塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

終戦記念日によせての雑感

2010年08月16日 | 社会考

 昨日15日は65回目の終戦記念日でした。

 甲子園では、毎年正午に黙祷が行われますが、今年はちょうど沖縄の興南高校の試合時だったのでより印象的でした。今年の黙祷は、試合開始が12:10ということから、めずらしく正午から5分ほどずれて行われました。

 この黙祷のようすを見ていて、ふと「彼らにとって戦争とは何なのだろうか」と思いました。彼らは当然ながら太平洋戦争を実際には知りません。「そういうあんただってそうだろ!」と言われればその通りですが、この10年ほどの差が、戦争に対する考え方に大きな違いをもたらしているのではないかと感じるのです。

 僕の親は団塊の世代を少し下った頃の人ですので、やはり当然戦争を知りません。しかし、祖父母は戦争中に青春時代を過ごした人たちです。祖父は、戦争末期に大学を繰り上げで卒業させられたそうです。

 何が言いたいかというと、僕の親の世代というのは、そのまた親からいくらでも戦争の話が聞けたはずです。実体験はなくても、身近な問題として聞き知ることができたことでしょう。しかし、僕らの世代は、3世代同居でない限りは1つ屋根の下に戦争の体験者はいません。ちょうど核家族化が定着したころでもありますから、僕らの世代にとって戦争とは、お盆に田舎に遊びに行ったとき以外には、なかなか普段の生活で聞き知ることのできないものとなっていたと思います。

 そして、僕らの世代からさらに10年ほど下った今の中高生の世代は、もはや祖父母が戦争を知らない世代となりつつあるのではないでしょうか。戦後65年ということは、ぼんやり記憶に残っているというだけでも、現在70歳代である必要があります。さらにはっきりした記憶や、当時の風潮などを尋ねるとするなら、80歳代以上でなければ無理でしょう。そう考えると、やはり甲子園でしおらしく黙祷を捧げる高校生の多くは、そろそろ祖父母が戦争を知らない世代となっていると思われます。

 また、戦争の語り部であるお年寄りの方も、当然ながら亡くなることによってこれからどんどん少なくなっていくことでしょう。加えて、語れる人たちがすべて80歳代以上となっていることから、たとえ元気に生きていたとしても、当時の記憶は薄れていっていることでしょう。

 そうなると、下からは僕ら「世帯内に戦争を知る人がいない」世代、さらに「家族が誰も戦争を知らない」世代が現れ、上では「戦争を語れる人」がますます減っているという状態に、現在あることになります。つまり、戦争が「過去」から「歴史」へと徐々に移行しつつあるということです。今でこそ、まだ政治の世界には戦争体験者が大勢頑張っていらっしゃいますが、いずれそう遠くない将来、国会から戦争体験者が消えてしまうことでしょう。

 そのとき、はたして「歴史」の問題がある程度解決されているのか、あるいは「家族が誰も戦争を知らない」世代まで背負わされるのか。そんなことを、今年の終戦記念日にふと考えました。

  



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