塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

敬老の日に寄せて

2008年09月15日 | 徒然
   
 今日は敬老の日です。先週仙台へ遅い帰郷をしていましたが、仙台の地元紙河北新報に興味深いコラムを見つけました。著者には百歳を越えた母親がいて、かなり矍鑠としているそうですが、ある日通院か介護の際に、看護師に「さあ、立ってみようか。」とか何とか言われたがピクリとも動かない。そこで脇にいた著者が「敬語でお願いできますか。」と助言し、看護師が改めて「立っていただけますか。」と言ったところ著者の母親はすっと立ち上がったということでした。

 著者はそこに、百歳を越えた母の年を重ねた者の気高さを感じたということですが、私は年長者への敬意のあり方について考えさせられました。

 我々はともすると老人を小さいもの・弱いものとして扱いがちです。テレビなどでも、老いて小さくなったおばあちゃんを「かわいい」と表現する様がしばしばみられます(この「かわいい」という言葉にはとても違和感を覚えますが)。また介護などの番組を見ても、まるで友達のような軽い口調で接する場面の方が多いように思います。

 しかし、いかにしわを重ねて骨も曲がり小さな存在となったとしても、年長者は年長者であり、決して追い抜くことはできない敬意の対象であるべきではないかと改めて考えるようになりました。

 たとえば学生の時分、先輩は先輩として後輩から敬意をもって対され、先輩も年長者の威徳をもって後輩に接します。社会に出ても、地位による立場の逆転はあれど基本的には同様の関係にあります。先輩は後輩におごったり便宜を図ったりしますが、これは何も後輩からの見返りを求めての行為ではありません。その後輩がいずれ先輩になったときに、そのまた後輩に同じことをしてやる。こうした年長者から年少者への行為の連鎖・年少者から年長者への敬意の連鎖によって社会は連綿として成り立っているのだと思います。

 とすれば、老人を敬うとは人生の大先輩に対しての敬意であり、決して小さいものを慈しむというような精神に基づくものではありません。また、自分がそう接することによって初めて、将来老いたときに同じように尊敬されうるということになります。

 幼いころは、敬老の日といえばおじいちゃんおばあちゃんに久しぶりに電話をかける日という程度だったのですが、この歳になって自分の将来と今の立場との距離を考え直すような機会になってきたようです。こうしてみると、敬老の日や子供の日といった日本のカレンダーは、祝日がキリスト教に由来しているヨーロッパに対して、極めて儒教的であることを改めて感じさせられます。