塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

宍粟市性別変更男性の実父認定:先取気取りの最高裁判決

2014年01月12日 | 社会考
  
 昨年12月10日、性同一性障害により性別を女性から男性に変更した兵庫県宍粟市在住の夫について、妻が第三者から提供された精子による人工授精でもうけた子供に対し、実父と認定する最高裁判決が出された。これを受けて、夫婦は戸籍の訂正を宍粟市役所に提出し、今年の1月9日に夫は訂正された戸籍を手に会見を開いた。

 科学の急進がもたらした最先端の倫理的問題であるために、世間では議論紛々という以前に何が論点であるかすらまとまっていないというようにみえる。かくいう私も、この判断の良し悪しについては、恥ずかしながらまだしっかりした意見をもっているとはいえない状態だ。

 しかし、私は今回の最高裁での実父認定判決については、1つだけ明確におかしいと感じているところがある。それは、判決の根拠、言い換えれば判決への導かれ方である。

 報道によれば、判決の根拠とされたのは、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」と規定されている民法第772条である。だが、この規定を今回のケースに当てはめることが妥当ではないことは、ちょっと考えれば分かることだろう。「推定」という言葉が使われていることからも明らかなとおり、この規定は実の父親を科学的に証明する術をもたなかった頃のものだ。

 今日では、DNA鑑定により99%以上の精度で、父子・母子ともに実の親子かどうかの判定が可能となっている。DNA鑑定の技術が進歩する前は、おそらく血液型がもっともポピュラーな判断基準だったものと思われる。だが、血液型判定では、こと父子関係については「実の親子でない」ことを立証することはできても、「実の親子であること」は証明しきれない。たとえば、ともにA型の両親からAB型の子が生まれた場合、その子の父親はB型の別の男性であるということになる。しかし、A型の両親からA型の子が生まれたとしても、その子の父親が別のA型の男性である可能性を否定することはできない。したがって、「実の父子である」ということを科学的に立証することは、かつてはほぼ不可能であり、民法第772条はこうした技術的な限界によって法の穴が生じることを防ぐために設けられたものであると解せられる。

 ところが今回の場合は、推定する余地もなく誰の実子であるかは明明白白である。実の父親が明らかであるにもかかわらず、「推定」で他人を実父認定するというのは、条文の文言上からも制定された背景からも適切とはいえない。科学が未発達だったころの規定を、最先端の科学がもたらした案件に適用するというのは、あまりに矛盾したこじつけであるといわざるを得ない。

 こじつけが明らかであるということは、こじつけたい結論が先にあったということになる。すなわち、最高裁裁判官ともあろう人たちが、本来唯一の物差しとすべき法律を利用して、自らの主義主張を優先させたということだ。

 これは、法の番人としてのあるまじき態度というだけではない。法律や裁判を媒介として政治的主張を行うということは、三権分立に対する重大な挑戦といえる。この点については、裁判長を務めた大谷剛彦裁判官も、「立法で解決すべき」と指摘している。大谷裁判官は、5人の裁判官の多数決で決まる最高裁判決において、認定反対を唱えた2人のうちの1人である。裁判長が常識的な反応を示すなか、司法の本分をないがしろにする裁判官が過半数を占めたという事実は、非常に残念かつ危険なことである。

 このように、先取気取りで頓珍漢な判決を最高裁が下したのは、今回が初めてではない。当ブログでも取り上げたが、昨年9月の婚外子の相続格差についての最高裁判決も、解釈上の誤りや現実とのずれを孕んだ判決となってしまった重要な先例である。裁判官本人たちは革新的な決定を出したと悦に入っているだろうが、実際には古くさい旧然とした認識に基づいているため、主文に大きな矛盾やこじつけがみられる。この判決については、こちらの記事を参照していただきたい。

 以上に述べた通り、今回の実父認定判決は、それが倫理的に是か非かという以前に、裁判の過程上に大きな問題をもつものである。司法の独立性や三権分立の否定につながりかねないような人物が、こともあろうに最高裁の過半数を占めているかもしれないという現状に、大きな危機感を覚えざるを得ない。

 最後に、あくまで付け加えだが、今回の実父認定そのものの是非について私見を述べさせていただくと、現下のところ率直にいって私はすべきではないと考えている。実父とは本来生物学的な父親を指すものであって、原告の夫がそれに該当しないことは100%明らかである。100%のものをひっくり返すというのは、私のなかではそもそもあり得ないことだが、もしするというのであれば、それ相応の理由が必要であろう。だが、今回の問題を通して、それに値するほどの理由というものはどうも見いだせない。原告の夫からすれば悲願なのかもしれないが、あくまで個人的な願望の域を出ない。

 そもそも、なぜ養子ではダメで、実父でなければならないのかが私には理解できない。日本社会において養子縁組はそれほど特殊なことではない。養子縁組による親子が、血縁の親子に対して劣っていたり制度面で不利であるということはないように思う(家庭や周囲の環境によっては、実生活の面で不利益をこうむることもあろうが)。

 それ以上に、名目上の実父認定によって、当の子供が受ける不利益の方が重大なのではないだろうか。子供が将来大きくなり、自分のルーツに関心をもつようになったとき、この「実父」は息子に何と説明するのだろうか。息子が、自分の遺伝子の半分を構成する実の父親について知りたいと思ったとき(それはごく自然な感情であり、誰も咎めることはできないはずだ)、この「実父」は息子に「その人は精子を提供しただけに過ぎず、お前の「実父」は自分ただ1人だ」と胸を張って言うのだろうか。

 私には、この男性の「実父」になりたいという願望が、子供のことを考えてのものとはどうしても思えない。血縁にない、「実の子供」ではないがために、当の子供を所有物のように軽んじてはいないだろうか。子供ができない夫婦の苦しみというものは、私には今のところ共有することができないが、端からみると、どうも親のエゴに過ぎないのではないだろうかと感じてしまうのだ。