今年の大河ドラマは、近年ではかなり成功している部類のようで、とくに主演の岡田准一さんの好演が評価されているように聞いています。私も、岡田さんの演技は重厚で好感をもっているのですが、いかんせん脚本が例年通り冗長なので、結局長くは観られないでいます。
最後にまともに見たのは山崎の戦いの回だったと思いますが、(私にとってはどうでもよい)ホームドラマの場面が大部分を占め、(私にとっては重要な)肝心の戦いのシーンがわずか2分ほどで終わってしまうという構成に、改めて失望し直しました。歴史モノのホームドラマは、私には朝の連続テレビ小説でお腹いっぱいです。
さて、愚痴はさておき、当の黒田官兵衛孝高(以下官兵衛で統一します)という人物は、評価の難しい武将であるといえると思います。ドラマの主人公としては、「軍師」とタイトルについている通り、豊臣秀吉を天下人にまで押し上げた陰の立役者として描ければ十分なのでしょうが、あくまでひとりの戦国武将・豊臣大名としてみると、必ずしも成功した人物とは言い切れない面があります。
黒田家は、関ヶ原の戦いの功績により筑前52万石の大封を得るに至りました。ですが、これは官兵衛に対するものではなく、すでに家督を継いでいた息子の長政の戦功に報いたものです。官兵衛自身がゲットできた領地は、秀吉から与えられた豊前6郡12万石(現在の大分県中津市を中心とした地域)にとどまっています。
この処遇については、秀吉が自分の天下をも脅かしかねない官兵衛の器量を恐れたためというのが、理由として一般的に流布しています。たしかに、官兵衛は関ヶ原の戦いで、にわか作りの傭兵集団で九州を席巻し、一大勢力を築き上げました。関ヶ原での本戦が短期決戦で幕を閉じたため、奥州の伊達政宗と共に、天下取りの夢が潰えてしまったともいわれています(もちろん、本人が公言した訳ではありませんが)。
秀吉が官兵衛の力量を恐れて高禄を与えなかったのだとすれば、それは逆説的に官兵衛の実力を高く評価していることになります。ですが、私は官兵衛という人物について、権謀術数には間違いなく長けていた反面、少なくとも性格においてはやや難のある人物だったのではないかと考えています。もちろん、性格面で完璧な人間などいませんが、官兵衛の場合はそれが出世の妨げになってしまうほど目立つものだったのではないかと推察しています。
その難点とは、官兵衛はかなりの「出しゃばり」だったのではないかというものです。ドラマでは熟慮遠謀・沈思黙考といった、どちらかといえばシブい役どころとなっているようですが、種々のエピソードからみえてくる実際の官兵衛は、むしろそうした裏方に徹するタイプからは程遠い性格の持ち主だったように感じられます。
もともと、黒田氏は播磨の小領主に過ぎなかったところ、御着城主小寺則職・政職父子に取り立てられ、とりわけ政職によって小寺氏重臣に引き上げられたとされています(ちなみに、大河ドラマでの政職は風采の上がらないやや惰弱な人物として演じられていますが、実際には下剋上で小大名規模にまでのし上がった実力者です)。織田信長の勢力が畿内に及ぶと、官兵衛は小寺氏の使者として、秀吉の仲介を経て信長に謁見します。そして、播磨平定軍として秀吉がやってくると、官兵衛は自らの居城姫山城(後の姫路城)を秀吉の拠点として差し出して、一族郎党を退去させるという挙に出ます。
後世の我々がエピソードとして聞く分には、後の天下人に対して機転を利かせた第一歩というように感じられるかもしれません。ですが、少なくともまだ直接の主人であった政職からみれば、自分の頭越しに信長直属の司令官に媚を売るような行為は、明らかに不愉快であったものと思われます。
さらに、官兵衛は子の松寿丸(後の長政)を信長へ人質に差し出しました。ドラマでは、政職が自分の子を出し渋ったために、やむなく官兵衛が代わりに長政を送ったという筋書きになっています。ですが、そのような事実を示すものはなく、そもそも小寺氏をはじめ、小寺氏とほぼ同格の大名別所氏や、小寺氏の形式上の主君に当たる播磨守護赤松氏にも、家族を人質に出したという記録はみられません。人質の要求がなかったとまでは判じかねますが、播磨に割拠する小大名たちに先んじて、官兵衛が目立つ形で人質を率先的に送ったというのが実際のところのように思われます。自分たちの頭越しにそのようなアピールをされては、やはり小寺氏らにとっては面白いはずはなかったでしょう。
別所長治、ついで荒木村重が信長に反旗を翻すと、政職もこれに応じました。3氏が信長に背いた理由は諸説あり定まってはいません。ですが、少なくとも政職に関してみれば、官兵衛が秀吉の側近として重用されるのに対して、播磨のもともとの主要勢力であった自分が顧みられなくなっていく現状に、不満が蓄積していたのではないかとも推測されます。
このとき、官兵衛は旧知とされる村重の説得に赴きましたが、逆に捕えられて土牢に監禁されてしまいました。使者への対応としてはかなり異例なもので、一体どんな説得の仕方をすれば、斬られもせず生かして帰すこともせず、足腰が立たなくなるまで牢に閉じ込めておくという措置がとられるに至るのか、不思議でなりません。「出しゃばり」というのとは違うかもしれませんが、殺すわけにも帰すわけにもいかず、かといって顔も見たくないと思わせるような何かがあったのでしょう。
本能寺の変の際、突然の凶報に取り乱す秀吉に、官兵衛が「機会が参りましたな」と耳打ちしたとする逸話があります。後世の書物が初出であり真偽のほどは分かりませんが、もし本当だとすれば、これは出過ぎた真似にもほどがあるでしょう。言われた人間がどう感じるかを考えれば、もう少し落ち着いてから機をみて(もっといえば意見を求められてから)献策すべきことでしょうに、思いついた瞬間にパッと口にしてしまうようでは、現代のお調子者な政治家と同レベルとさえいえてしまいます。この点については、官兵衛は後に親しい間柄となった小早川隆景から、「貴殿は頭の回転が良すぎて決断も早いから、逆に後悔することも多いだろう」という趣旨のたしなめを受けています。
また、文禄五年(1596)の慶長伏見地震で秀吉がいた伏見城が崩れたときには、真っ先に城下の屋敷から駆け付けたものの、「俺が死ななくて残念であったであろう」と言われたといわれています。これも真偽のほどは不明ですが、そういわれても仕方のないような空気が、当時2人の間には流れていたのではないかと推察されます。事実とすれば、秀吉が官兵衛の野心と才覚を恐れての発言というよりは、何かと出しゃばる官兵衛に、信長に草履取りから取り入って這い上がった自身の下積み時代を重ね合わせ、そんな官兵衛が本能寺の変に際しては冷静沈着に振る舞っていたことなどを思い出し、目の前の献身ぶりが空々しく映ってしまったと考える方がしっくりいくような気がします。
さて、九州平定戦で活躍した官兵衛は、先述の通り豊前中津12万石に封じられます。この石高は、よく官兵衛の実力を恐れてわざと低く抑えられたものだといわれます。ですが、たとえば豊臣政権の運営実務を担った譜代衆である三中老や五奉行の石高と比較すると、軒並み10万石台から最高で22万石程度であり、豊臣家の譜代大名としてみれば必ずしも不当に少なくされているとまではいえないように思います。
むしろ、領地関連で気になるのは、石田三成との関係です。三成と官兵衛の仲がどうだったかについては分かりませんが、秀吉の側近の座を巡ってライバル関係にあったことは想像に難くありません。文禄二年(1593)に隣国豊後の大友吉統(宗麟の子)が秀吉の勘気を蒙って改易されると、豊後国内には太田一吉や福原直高(長堯)、垣見一直、熊谷直盛といった、三成に近かったり縁戚だったりする武将が送り込まれました。たまたま豊後一国がぽっかり空いたためとはいえ、これだけ三成関連の大名ばかりが封じられるという裏には、何か理由があるように邪推がはたらきます。そこで直感的に考えられるのが、隣国黒田家への対抗です。既述のとおり官兵衛と三成が直接争った記録はありませんが、五奉行筆頭という三成の出世ぶりに対して、官兵衛は軍師とは呼ばれるもののとくにそういったポストがあるわけではなく、秀吉の天下統一後の扱いは冷遇といっても良いようにすら思われます。秀吉死後、黒田父子が真っ先に徳川家康に接近したのは、三成との政争に敗れて豊臣政権内での影響力を失っていたことが大きく関わっているように感じるのです。
関ヶ原の戦い後、長政が筑前52万石に大幅加増されると、官兵衛は福岡城築城には携わったものと思われますが、まもなく太宰府天満宮に隠棲しています。その後は政治の表舞台には出ることなく、慶長九年(1604)に亡くなっています。勝手な想像ですが、自身では手にすることのなかった52万石という大禄を長政が得るに至って、もはや自分が表に出ることは黒田家にとって害でしかないとついに悟り、すっぱりと隠退する決意をもったのではないかと推測しています。
太宰府天満宮境内の官兵衛草庵跡
蛇足ですが、関ヶ原の戦いにおいて九州で暴れ回った官兵衛には、天下への野心があったともいわれ、実際に本人もそれとなく仄めかすような発言をしていたともいわれています。ですが、私には本気で天下人になろうとまでは考えていなかったものと思っています。たしかに、官兵衛は九州各地で西軍の大名を次々と降していますが、それらはすべて自分と同格かそれ以下の規模にすぎず、しかもそのほとんどは大名自身が兵を率いて中央に出向いていました。もし本気で九州を平定しようと思ったら、主力を残している島津氏や鍋島氏、加藤氏を降さなければなりません。さらに、官兵衛は軍略調略の才を恐れられてはいたでしょうが、残念ながら秀吉のような余人を惹き付ける魅力には欠けていたように思います。よほど混沌とした状態に逆戻りしない限りは、官兵衛が天下を握る目はほとんどなかったでしょう。官兵衛自身が天下を口にしたとしても、それは頭に浮かんだ自虐を込めた皮肉が、彼の性格によってすぐに言明されてしまったものと解釈することもできます。
最後に、ドラマの方は残り3か月弱で終幕となるのでしょうが、ちゃんと話を回収しきれるのかちょっと心配です。現在が九州平定のあたりということですから、今後放送が予想されるエピソードは、豊前入国と城井宇都宮氏一族の虐殺(くわしくはこちらを参照)→小田原の役→文禄の役→秀次事件→慶長伏見地震→慶長の役→秀吉の死→長政の家康接近→関ヶ原の戦い(石垣原の戦い)→福岡転封→太宰府隠棲&死去と、まだまだ見どころが多数残っています。これらをちゃんと最後までやりきれるのか、どうも尻すぼみになってしまいそうな気がしてなりません。まぁ、もともともう観ていないので余計なお世話だとは思いますが。