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じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

中学3年生1学期中間テスト対策(社会)

2018-05-11 19:57:16 | Weblog
☆ 中学校の中間テスト対策講座が始まりました。これから1週間、がんばります。

☆ 中学3年生社会科のプリントをつくりました。お暇な方は挑戦してください。

☆ 次の空欄に適する語句を入れなさい。

1.アメリカは日本を太平洋横断航路の中継地にするため、東インド艦隊司令長官(      )を派遣した。彼は(      )年、4隻の軍艦を率いて(      )に来航した。

2.1年後、幕府はアメリカと(        条約)を結び、(      )と(      )を開港、(       )にアメリカの領事を置いた。日本は長い間続いた鎖国政策を変え、(     )することにした。

3.1956年、アメリカの総領事(       )は日本に通商条約を結ぶことを要求した。外国との戦争を避けるため、幕府は朝廷に許可を求めたが許されず、
大老(        )は朝廷の許可を得ないまま(      )年に(         )を結んだ。この条約によって、(    )(    )(    )(    )(    )の5港を開港した。

4.この条約は、外国人を日本の法律で裁けない(         )を認め、また外国からの輸入品に対して日本が独自に税金をかける(         )がないなど不平等なものであった。

5.幕府が朝廷の許可を得ずに外国と条約を結んだため、天皇を尊び外国を排除しようという(        運動)が活発になった。大老井伊直弼は、幕府の政策に反対する人びとを厳しく処罰した。これを(        )という。こうした弾圧に反発した水戸藩の元藩士たちによって(      )年、井伊直弼は暗殺される。これを(          )という。

6.その後、幕府は朝廷との結びつきを強めようと天皇の妹を第14代将軍徳川家茂の夫人に迎えた。こうした動きを(       )という。

7.開国によって、外国からは、毛織物、綿織物、武器、艦船などが輸入され、日本からは生糸、茶などが輸出された。開国した当初、外国との金銀の交換比率の違いから、金貨が大量に国外に持ち出された。幕府はこれを防ぐため小判の質を落とした。その結果、物価が急速に(      )、庶民の生活が苦しくなった。江戸や大坂周辺では、借金の帳消しや売り渡した耕地の返還など(      )を求めて、大規模な一揆や打ちこわしが起こった。伊勢神宮のお札が天から降ってきたといって(「         」)と踊り騒ぐ現象が起こった。

8.1863年、尊王攘夷運動の中心であった(      藩)は関門海峡を通る外国船を砲撃、海峡を封鎖した。攘夷運動の高まりを恐れる幕府は京都からその藩やその藩を支持する公家を追放した。その藩は京都での主導権を取り戻すため1864年に京都を攻めるが、会津藩や薩摩藩などと戦って敗れる。同じ時期、(      )(      )(      )(      )の4カ国の艦隊がその藩を攻撃し、下関砲台を占領する。外国の軍事力の強さを知ったその藩では(       )や(       )といった若い藩士達が藩の主導権を握り倒幕に向かう。

9.薩摩藩でも、大名行列を横切ったイギリス商人を藩士が殺害した(     事件)をきっかけにイギリスと薩英戦争が起こり、鹿児島が攻撃される。これをきっかけに(       )や(      )といった若い藩士が藩の主導権を握った。

10.1866年、土佐藩出身の(       )は薩摩藩と長州藩を仲介し(       )を結ばれた。

11.第14代将軍徳川家茂が急死し、その後、(        )が第15代将軍となった。幕府は土佐藩のすすめで、1867年、政権を朝廷に返した。これを(        )という。薩摩藩の西郷隆盛や公家の(        )は天皇を中心とする政治を実現するため(      の大号令)を出した。また、徳川家の影響力を弱めるため将軍に官職や領地の返上を命じた。これを不服とする旧幕府軍は新政府軍と京都の(         )で戦ったが敗れた。新政府軍は東日本に進軍し、江戸城を明け渡させ、翌年には函館の五稜郭に立てこもった旧幕府軍を降伏させた。こうした旧幕府軍と新政府軍の一連の戦いを(        )という。

12.江戸時代の幕藩体制から近代国家へ移り変わる際の政治、経済、社会の変革を(       )という。新政府は、1868年、天皇が神に誓う形で方針を定めた。これを(          )という。

13.1869年、新政府は大名(藩主)が支配していた土地や人民を政府に返させた。これを(       )という。1871年には、藩を廃止して県を置き、中央政府から県令(東京、大阪、京都は府知事)を派遣して治めさせた。これを(        )という。中央政府は倒幕の中心となった(     )(     )(     )(     )出身者が実権を握ったので、この政治は後に(       )と呼ばれた。

14.江戸時代には厳しい身分制があったが、明治政府は武士、百姓、町人の身分を一つにした。これを(         )という。天皇の一族は(      )、公家や大名は(     )、武士は(     )、農民や町人は(      )と呼ばれることになった。1871年には、いわゆる(       )が出され、これまで「えた」「」として差別されてきた人々も「平民」となった。


15.政府は、1872年に(     )を公布し、学校制度を定めた。授業料は(     )の負担で、建設費は地元の負担だった。1873年には(     )が出され、満20歳になった男子は兵役の義務を負うことになった。その年、国家の財政を安定させるため、国民に土地の所有を認めた上で、①土地の所有者と価格(地価)を定め(     )を発行する、②地価を基準に税をかける、③税率は地価の(    %)として、(          )が(     )で納めるようになった。これを(        )という。これにより政府の財政は安定したが、負担は江戸時代と変わらなかったので各地で一揆が起こった。そのため、政府は1877年に地租を(    %)に引き下げた。

16.政府は欧米諸国に対抗するため、経済を発展させ、また強い軍隊をめざした。この政策を(      )という。経済を発展させるために産業を育てる(       )政策を進めた。生糸の増産や品質向上をめざして群馬県の(    )製糸場などの(         )を造った。

17.東京の(     )と(     )間に1872年、鉄道が開通。飛脚にかわる(     )制度も整えられた。道路には馬車が走り、ランプやガス灯がつくられた。衣服や食生活も変化し、暦も太陰暦から(      )に変わった。こうした社会の変化は(       )と呼ばれる。

18.慶応義塾をつくった(       )は(「        」)を著し自由や平等の思想を説いた。(        )はルソーの思想を紹介した。(       )の普及で日刊新聞や雑誌が発行されるようになった。

19.新政府にとって、幕末に結ばれた不平等条約の改正は大きな課題だった。岩倉具視を全権大使とする(        )には木戸孝允や大久保利通など政府の要人が随行し、2年間にわたり欧米の政治や産業、社会の状況を視察した。

20.政府は1871年、清と(         )を結ぶ。鎖国をする朝鮮に対して政府内では西郷隆盛らを中心に武力で朝鮮を開国させるといった(       )が主張されたが、国力の充実を優先するべきだという大久保利通らと対立。西郷や(       )は政府を去った。1875年、政府は軍艦を派遣して武力衝突を起こし(      事件)、これを口実に(        )を結ばせた。これは朝鮮にとって不平等なものであった。

21.1875年、国境線があいまいだった樺太の領有をめぐり、ロシアと(          )を結んだ。1876年には、小笠原諸島の日本の領有権が確定された。
政府は蝦夷地を(     )と改め、(     )という役所を置いた。そして、農業と兵士を兼業する(      )を配置した。
政府は1872年、琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とした。これを(       )という。

22.征韓論に敗れ政府を去った板垣退助や江藤新平などは1874年、議会の開設を要求する(            )を出し、大久保利通を中心とする政府を批判した。板垣は高知に(      )という政治団体を結成し運動を進めた。議会の開設し、国民が政治に参加する権利を確立するよう要求する運動を(         )という。一方、特権を奪われた士族は各地で反乱をおこす。中でも、1877年、西郷隆盛を中心とした鹿児島の士族と新政府軍との戦いは大規模なもので(       )と呼ばれる。結局、士族側は敗れ、政府批判は言論が中心になっていく。1880年、全国の代表者が大阪に集まって国会開設を求める(         )が結成される。また憲法を作成する動きも活発になってきた。

23.1881年に開拓使官有物払下げ事件が起こると、政府内で伊藤博文と民権派とのつながりが強い大隈重信が激しく対立し、伊藤は大隈を政府から追放する(明治十四年の政変)。同時に10年後の国会開設を約束する。板垣退助は(       )、大隈重信は(        )という政党を結成し国会開設に備えることになる。

24.伊藤博文は自らヨーロッパへ調査に行き、憲法について学ぶ。帰国すると1885年に、それまでの太政官制度にかえて(        )を発足させ、自ら初代の内閣総理大臣に就任した。
  (      )年2月11日、君主権の強いドイツの憲法を参考に(           )が発布される。(      )が元首として定められ、陸海軍の指揮権(統帥権)をもつことになった。
(      )と(      )の二院から成る(       )は1890年に開かれた。衆議院は直接国税(    円)以上を納める(満   歳)以上の男子に選挙権が与えられた。それは全人口の1.1%に過ぎないものだった。

25.19世紀後半、欧米では資本主義は急速に発展し、経済力や軍事力を背景に、新たな市場を求めて世界に勢力を伸ばしていった。列強諸国による植民地獲得の動きを(        )という。

26.条約改正に向けて、外務卿の井上馨は、日本を近代国家として認めてもらうために、(      )で舞踏会を開くなど(     政策)を進めた。井上の後を継いで外務大臣となった大隈重信も交渉を進めたが失敗。1886年には、イギリスのノルマントン号が和歌山沖で沈没した際に、多くの日本人乗客が死亡したにもかかわらず、イギリス人船長には軽い刑罰しか課されなかった事件(ノルマントン号事件)を受けて、条約改正の世論が高まった。1894年になって外務大臣の(        )が領事裁判権の撤廃に成功する。
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