塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

安保法案にみるデモの性質の変容

2015年09月18日 | 政治
  
安保法案採決に向けた参議院での攻防が大詰めを迎えている。野党の身を挺した抵抗には冷ややかな視線が送られる一方、連日の国会周辺を中心とした一般市民のデモは大きな注目を集めている。

私の親以上の世代の人たちには、半世紀前の60年安保闘争の光景が蘇ったのではないだろうか。ただ、今回のデモには安保闘争を知らない若者や子育て中の主婦層などが多数参加していることから、政治の大きな転換であるとする見方もあるようだ。私もいわゆる「失われた20年」世代なので、当時のことは見聞きした限りでしか分からないが、60年安保闘争と今回の安保法案をめぐる賛否双方のデモ行動には違いがあると考えている。

60年安保闘争が勃発した昭和30年代は、まだ日本が再出発したばかりで国の形も定まりきっていない時期にあたり、それこそ国の存立危機が現実に認識されている時代だったのではないだろうか。そのようななかで日米安保条約に反対し、闘争を展開した人々は、人数の力や団結の力、突き詰めていえば実力行使によって実際の政策の転換を企図していたのだろうと思われる。

一方、今回の安保法案をめぐるデモの報道では、安保闘争時代の血が再び騒ぎ出した人ももちろん少なからず見受けられたが、本職を休んで参加しているという若い人たちのなかに、「この活動によって今すぐ政策を転換させられるとは考えていない。ただ、自分の意見を表明せずにはいられなかった」という趣旨の発言がいくつかみられたのが強く印象に残った。

つまり、自身の望む政策実現の道具ではなく、自らの意思表明の場として、デモを捉えているように感じられる。これは大きな違いであり、デモというよりアジテーションに近かった60年安保闘争から、本来の西欧的な意味でのデモンストレーションへの転換であるといえる。

ヨーロッパの個人主義において、自己の立場を明確にすることはとても重要である。自身が1票を投じて選んだ政権であっても、個々の政策に反対であれば、各人はきちんとNOを宣言する。意見を表明すること自体に意義があるのであり、NOをいかに実現するかはまた別の問題なのだ。

一例として、個人的に印象に残っていることがある。私は10年前にドイツに1年間留学したが、当時彼国では公立大学の学費値上げが検討され、当然ながら学生の猛反発を買った。学生は行動を起こすのだが、抗議のプラカードなどを掲げたテントが構内いたるところに張られ、デモ活動の参加者はそこから講義へ出席していた。だが、他には特別目立ったことは何もしない。とくに力に訴えるようなことはしない。

一度、州議会(私の留学先は州都所在地だった)の前でデモをやるから来ないかと誘われたことがある。そのとき、「ビールも持っておいで」と言われたのが衝撃的だった。実際、彼らは議会の建物の周辺で飲んで騒いで訴えて、それで終わりなのだ。

実力行使で目的を達成しようというアジテーション的な活動は、成熟した民主主義においては好ましくない。今回の安保法案では賛成派もまたデモ活動を行っており、現在のところ両者が衝突するような事態にはなっていない。これを個人の意思表明としてのデモ活動と捉えるならば、日本の有権者もまた成熟してきているといえるのではないだろうか。

ちなみに、デモでの意見表明から一歩進んだ実際の政策実現の活動は、これまでは集会や演説を中心に、最終的には選挙を通じた圧力として行われてきた。すなわち、成熟した有権者は選挙で意見を反映させるのであり、そのためには成熟した政治家が有権者の意見を尊重し、その受け皿とならなければならない。

だが、ネット社会となった現代では、個人の意見表明もネットを通じて行われることが多くなった。政治集会などと異なり、書き込みの向こうの書き込み主がどれだけ政治に関心をもっているかは不透明な部分がある。だからこそ、これからの政治家には受信力がますます求められるようになる。選挙のときだけ民意に耳を傾けているような態度をとりながら、当選した途端に風見鶏になる。そんな政治家ばかりでは、選挙を有権者の実力行使の場とする民主主義は機能しなくなる。

今回の安保法案についての賛否双方のデモを見ていて感じたのは、「日本の有権者は意外としっかりしている」ということだ。政治が堕落したとき、それを糺すのは有権者が先か政治家が先かというテーゼがある。日本ではどうやら、民衆が成熟する方が先だったようだ。これから焦らなければならないのは為政者の方だろう。願わくば、大きなイシューごとにいちいち政権が交代するような戦前からの日本の黒歴史は、もう繰り返さないでもらいたい。