塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

桶狭間考②:今川義元の目的

2009年07月22日 | 歴史
  
 とうとう解散されました。ところが私の選挙区の議員である小泉チルドレンの1人は、突然自民党を離党してしまいました。もう訳が分かりません。

 さて前回に続き、桶狭間の戦いにおける疑問の2点目、「今川義元の目的は何だったのか」について考えてみたいと思います。

 従来、義元は一気に上洛しようと目論んでおり、尾張はその通過点に過ぎなかったとされてきました。しかし近年、義元の尾張侵攻の目的についても、様々な意見が出されるようになりました。その最大の理由は、当時の義元の状況や兵力では、一度に京まで兵を進めることは困難と考えられることです。

 東国から京へ向かうためには、大きく分けて美濃から現在の中山道(当時は東山道)を通るルートと、北伊勢から近江に入るルート(現在の東海道や八風街道)の2つがありました。桶狭間の戦いの前年、尾張を平定して間もない信長は、八風街道を通って個人的に上洛しています。つまり、義元や信長が上洛するためには、美濃と北伊勢の領有が必要でした。とりわけ美濃には、斎藤道三を殺して跡を継いだ斎藤義龍はじめ、多くの有力国人が根を張っていました。信長が攻略するのに桶狭間の勝利の後なお7年の歳月を要した美濃を、一度の侵攻で抑えるのはほぼ不可能と考えられます。

 また信長は、上洛の際に進路に隣接する浅井長政と婚姻同盟を結ぶなど、近隣諸国との関係を整えていましたが、義元にはそのような痕跡が見つかっていません。このことも、義元には上洛までの意思はなかったとする傍証とされています。

 それゆえ現在では、大きなものでも尾張一国の領有、小さなものでは織田軍に包囲されていた鳴海大高の2城の奪還にあったものと考えられています。

 ここで、鳴海・大高の二城の奪還が目的とすると、2万数千の大軍は逆に大げさに感じられるかもしれません。しかし実際に現地を歩いてみると、この両城とその周辺が、大軍を動かすのに十分な理由を持った地域であることが分かります。鳴海城も大高城も、現在と異なり、当時は天白川の河口付近にあり、眼前に海と入り江を望んでいました。天白川を挟んだ対岸には、古刹笠寺とその門前町や、塩街道の基点となっている富部神社、「愛知」の語源となったといわれる年魚市潟(あゆちがた)など、交通や商業の要地がありました。こうした要衝を取り巻くように、笠寺周辺には数多くの城館がひしめき合っていました。これらの城館のうち、鳴海・大高の両城は織田から今川へ寝返ったものでした。つまり、この2城を維持できるかどうかは、尾張南部の要衝に食い込むことができるかどうかに直結しているため、今川氏にとって単なる拠点確保以上の意味を持っていたのです。

 しかし私は、直接の目的は2城救援確保だったとしても、義元はもう少し先を目指していたと考えます。確たる理由があるわけではありませんが、拠点確保のためであれば、万の軍勢は必要としても義元自らが出馬する必要はないように思われるからです。義元としては、自ら指揮を執る以上、鳴海・大高といわずもっと軍を進めて成果を求めていたと考えるのが自然ではないでしょうか。

 もし義元の目標が上洛とまでは行かずとも、2城救援より先にあったとすれば、実際にはどこまでの進軍を予定していたのでしょうか。上洛説の次に大きな説は、尾張一国平定説になります。しかし尾張一国は、上洛説から見ればかなり縮小しているものの、実現性の面からそれでも目標として少々大きすぎるように私は思います。余り事を急げば、漁夫の利を狙って美濃の斎藤氏が侵攻してくる可能性も高まります。

 私の結論を先に申し上げると、義元は、現在の名古屋城付近まで進軍するつもりだったのではないかと考えます。名古屋城の前身の那古野城は、実は義元の父今川氏親が築いた城でした。すなわち、今川氏には以前名古屋近辺まで勢力を持っていた時期があったのです。この那古野城は、義元の弟といわれる今川氏豊が預かっていましたが、信長の父織田信秀が計略を用いて奪い取った城でした。つまり、那古野城は今川氏にとって、織田氏との間の因縁の城であり、また今川氏の尾張侵攻のシンボルでもありました。この城を奪い返し、名古屋台地周辺を抑えて拠点とすることができれば、義元自らが万の大軍を率いるに十分見合った成果になったといえます。ちなみに、当時の信長の居城は清洲城で、那古野城からは直線で5kmほど北西にあります。

 まとめると、義元の目的は、尾張一国とすると実現性の面から少々大きすぎあり、鳴海・大高の二城救援とすると大名自身が出馬しているという事実から少々小さすぎると考えられます。双方の中間の妥当な点を模索してみると、今川氏にとって重要な意味を持つ那古野城奪取を含めた名古屋台地周辺までの侵攻というのが、相当ではないかと考えに至るのです。

 ここからは、付言として完全に推測話になります。那古野城を手に入れたとして、義元は城主を誰にするつもりだったのか。元城主今川氏豊については、城を奪われた後京都に落ち延びたとされていますが、その後の消息は分かっていません。もしかしたら、義元には氏豊を探し出してもう一度城主に据えるつもりもあったかも知れません。ただ、氏豊が依然消息不明であったり、死亡していたり、あるいは俗世を離れていた場合、義元には叔父も兄弟も次男以下もいないため、他に一門衆と呼べる人物がいません。そこで私は、義元には2つの道があったと考えています。1つは、一旦隠居して家督を嫡男氏真に譲り、実権は握ったまま自身が那古野城に入って尾張経営にあたる道です。このような二元政治的手法は、当時一般的に行われていました(EX. 織田信長と信忠、徳川家康と信康、大友宗麟と義統)。もう1つは、養女築山殿を嫁がせ一門扱いとしていた松平元康(後の徳川家康)を封じる道です。通説では、家康は駿府で人質として不遇をかこっていたといわれています。しかし実際の元康の待遇を見てみると、義元の娘(養女ですが)を娶らせ、義元の「元」の字を与え、幼少時には名軍師太原雪斎の教育を受けさせるなど、かなり優遇されていたことが分かります。桶狭間の戦いに際しては、危険な包囲網を突破しての大高城への兵糧入れを命じ、三河勢の疲弊を狙ったともいわれています。ただこれも、手塩に育てた元康に見せ場を与えるためと解釈することもできます。もし元康を那古野に封じるつもりであったとすれば、この兵糧入れは、元康が尾張を任せるに十分な活躍をしたと家中に示しをつけるための配慮であったとすら説明できます。まあ、このような推測は最早検証不可能ですし、桶狭間の戦いの謎を解くにはさしたる助けにもならないのですが。

   



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