前回の引き続きのようなネタですが、偶然です。先日、十数年ぶりに江戸城へ行ってきました。江戸城と一口に言っても、広い意味では千代田区・中央区はすべて江戸城内です。江戸城の西の丸や吹上曲輪一帯がいわゆる皇居であり、一般には立ち入れないのに対し、本丸・二の丸・三の丸の江戸時代の本城域は、皇居東御苑として現在一般に無料で公開されています。この東御苑を訪れたのが、中学以来十数年ぶりだったのです。
前回と今回で何が一番異なっていたか。それは、何といっても訪問客に占める外国人の割合です。十数年前には、少なくとも「外国人がいっぱいだ」という記憶はありませんが、今回訪れた際には、入城客の実に7~8割が外国人でした。英語以外の言葉も飛び交っていましたし、「日本人かな」と思っても、耳をそばだてると話している言葉は中国語や韓国語でした。
つまり、江戸城は今日外国人観光客にとって絶好の観光スポットになっているということです。考えてみれば、天皇や将軍の宮殿であるということは、ロンドンのバッキンガム宮殿やモスクワのクレムリンなどと同じであり、都会の数少ないオアシスとみれば、ニューヨークのセントラル・パークやベルリンのティーアガルテンなどと同じで、国の首都の観光地としては定番のものといえます。
そんなメジャーな観光地となっている江戸城に、近年天守閣の復元計画が持ち上がっています。現在本丸に残っている天守台に、いわゆる寛永天守を復元しようというものです。石原慎太郎東京都知事の思いつきのような発言でにわかに脚光を浴び、NPO法人「江戸城再建を目指す会」なるものまで発足しました。
しかし私は、城郭ファンの1人として、この計画には断固反対です。「城好きなら賛成なのでは?」と疑問に思われるでしょうが、私は「復元は大いに歓迎だが、その対象は決して天守ではない」という立場なのです。
徳川氏の居城としての江戸城には、3度天守閣が建造されました。普通江戸城天守といって想起されるもの、そして「江戸城再建を目指す会」が復元しようとしているものは、1638年に完成した3度目のものです。それでは最初のものはというと、徳川家康が1607年に築いたいわゆる慶長天守と呼ばれるもので、現在の天守台よりかなり南にありました。この天守は、家康死後の1622年、2代将軍秀忠によって解体され、新たな天守(元和天守)が建設されました。元和天守は、現在の天守台と同じ位置、あるいは少し東側にあったと推測されています。そして、秀忠死後の1638年、やはり3代将軍家光によって、新たな天守台の上に寛永天守が建設されたのです。すなわち、3つの天守はそれぞれ異なる位置に建っていたことになります。
江戸城天守台
ところが、この寛永天守は、1658年の明暦の大火(振袖火事)で焼失してしまいました。つまり、寛永天守が存在したのはわずか19年でした。もっとも、慶長天守も元和天守も存続期間は15年ほどですから、3つの天守のなかでは最も長寿であったことは確かです。しかし、江戸幕府の存在した264年と比べて、寛永天守が江戸城にそびえていた期間はあまりに短いといえるでしょう(13分の1程度)。そして、明暦の大火以降、江戸城が再び天守を戴くことはありませんでした。1658年以降の210年間、誰一人天守閣のある江戸城を見た人はいないのです。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」では、よく江戸城のイメージとして姫路城天守が使われていますが、どちらのドラマの時代にも、すでに天守は存在していませんでした。このように、当時の人々が知らない天守を再建することにどれほどの歴史的価値があるのかと考えると、大いに疑問です。
江戸城天守再建に反対する理由はもう1つあります。明暦の大火後の復興に際して、江戸城天守の再建は、幕閣の間でも当初真剣に話し合われていました。しかし、徳川家光の異母弟で幕府の重鎮であった保科正之が「天守など無用の長物」と反対すると、幕府内の意見は再建中止に傾き、以後大政奉還に至るまで再建されることはありませんでした。正之いわく、天守には実用的な価値はなく、遠見程度にしか利用できない高価なお飾りと考えられたのです。また、天守には権威の象徴という意味もありましたが、江戸幕府が安定をみた3代家光以降の時代にあっては、権威も十分に確立され、豪壮な天守を築く必要性はもはや失われていたのです。つまり要は、コストパフォーマンスに見合わないということから、210年間にわたって「天守などいらん」と判断され続けたということになります。当時の支配者・政治家が「無用の長物」と考えていたものを、なぜ現代になって歴史的建造物として復元する必要があるのでしょうか。やはり大いに疑問であるといわざるを得ません。
以上の2点からいえることは、江戸城の天守は江戸時代のほとんどの人々にとって「見たこともなければ、重要とも思わない」建物であったということです。こうしてみれば、単に江戸城で最もゴージャスで目立つ建物だったからというだけで、莫大な税金を投入して天守を再建するほど歴史的価値があるものとは、とてもいえないでしょう。
ただし、江戸城天守復元にはもう1つ重要な目的があります。最初に述べた通り、江戸城は近年急激に増えた外国人観光客の格好の観光スポットとなっています。復元天守をこうした外国向けの観光の目玉とする観光政策上の目的から考えれば、たしかに江戸城天守にはインパクトがあるといえます。私も、この観光目的上の価値については認めないわけではありません。しかし、この点は天守以外の建物、たとえば大奥や松の廊下などを再建することで十分補うことができると思います。とくに大奥などは、そこで将軍が何をしていたのか説明すれば、外国人観光客には天守以上にウケるのではないかと考えています。
天守台から本丸御殿跡を望む。
手前が大奥。
また、江戸城を訪れる外国人を観察していると、石垣や濠や土塁の松など一般の日本人はあまり目にとめないようなところを結構珍しがって撮っているように感じました。「日本の城ならバ~ンと天守」というのは実に日本人的な発想であって、外国人にとっては石垣や櫓や塀や門といった地味な部分も意外と興味をそそる、ジャパンオリジナルな風景と映るようです。
結論として、観光の目玉として江戸城の建物を復元するのは大いに結構ですが、天守はその対象としては優先順位が最も低いだろうというのが私の意見です。代わりに提案した大奥も松の廊下も、どちらも本丸御殿の一部です。御殿の復元というのは、前回の記事に取り上げた名古屋城本丸御殿の他にも、すでに復元工事が進んでいる熊本城や佐賀城など多くの例があり、最近のトレンドとも一致しています。城→天守という発想は、今日ではもはや時代遅れの単純短絡なものとなりつつあります。NPOの方にも石原都知事にも、今一度歴史的価値と観光上の効果をしっかり検討した上で、復元計画を練り直していただければと切に願います。
現存する江戸城天守台、これも3代目・寛永天守のものではなく、寛永天守焼失後に建てられようとした幻の4代目の天守の天守台ではなかったでしょうか?ですので、この上に寛永天守を再建するのは綿密に言えば間違いとなりますね。
天守の再建は城好きとしては楽しみな所ですが、櫓も御殿もなくぽつーんと天守だけというのはバランスが悪く気持ち悪いです。城(天守)じゃなく塔になっちゃいます。
こちらこそ、コメント多謝です。
そして、江戸城天守台の情報ありがとうございます。ご破算になった天守の天守台ということは、結局上に何も乗っていないのが正解ということになりますね!
やはり最近の風潮としては、天守よりも御殿や門、櫓の復元に力を入れ、城全体を往時のようすに近づけようという傾向にあるように思います。「とりあえず天守」というのは、穴太衆さんがおっしゃるとおり城好きにとっては気持ちの悪いもので、現行の客車をD51に引っ張らせたものを鉄道ファンの前で走らせるようなものです。時代に逆行しているとしか言いようがありません。
天守を建てるつもりで前田家に工事をさせたらしいですが、書いておられるように保科さんが天守再建を反対。場所は寛永天守台と同じなのかどうか分かりません。大きさは寛永天守よりやや縮小予定だったそうです。
ご存じかも知れませんが江戸城の指図などです。件数が多くて、この中に再建予定だった物があるのか確認はしていません。
http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html
今見たらサイトが重くなっていました。「東京都立図書館→デジタルライブラリー→貴重資料画像データベース→江戸城全件表示(または検索)」、でご覧下さい。
なるほど。天守台の位置については、寛永天守以前の2基も含めて、諸説あるようですね。ご紹介いただいた膨大な指図の山からお目当てのものを探すのは、ちょっと僕の能力では厳しいかもです・・。
しかし、もし本当に今ある天守台が幻の4代目天守のためのもので、石原知事やNPOが計画している天守がその4代目天守だとすると、これは大問題です。復元どころか、まったく新規の天守を建てることになるわけですから。。
ただ逆に、天守以外の建物については、写真も指図も豊富にあるわけですから、やはりここはトレンドにも合わせて御殿や門などできるところから再建していった方が確実でしょうね。
https://www.library.metro.tokyo.jp/17/019/17300.html
私の知っている限りでも、当初は天守を再建するつもりだったようです。やはり再建問題で重要になってくるのは、現在目にしている天守台に実際に天守が乗っていたのか否か、という点でしょうね。
私も、江戸城天守復元という運動には疑問でした。
本丸御殿が復元されたら最高ですが、それ以前に櫓や塀の復元をすべきだと思います。
皇居=樹木というイメージに今はなっていますが、石垣上の樹木が繁茂しすぎて石垣を痛めているとおもいます。樹木を適宜伐採し、塀を復元し、その両脇には櫓が上がれば城郭の雰囲気が出てくると思います。
コメントありがとうございます^^
石垣の孕みは、築城400年を迎えつつある全国の城が抱えている問題ですね。おっしゃる通り、建物を復元する前に足元の石垣が崩れてしまっては元も子もありません。
復元だけでなく、+保存+景観保護+外国人観光客誘致などなど、さまざまな課題のバランスを考えると、とても天守だけ建てればオワリという発想はできませんよね。
>莫大な税金を投入して天守を再建するほど歴史的価値があるものとは、とてもいえないでしょう。
寄付金で建てる計画のようです。
http://dot.asahi.com/wa/2013091800029.html
今ちょうど、大阪で寄付金によるサッカースタジアム建設が進んでいますが、目標額140億に対し既に110億集まったそうです。江戸城天守閣の場合、丸の内銀座日本橋一帯のブランド価値向上を見据えた企業からの大口寄付が期待できる上、サッカー場よりもはるかに幅広い層が関心を持つであろうことから個人による寄付も相当な規模になるはずで、大阪の3倍強にあたる寄付金募集も十分可能ではないかと考えます。
では、もし本丸御殿を再建しようとした場合、天守閣と比較して寄付金の集まり方はどうでしょう。やはり天守閣ほどにはお金を集められないのではないでしょうか。なぜなら寄付行為にこそ、天守閣の持つ「シンボルそのもの」としての機能が一番効いてくるからです。要するに「日本の城ならバ~ンと天守」だからこそ寄付も集まりやすいということです。
コメントありがとうございます。
まず、1つ大きな勘違いをなさっておいでのようですが、私は「税金で建てるから悪い」などとは書いておりません。記事を書いたころは、まだ五輪フィーバーもありませんでしたので、再建されるなら税金だろうということで、そのような表現になりました。
この記事の主題が財源の問題とは別のところにあることは導入部で示唆していますし、一貫していると思うのですが、そのようにご理解いただけなかったことは、私の文章力の至らぬところであると反省しております。
コメントを拝読する限り、寄付が集まりやすい事業が良い事業であるとお考えのようですが、私はそのようには思いません。また、これも記事にありますが、今日では天守よりも御殿復元の方がトレンドになっています。御殿が天守に劣るようにおっしゃっていますが、名古屋城本丸御殿のように、寄付金の目標額が集まった事例もあります(総工費の3分の1ですが)。
最後に、これもやはり記事に書いたことですが、江戸城復元で呼び込みたいのは外国人観光客です。「日本の城ならバ~ンと天守」というのは、(とくに昔の)日本人の感覚であって、外国人はそもそも江戸城がどんなものなのか知りません。そのような観光客に、「江戸幕府は264年続きましたが、この天守はそのうち19年間だけ存在しました。加えて位置も大きさも異なります」と説明されたら、どう思うでしょうか?文化意識の高いヨーロッパなどは、とくに復元の「忠実さ」に敏感です。
ただ、天守建設にまったく意味がないとは思っていません。フィーバーに乗せられただけではない、天守建設支持の方のご意見も多々うかがっております。そのようななかで、「寄付が集まりやすいから」というのは、残念ながら私には説得力のある意見とは思えません。
正確に考えをお伝えしようと思ったら、長文になってしまいました。付け加え等ございましたら、再度の投稿をお待ちしています。