頃に相当しそうである。つまり、八郎が暗殺されてから日没まで1時間50分しかない。
 暗殺現場の一の橋から石坂の宿舎のある馬喰町の井筒屋までは、およそ6キロ。ふつうに歩けば1時間15分かかる。なにが言いたいかというと、石坂に知らせた者も急ぎ、石坂も急いだとしても、石坂の現場到着は日没後になるのではないだろうか、ということだ。
 だが『石坂翁小伝』には、暗くなって到着した様子はない。
「……一の橋の所に苞を冠せてサウして番人が居る。即ち有馬と松平と両家から出て厳重に取締って居ります。近寄って見やうと思っても近寄せませぬ」
 石坂は、屍は拙者の仇であるから、一太刀恨ましてくれろと、抜刀して八郎の死骸に近づく。
「私の心配なのは五百人の連判帳夫れが幕吏の手に渡ったならば五百人皆尋ねられますから夫れを取りたいのが第一の望む所で懐中に手を入れて見ますと今の五百人の連判帳がチャンとありましたから夫れを第一に自分の懐中に収めて、さうして首を斬って二寸程着いて居りましたのを落して夫れを八郎の羽織に包んで夫れから自分の付属の者に此首を小石川の山岡鐡太郎の所まで持って行け、(略)」
 と指示したと述べている。
 よく石坂本人が八郎の首を持ち帰ったと書かれる評伝があるけれど、この石坂談話によると、別人が持ち帰っているのである。
 もとより石坂の関心は、八郎の首の奪回ではなかった。彼が気にしていたのは、「連判帳」であった。
 その朝の八郎と石坂の会話を思い出していただきたい。
 八郎は金子の家に同志徴募の件で行くと言っていた。だから、八郎は金子に見せる連判帳を持参しているはずと石坂は思ったのである。

清河八郎暗殺前後 14

2014-04-08 16:30:58 | 小説
さて、泥舟は八郎暗殺の様子について次のように述べている。

「(金子の家から)薄暮正明大酔して坐に堪へず、漸くにして辞し去り、帰途芝赤羽を過る時、佐々木只三郎に邂逅し、互いに一礼を表す、正明痛く頭を下げて礼をなす、忽ち魁偉の一男子、正明の後に現はれ、大喝一声電光一閃の間に、倐忽として正明の肩背を斫る、事不意なるを以て、正明刀を抜くに遑なく、惜乎終に斃る、是れ実に速見又四郎なり、其他永井某、高久某も亦之に與り、事成るを見て遁逃す」(『泥舟遺稿』)

 すすめられた駕籠を断って、歩いて帰ると言ったらしい八郎だから、大酔していたなどというのも泥舟一流の誇張であるが、前にあらわれた佐々木に挨拶するところを、後ろから迫った刺客に斬られたというのは、増戸武兵衛が目撃した傷の状況とも合致している。
 おそらく「一向二裏」という赤穂浪士も使った戦術に、八郎ははまったのである。正面の相手に気を取られているときに、後ろの二人の敵に斬られたのであろう。
 ところで泥舟はもとより目撃者ではない。では誰からこの様子を聞いたのであろうか。刺客たちからか。その可能性もあるが、私は別の人間から聞いたと推測している。石坂周造である。
 石坂周造の『石坂翁小伝』に、こう書かれている。

「清川(ママ)八郎が赤羽橋で暗殺されたと云ふことを仄に聴くや否や其の時分は人力と云ふものはございませぬで急ぐ時には四手駕籠、是に乗って飛ばして……」

 誰かが急いで告げにきたのならば、石坂はその人物名を忘れることはないだろうし、「仄に聴くや」などという微妙な言い方をしなくてすんだはずだ。石坂は現場近くにいたことを隠そうとしているとしか思えない。
 馬喰町の石坂の宿舎で一報を聞き、一の橋の現場へ駆けつけたにしては、石坂の到着はあまりにも早すぎるのである。
 大川周明は『清河八郎』で、「石坂周造は、馬を駆って飛ぶが如く現場に駆け付けた」と書いているが、そう書きたくなる気持ちもわからないではない。しかし石坂に伝えた者の所要時間もあるわけだから、石坂の到着はどっちにしたって早すぎるのである。

清河八郎暗殺前後 13

2014-03-28 14:45:53 | 小説
 上之山藩(上山藩と表記されるのが一般的である)は、現在の山形県上山市周辺を領有した藩で、金子は八郎と出羽国という郷里を同じくした間柄でもあった。
 その金子は泥舟のいうように「純正無二の佐幕家」ではなかった。むしろ朝廷に軸足をおいた公武合体論者であった。泥舟は金子のことを、よく知らなかったか、あるいは知っていて、わざとこういう決めつけをしたのである。
 ところで上山藩士の増戸武兵衛の史談会における発言は、金子の八郎暗殺関与の傍証のように扱われることが多いが、増戸の談話にはバイアスがかかっていると見たほうがよさそうである。
 なにしろ泥舟にしろ増戸の談話にしろ、金子や佐々木の死後のものである。死人に口なし、言いたい放題のことが言えるのである。
 増戸は、暗殺された直後の八郎の遺体を目撃していた。
「……七つ頃即ち今の午後四時頃に、表門の方で人殺があると云ふから出てみた。一ノ橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が前に倒れて、首が右に落ちかゝって転げて居ました。其の様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一二寸程かけて、右の方首筋の半ば過ぎまで。美事に切られて居ります。其上に腮の下辺に更に一刀痕あります。多分倒れた後で一刀を浴せかけたものと見えます。(略)右の手に鉄扇を持って居りましたと見え、右の手を伸べて其側に棄てゝありました。髪は総髪でありました。
 其処に大勢寄って、誰だらうと言ふて居るうちに、中村平助と云ふ者が、此は清河八郎のやうであると申しました。(略)清河ならば金子の友人である。金子に行って聞けば判らうと思ふて、中村等四五名と屋敷に戻り金子に聞くと、それは清河に相違ない、今朝から私を訪ね、午食を共にし酒も飲み、色々談話の末帰ったのである。惜しい事をした残念である……帰る時に、此節刺客が油断ならぬから、駕籠を傭はぬかと言っても、白昼そんな心配はないと言ふて出かけたが、惜しいこ事をしたと金子は申された」
 この金子の言葉を額面通りうけとらず、増戸は金子の暗殺関与を疑ったのであった。その理由に、金子が目付の杉浦と昵懇であり、杉浦に金子を紹介したのが佐々木だと聞かされたからだと語っている。

清河八郎暗殺前後 12

2014-03-27 16:01:16 | 小説
 泥舟によれば、浪士取締役の佐々木只三郎らの誣言(ないことをあることのように嘘を言うこと)を信じて、金子与三郎は八郎暗殺に加担した、という。「討幕の密謀」というのが誣言の中身である。
『泥舟遺稿』には、こう述べられている。
「……誣ゆるに正明が討幕の密謀既に成り、其期将に近きにありと告ぐ、金子は純誠無二の佐幕家なり、之を聞て怫然として怒り、乱賊の奴輩茲に至る、決して恕す可きものにあらず、之を鎮する須らく正明を除くに如かず、之れを為す其謀将に如何とするか、佐々木曰く、正明を君が家に招き、大いに酒食を侑めよ、我輩正明が帰途を要して、之を暗殺せん」
 泥舟はさらに、この前段で、佐々木は誣告によって閣老監察などを籠絡し、八郎の暗殺許可をとっていたと述べている。なぜなら佐々木は八郎に私怨を抱いていたからだと。
 佐々木は立場上は八郎より上なのに、「正明に及ばざること遠し、是を以て時々凌辱を加へられて憤懣に堪えず」「正明を忌むこと久し」と言っているのだ。男の嫉妬のようなものが、佐々木にあって、それが八郎暗殺に向かわせたとでも言いたげである。
 佐々木のことはさておき、金子与三郎のことである。
 金子はかねてより八郎と昵懇だったし、八郎の思想信条はよく知っている人物だった。八郎も金子を信頼し、自分の「著述もの」をすべて金子に預けていた。
 そのことは暗殺される前日に八郎が父の雷山に宛てた手紙にも書いている。「著述ものは羽州上之山城主松平山城守殿御守金子与三郎にあつけ置候間、上之山官庫に納め置筈に御座候」
 自分の信条を綴った著作を金子に託していたのである。そういう間柄であった。だから金子は佐々木などより、はるかに八郎のことは知っている。佐々木の誣言などに短絡的に反応するわけはないのである。
 八郎が暗殺される前のことであるが、金子はある日、小笠原閣老の屋敷に行って、小笠原の重役多賀隼人に、次のような質問を発していた。
「実は清河八郎を暗殺しようという者がいるらしいが、どう思われるか」そして「幕府の御家人のようだが……」とも語っている。
 この質問を発したことを金子の供をした上之山藩士増戸武兵衛が語っている。(史談会速記録)
 金子が泥舟のいうような暗殺当事者だったら、こんな質問はしないだろう。泥舟はなぜこんなつくり話をしなければならないのか。

清河八郎暗殺前後 11

2014-03-25 11:41:15 | 小説
 その朝のことを、泥舟はこう述べている。(『泥舟遺稿』より)
「四月十三日、正明将に金子が寓所(松平山城守が邸内)に行かんとして、突如として予が所に来たり、予一見するに、意色共に悪しく、殆ど病めるが如し」
 すると八郎は前夜より頭痛や目まいがすると答え、ほんとうは寝ていたいのだが約束だから行くという。泥舟はしきりと止めるのだが、八郎は「肯せざりき」と語り、そして八郎は「昨宵一首の国風を詠ず、之を書して以て閣下に呈せんと、予が側に在る白扇を取り、一首の和歌を書す」と言って例の歌を書きつけたというのである。
 泥舟は驚いて、これは「辞世の歌」ではないかというと、八郎はうなずいたとも述べている。
 しかし、これは泥舟の脚色だらけの回顧談である。
 なぜなら泥舟の妹の桂(のちに石坂周造の夫人となった)の談話によれば、八郎は泥舟が登城した後で、桂や泥舟夫人と雑談しており、そのときに数本の白扇を求めて例の歌をしたためているからである。泥舟は、その朝、この歌を見てはいないのである。
 八郎は、このときに別の歌も書きつけている。

  砕けてもまた砕けても寄る波は岩角をしも打砕くらむ

 この歌などは、とても泥舟のいう「辞世の歌」ではない。挫折してもひるまずに、なにごとか成し遂げようという強烈な意志を表明している。そして桂、泥舟夫人、さらに鉄舟夫人(泥舟の妹)のために三本の白扇に次の歌を書いている。

  君はただ尽しましませおみの道いもは外なく君を守らむ

 泥舟は、前日には目付と浪士組に関して深刻な話し合いをしており、八郎は八郎で泥舟に幕府の返答に関して督促を迫っていたのだから、この朝の二人のやりとりはもっと切迫したものがあったはずである。泥舟に歌を披露するいとまなど八郎にはなかったはずだ。八郎は、泥舟との会話の緊張を解くようにして、女性たちと雑談し、はじめて歌を白扇にしるしたのであった。
 さて、『泥舟遺稿』は金子に関して、名指しで八郎への殺意があった、と述べている。ほんとうのことだろうか。

清河八郎暗殺前後 10

2014-03-16 13:59:23 | 小説
 石坂周造の回顧談によれば、八郎暗殺の当日に、石坂も八郎に会いに行ったことになっている。はからずも石坂は八郎が金子の家に行った目的を述べている。
「之(金子)を同盟させると、五百や六百の有志ができるだらうと云って金子の家へ行くので私は丁度冨坂で別れました」(『石坂翁小伝』)
 まだ同志を集めようとしている八郎なのである。
 同志の横浜焼討ちを中止するために殺されに行ったとする説は、およそ成立しがたいのである。
 八郎の死は、「横浜焼討ち」と関係はないのである。それは暗殺側からしても、直接的な暗殺動機ではない、といえるだろう。
 なぜならば、八郎暗殺後に幕府は直ちに浪士組幹部を罷免させ、浪士組そのものを改編して「純乎たる幕府の御用団体」(大川周明・評)にしてしまうのだが、浪士組幹部を評定所に呼び出しての吟味内容が、横浜焼討ちの共同謀議ではないからである。いわゆる偽浪士とされる神戸、朽葉を勝手に斬首して両国橋に梟首した件であった。幕府は、なぜ、このことにこだわるのか。
 暗殺の翌日、幕府側の高橋泥舟、山岡鉄舟、松岡萬、窪田治部右衛門らは浪士組担当から免職され、石坂周造、村上俊五郎、和田理一郎、松沢良作、藤本昇の6名の幹部は15日に諸藩預かりとして、それぞれの江戸藩邸に禁固処分となっている。
 そして17日には、浪士組は庄内藩の所属となって、「新徴組」と命名されて江戸市中の巡警団体になってしまうのである。大川周明が「純乎たる幕府の御用団体」になったという所以である。
 かって松浦玲氏は、新選組を評して、「新選組が浪士組から引き継いだ『尽忠報国』を掲げていたときは、曲がりなりにも思想集団だった」が「思想集団であることを止めた」(『新選組』岩波新書)と書いたことがある。
 新徴組も、清河八郎という理論的支柱を失って、骨抜きにされ、やはり思想集団ではありえなくなった。
 新選組も新徴組も、いわば浪士組の鬼子であった。清河八郎が新選組あるいは新徴組の生みの親などと称されるとき、鬼子の親といわれて喜ぶひとはいないぜ、と私はいつも思う。
 さて、幕府にとって八郎は暗殺対象となる人物ではあったが、なぜ13日暗殺であったか、そのことに立ち戻らなければならない。

清河八郎暗殺前後 9

2014-03-14 14:06:44 | 小説
 ところで、その4月13日に、八郎は自分が襲われるとわかっていて、わざわざ殺されるために出かけたという説がある。小山松勝一郎は『清河八郎』にこう述べている。
「八郎の心は決まった。それは金子与三郎の招待を受けている十三日にある。一人で外出することは死を意味する。それは自分の死が浪士組の横浜焼き討ちをとどめる唯一の方法である。黙って死ぬ、これは『木雞』の精神である。(略)選ぶべき道は木雞のごとく黙って死んで行くことである」
 小山松勝一郎の八郎評伝を鵜呑みにしている藤沢周平の『回天の門』も、この、いわば八郎自殺説である。藤沢周平も書いている。
「しかし、八郎はいま、金子の招きに応じる決心を固めたのであった。走り出した同志を引きとめ、横浜焼打ちを停止させる手段は、いまはただひとつしかない。そのことが明瞭に見えていた。多分、金子がその決着をつけてくれるだろう」
 同志の横浜焼討ちを中止したいために、自ら殺されに出かける、というのは奇妙な論理である。
 八郎と浪士組が強固に結びついているのであれば、むしろ八郎の死は、残された同志の思いに火をつけ、弔い合戦として過激な行動に走らせることになるのではないか。
 もはや横浜焼討ちの有効性を疑っていた八郎は、同志たちにも、そのことは語っていたはずだし、雄弁をもって同志の無謀な計画ぐらいは中止できたはずだ。
 八郎の死は、横浜焼討ちを止めるための自己犠牲のような行為の結果とする見方は、泥舟ファミリーの談話にミスリードされているのである。
 その朝、泥舟の家で八郎は辞世のような歌を白扇に書いた。だからその日に死ぬことを覚悟していたというのもファミリーの談話からの類推である。

  魁てまたさきがけて死出の山まよひはせまじ皇の道

 辞世にするつもりの歌かもしれないが、この歌を八郎がいつ作っていたかは実のところ定かではない。この日、即興的に詠んだとは言い切れないのである。
 この日、八郎は死ぬつもりはない。夜になれば、あるいは明日以降、小栗上野介との対決が予定されているのに、むざむざと殺されに行くわけはないのだ。(続く)

清河八郎暗殺前後 8

2014-03-04 15:52:30 | 小説
 偽浪士の一件は、八郎たち浪士組の思想信条たる「尽忠報国」を冒涜するものであった。その策謀が、ほんとうに小栗上野介によるものかどうか、幕府側の態度が煮えきらないから、直接に小栗に確かめてみようと考えたのは、おそらく清河八郎である。浪士組の藤本昇らによる小栗上野介の拉致計画のあったことは、先に引用した大川周明の記述にも明記されていた。
 こんな大胆不敵なことを思いつくのは八郎ぐらいしかいないだろう。2月に上洛して朝廷に建白したおりにも「たとい有司の人」、つまり幕府の役人であろうと天皇の命令を妨げるものがあれば容赦はしない、と言い切った八郎である。
 八郎と小栗には因縁があった。八郎の儒学の師である安積艮斎が最初に私塾を開いたのは、神田駿河台の旗本小栗家の屋敷内である。つまり、そこは小栗上野介の父の屋敷であった。だから上野介も10歳の頃から安積艮斎の教えを受けていた。小栗上野介は八郎より4歳年上で、安積塾でも兄弟子にあたるのだった。
 その小栗を拉致して、というか強引に引きずり出して真偽をただそうというのは、並々ならぬ覚悟のいることだった。しかし同門の八郎だからこそ真偽をただすことも可能と周囲の者も思ったかもしれない。
 ところで、幕府側からすれば、小栗を拉致されるということなど許しがたいことだった。関東一円の治安維持を担う関東取締出役を配下にもつトップが拉致されては、幕府の威信は地におちるではないか。
 ちなみに、その拉致計画実行者として名のあげられている藤本昇は浪士組の三番組にいた。その組の小頭は石坂周造である。石坂の部下だった肥前長崎の浪人である。ところが石坂は、なぜか藤本の小栗上野介拉致計画についてなにも語っていない。
 いったい清河八郎暗殺については、史料に不自然な空白がある。なぜ、その空白が生じているかを類推すると、しだいに見えてくるものがあるのだ。
 さて、小栗の拉致計画の実行日はいつ予定されていたか。
 4月13日夜だった。
 そうなのだ、八郎が暗殺される日である。偶然、同じ日であるわけがない。八郎が暗殺されたので、この計画は中止された。
 その中止こそが八郎暗殺の狙いだった。(続く)

清河八郎暗殺前後 7

2014-03-02 19:39:21 | 小説
 高橋泥舟は、清河八郎の暗殺指令者を、小笠原長行と思うと名指している(史談会)ようだが、小栗上野介の名はあげていない。しかし、老中格小笠原図書頭長行の命令というのも、ある種のぼかしがある。暗殺指令は上洛中の老中板倉勝静から出ており、それを在府の小笠原図書頭が実行させたという証言があるからである。
『官武通紀』という記録がある。
 文久2年から元治元年に至る3年間の重要な出来事を、公私の記録をもとに玉虫左太夫(仙台藩士)が編纂したものだ。その中に「浪人召捕始末」という記事があり、「清川八郎逢殺害候大略調」という項目がある。そこにはこう書かれている。
「四月七日 京都行之御老中周防守(板倉)殿より御内書にて、速水又四郎(暗殺者のひとり)へ被仰付候は、清川八郎切支丹にて身を隠し候由にて、中々手取にては手に入兼候間、だまし打ちに討取候様御内々被仰付候に付……」
 攘夷論者として高名な八郎をキリシタンというのもどうかと思うが、ほかの伝聞が混じっているのかもしれない。ともあれ老中から内密の指示が出ていたというわけだ。
 暗殺せざるを得ない理由としては、後に続く文章で、四月十五日に江戸と横浜の焼討ちを手配しているから捨て置けなかったとしている。八郎を大将にして250名ばかりが長州と一手になり、とも記録している。
 ついでながら、八郎暗殺の翌日の4月14日の目付杉浦の日記には冒頭、両町奉行と小笠原図書頭の名が記されている。3人と会ったということなのである。会った目的は八郎の事件のこととしか思えないが、詳細はなにも書かれていない。
 さて、勘定奉行小栗上野介の話はどうなったのか。
 関東一円の治安維持を担う「八州廻」つまり関東取締出役は勘定奉行の配下であった。浪人たちの取り締まりが実務であったから、偽浪士として乱暴狼藉を働いた神戸や朽葉が小栗の名を使嗾者としてあげても不自然ではない。
 しかし八郎は、この小栗の一件の裏をとろうとしていた。(続く)

清河八郎暗殺前後 6

2014-02-27 18:00:35 | 小説
 清河八郎暗殺の前日に、目付となにやら切迫した深刻な話をしている3人の人物の中に、高橋泥舟がいるということは、私には大きな驚きだった。
 よく知られているように、八郎は暗殺される当日の朝、高橋泥舟の家に立ち寄っている。その朝の様子は、ふたたび大川周明の筆を借りると次のようなものである。
「高橋は八郎の顔色すぐれないのを見て、何うかしたかと訊ねた。八郎は頭痛がして気分が悪いけれど、約束があるから出かけねばならぬと言ふ。高橋は是非思いひ止まるやうにと言って、登上(城)の時刻が来たので八郎を残して出ていった。」
 まるで、ふだんと変わらぬ日常会話が交わされているだけだ。おかしくはないか。高橋泥舟は前日の目付との切迫した話を、なぜ話題にしなかったのか。
 八郎は泥舟に、朽葉や神戸らに書かせた血判口上書の件で幕府から答弁させるように迫っていた。小栗上野介が事実、浪士組をおとしめるために策を弄したかどうか、という一点である。この弁解には閣老も窮していたが、泥舟もまた、八郎に煽られて、おだやかではなかったのである。
 この日も八郎は、泥舟にはっぱをかけるために寄ったのではないかと思われる。日常会話で終始したわけはないのである。
 ここで注意をしておかなければいけないのは、八郎の暗殺当日の様子は、すべて高橋泥舟ファミリーの証言しかないということである。その朝の八郎と泥舟の会話だって、事実は、それこそ切迫したものであっても、隠されればそれまでである。なお、そのファミリーの中には、むろん泥舟の妹と結婚した石坂周造も入っている。八郎暗殺後にいち早く駆けつけたのは石坂であった。
 さて、目付杉浦は八郎暗殺に、どう関わっていたか。
 実は杉浦目付は、八郎の暗殺者たち佐々木只三郎ら6人の「再勤の儀」を若年寄りなどに申し上げたと、事件後2か月経った6月26日の日記に記録している。これで、たとえば佐々木は富士見御宝蔵番として役職復帰するのである。刺客としての役目は果たしたからだ。目付杉浦は、八郎暗殺の、ある意味では黒幕のひとりである。
 くどいようだが、もう一度書いておく。この目付と、暗殺の前日に高橋泥舟は話しこんでいた、と。(続く)

清河八郎暗殺前後 5

2014-02-25 17:22:34 | 小説
 浪士組の帰府は3月28日だった。浪士掛でもあった目付杉浦は、これより1日早い27日に江戸に到着していた。大坂から軍艦に乗って品川経由で江戸入りしたのであった。陸路を歩いた浪士組を追い抜くようにしての到着だ。
 さて浪士組の帰府から、清河八郎の暗殺される4月13日まで、目付杉浦の日記には浪士組に関する記述(といってもメモ書きのような短いものばかりだが)11件ある。
 その11件を以下に転記する。


 4月3日 浪士、札差 江 切迫一條起ル

 4月4日 晴れ 浪士御手当、壱ヶ年三十六両御下知済

 4月6日 雨  △治部右衛門、格式上リ之旨河内守殿 江 申上ル
         △高橋・中條引込、浪士一件甚六ケ敷し

 注記しておくと、治部右衛門とは浪士取締役の窪田治部右衛門のことであり、河内守とは井上老中のことである。
 高橋とあるのは浪士取扱の高橋泥舟のことであり、中條とは同じく浪士取扱の中條金之助のことである。「引込」の意味もよくわからないし、「はなはだ難しくなってきた浪士一件」が具体的に何を指すのか記述されてはいない。困難な浪士問題打開のために、あるいは高橋と中條を親密な配下として引き込んだということであろうか。

 4月7日 雨 松岡萬・高橋見込四ケ條申立て
 
 松岡と高橋がどんなことを申立てか、ここでも詳細は不明である。

 4月8日 曇 △山岡来ル
        △高橋見込之趣、昨日松岡申聞候ケ條
          ○破格 ○爵録 ○御用ヘヤ入 ○屋敷
        △高橋其外暴論応接

 この日、山岡鉄太郎が来ている。高橋と一緒になったらしい。暴論を吐いた「高橋そのほか」に山岡もふくまれているだろう。むろん「暴論」の中身は明らかにされていない。


 4月9日 雨 浪士屋敷評議

 4月10日 △昨夜中、両国天誅  神戸六郎 朽葉新吉

 考えてみれば、無頼の徒であるはずの両人の名を目付がわざわざ記すのも異常である。

 4月12日 高橋・萬、金一條尤切迫

 目付の杉浦日記の中で注目すべきは、この12日の記述である。なにしろ八郎暗殺前日のことである。高橋泥舟と松岡萬と中條金之助の3人が目付となにやら切迫した話をしているらしい。
 そして暗殺当日の13日、杉浦は清河八郎のことは無視である。なにも書かない。
 神戸や朽葉の天誅は記述したくせに、八郎にはまるで無関心なこの不自然さを、なんと解釈するか。

  

清河八郎暗殺前後 4

2014-02-24 14:36:38 | 小説
 その証言者とは、ほかならぬ石坂周造である。
 大川周明が、神戸六郎の首を斬った当事者として名をあげた石坂周造である。虎尾の会いらいの八郎の同志の、あの石坂である。
 石坂の口述を筆記した『石坂翁小伝』(明治33年刊)で、彼はこう述べているのである。
「……自分の部下の奴で、府下の良民を脅迫して金銭を貪った神戸六郎、口葉新吉と云ふものがありました、夫れを仲間の者が捕らへて首を斬って両国米沢町へ梟しました」
 口葉新吉とはむろん朽葉新吉のことだが、この石坂の回顧談では、大川周明の記述とは逆で、石坂が朽葉の首を斬り、村上俊五郎が神戸六郎の首を斬ったことになっている。
 その違いはともかく、重要なのは石坂が、朽葉と神戸を自分の部下だと言っていることだ。
 となると、偽浪士ではなく、本物の浪士組の構成員ということになるではないか。
 では、一同を外出禁止にして、偽浪士の出現をあぶりだしたという、あの話はなんだったのか。しかも梟首の高札の「報国有志」の「名儀を飾る」という文言から漂う「偽浪士組」のニュアンスはどうなるのか。
 疑わしいのは、むしろ石坂の証言である。
 不始末をした部下の首を晒すということは、天下に監督不行き届きと、規律の乱れをさらすようなものではないか。なぜ石坂はこんな証言をするのか。
 さらに不可解なのは、町方の吉原の町名主までが知っていた小栗上野助介の陰謀話にはいっさい言及していない。小栗のおの字も出てこない。逆に言えば、小栗の陰謀話を隠ぺいするには、朽葉、神戸は自分の部下だったという必要があったように思われる。
 さて、この時期の幕府の目付の日記というかメモ(注)のようなものが残されている。たいへんに興味深いものだが、その目付とは杉浦誠(通称正一郎)である。号は梅潭。文久2年8月から文久3年7月まで目付で、のち長崎奉行、そして最後の箱館奉行だった人物だ。
 浪士組に濃厚に関わっているが、彼の日記には、なぜか清河八郎の名はまったく出てこない。
 さて、梟首のことは以下のように短くメモられているが、衝撃をうけているようである。ことさら書きつけているのである。

  十日 晴 昨夜中、両国天誅  神戸六郎 朽葉新吉

 杉浦の日記を検証してみよう。(続く)

(注)『杉浦梅潭目付日記』

清河八郎暗殺前後 3

2014-02-21 13:19:13 | 小説
 吉原町名主の山口庄兵衛の文久3年4月8日付け書面に記録されている風説の概要は次のようなものである。(注:1)

 4月6日に偽浪士の岡田周蔵(朽葉新吉)が配下2人とともに久喜万の仮宅において無銭遊興したあげく、遊女・新造・禿など8、9人ほど連れ出し、伝馬船に乗せて両国の象見物に召し連れ、小屋主から金銭を強請って、途中の料理屋青柳で酒食した。
 さらに新吉原へ繰り出そうと船に乗るところを、通りかかった浪士組の松岡万と草野剛三ら7人に見つけられ、三笠町の浪人屋敷の土蔵に投獄された。
 また玉屋山三郎方へ参った浪人屋敷の食客神戸六郎も偽浪士をはたらいたことが露見し、浪人屋敷の土蔵に投獄された。
 取調べによれば、駿河台の勝手方勘定奉行の小栗上野介忠順が浪士組の評判を落とすため、ことさら神戸らに乱暴させていることが判明したという。

 幕府側というか、小栗の陰謀は、なんだか公然と語られているのだが、こういう情報をリークするのは浪士組のほかにはありえない。
 偽浪士たちの乱暴狼藉に迷惑しているのは、こっちのほうで、元凶は小栗だと町方の者に知らしているのである。
 神戸と朽葉の首が4月9日に両国広小路に晒されたのは事実で、江戸の画工田吹亭斎が、その様子を絵にしている。その絵をさらに鹿島則孝(鹿島神宮の神官)が模写したものを写真にあげておいた。(注:2)
 高札の文言は大川周明が引用したものとは違って、もっと簡潔である。ただし「報国有志」の「名儀を飾り」とあるから、偽浪士というニュアンスは伝えている。
 ところで、ほんとに偽浪士と言い切れるのかどうか。迷うような妙な証言がある。(続く)


(注:1)日野市立新選組のふるさと歴史館叢書第十輯「巡回特別展 新選組」15頁コラム③参照
(注:2)和本「あすか川」(「桜斎随筆」所収)より

清河八郎暗殺前後 2

2014-02-20 17:23:21 | 小説
 大川周明の偽浪士に関する論述は、典拠とした史料が明らかにされていないが、真偽の検証もふくめて叩き台とするため、長くなるけれど以下に引用しておく。

〈幕府は如何にしても浪士組を抑圧しやうと苦心した。此時閣老に向って苦肉の策を献じたのは小栗上野介である。彼は閣老と図り、市中無頼の徒を雇ひ、三笠町浪士の名を騙って乱暴狼藉を働かしめ之によって浪士の名を傷け、抑圧の口実を造らんと試みた。そのために市中の町家から、毎日のやうに町奉行に三笠町浪士狼藉の訴があったので、町奉行は閣老の詭計とも知らず、浪士取扱に向って下のやうな照会をした――
『近頃市中に於て、浪士体の者、商家に金銭を強請し、剰へ吉原等に出入りし、無銭遊興を為す趣、毎々訴へ出づ。右は尽忠報国の勇士に於て、決してあるまじき筋とは被存候へども、尚ほ厳重に取締候様被致度候』
 右の照会に接したる浪士等は、不面目なる嫌疑をかけられたことを憤慨し、其の冤罪なるを立証するため、先づ五日間厳重に一同を禁足し、一歩も門外に去ることを許さず、五日の後に取締山岡鉄舟をして、其間の様子を町奉行に問合はさせたが、浪士乱行の訴は少しも止まぬとのことであった。甚しきは当時両国広小路に興行中の象の見世物小屋に押かけ、象の鼻を斬らせよと難題を言ひ、金銭をゆすり取って吉原に遊興に出かけたと云ふやうなことさへあった。そこで浪士等は、其等の狼藉者を自分等の手で捕へたいと申込んだ。閣老と町奉行との間に、何の打合せも無かったので、町奉行は直ちに之を許可した。(略)
 浪士組は色々な計画を回らして、遂に浮浪の巨魁神戸六郎を初め、朽葉新吉以下三十六名を捕へ、三笠町屋敷の土蔵内で峻厳なる訊問を行ひ、小栗上野介の苦肉策に出たことを知り得た。一同は激しく激昂し、神戸朽葉以下三十六名の者から、小栗上野介に使嗾された旨の血判口上書を取り、山岡と同じく取締の一人なりし高橋泥舟をして、厳重に幕府に詰問させた。幕府は此の詰問に非常に狼狽し、事を有耶無耶の間に葬るべく、逆に先づ至急三十六名の引渡を要求した。
 四月九日の夕方である。八郎は奇遇して居た山岡鉄舟の座敷に座って居ると、下城したばかりの高橋泥舟が、肩衣を着たまゝ庭先に出て、垣根越しに山岡に向ひ、幕府から三十六名の引渡し要求があったことを告げた。之を聴いた八郎は、直ちに馬喰町に駈けつけ石坂周造、村上俊五郎の両人を伴ひ、三笠町屋敷にに急行して、神戸朽葉の両人を引出し邸内に斬首せしめた。神戸の首は石坂が長船長光の刀を以って、朽葉の首は村上が仙台国包の刀を以って、物の見事に斬落したのである。而して屍体は両国橋から河中に投じ、首は両国広小路に晒し、左の高札を晒首の側に立てた――
 其方共儀、報国志士の名義を偽り、市中を騒がせ、無銭飲食、剰へ金銭を貪り取候段、不届き至極に付、天誅を行なふ者也
(略)其後八郎は、手厳しく高橋を鞭撻し、毎日のやうに例の血判口上書に対する幕府の答弁を要求させた。この弁解には閣老も非常に窮したらしい。(略)一日も早く八郎を除かうと決心したのであらう。四月十三日夜には、藤本昇が稲熊力之助以下数名の部下を率ひて、神田駿河台なる小栗上野介邸に夜襲を試み、小栗を生擒する計画まで立てゝ居たが其夕八郎の遭難ありしため万事齟齬して了った。〉(大川周明全集第4巻『清河八郎』より)

 さて、これとよく似た話が吉原でもささやかれていた。(続く)


清河八郎暗殺前後 1

2014-02-19 16:01:27 | 小説
 上洛した清河八郎ら浪士組に、関白から江戸に帰れという命令が下ったのは、文久3年3月3日のことだった。
 この東下の命令は浪人奉行鵜殿鳩翁と同取締役山岡鉄太郎宛になっていた。
 生麦事件の処理が難航し、横浜にイギリスの軍艦が渡来しているから、いつイギリスと「兵端を開くやも計り難く」浪士は「速に東下して粉骨砕身可励忠誠候也」というものだった。
 だから清河八郎らは3月28日には江戸に帰った。(この命令に反して京都に残留した者たちが、のちに新選組となるのは言わずもがなである)
 江戸には浪士組が上洛したあとで、応募してきた100人を越える浪士たちがいて、窪田治部右衛門、中条金之助(この人物名を記憶しておいてほしい)などが取扱に任命されていたが、帰府浪士と合併して、本所三笠町の旗本小笠原加賀守の空屋敷を屯所とすることになった。
 もっとも清河八郎は山岡鉄太郎の家に寄寓し、同志の石坂周造と村上俊五郎は馬喰町の大松屋にいることにした。
 さて、幕府は学習院国事掛から直接に攘夷の朝旨を賜っている浪士組の存在は、うとましくなっていた。
 尽忠報国の思想集団としての浪士組の実体を骨抜きにする必要があった。つまり浪士組を抑圧する口実が必要だった。
 大川周明は八郎暗殺の原因のひとつに「偽浪士問題」をあげているが、その大川周明の論述を叩き台にして、暗殺側の動きを探ってみることにする。
 あらためて問いを発してみよう。
 八郎はなぜ暗殺されねばならなかったのか、なぜ暗殺日はあの日でなければいけなかったのか。(続く)