過激な内容について物議を醸している日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」において、スポンサー企業が全社CMを自粛するに至っている。代わりに、ACジャパンの公共CMが流されているということで、東日本大震災直後のような異常な事態になっているようだ。
私自身は、このドラマを観ていないし、観たいとも思わない。したがって内容については伝聞でしか知らないのだが、いじめを助長するから中止しろという批判は妥当ではないように思う。いじめを扱うことが表現の自由の枠外というのなら、サスペンスドラマや戦争ドラマなども、それぞれ殺人や右傾化を助長しかねないとして自粛しなければならなくなってしまう。ましてや、不倫を助長しかねない『失楽園』などもってのほかのはずだ。
今回の騒動を眺めていて、私がむしろ問題だと思うのは、制作側が取材をほとんど行っていないとされる点だ。「明日」で問題視されているものの1つに、児童養護施設で暮らす子供たちが中傷的なあだ名で呼ばれ、虐待されていることが挙げられていると聞く。とりわけ注目されるのが、「ポスト」というあだ名で呼ばれている主人公だ。赤ちゃんポストに捨てられていたからそう呼ばれるようになったということだが、赤ちゃんポストと聞けば、誰もが熊本の慈恵病院の赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」を思い起こすことだろう。というよりも、赤ちゃんポストは今のところ全国で慈恵病院にしかない。
赤ちゃんポストが全国に存在するというのなら話は別だが、唯一慈恵病院にしかないとなれば、同病院に取材するなり了解を求めるなりするのは必須のはずだ。だが、それを行っていないというのだから驚きだ。それどころか、児童養護施設を舞台としながら、全国に多数存在する同様の施設にも全く取材を行っていないと聞いている。そんな杜撰な、ほぼ100%先入観のみで作られたドラマについて、「最後まで見ていただければわかる」などと言い切れる自信は、いったいどこから来るのだろうか。ドラマの内容というよりも、その制作態度にこそ問題があるのではないかと思うのだ。
話は大きくなってしまうが、私は今回の騒動はドラマ1つの内容の是非にとどまらないと考えている。ことは、テレビという媒体そのものの存在意義に関わりかねない。というのも、近年ではテレビのオワコン化(廃れつつある)という話題がしばしば俎上に上っている。情報も娯楽も、いまやインターネットを通じて好きな時に好きなように手に入れることができるので、テレビなどなくても困らないという人が増えている。かくいう私も、テレビを観る時間は著しく減っており、新聞も政治・社会面より文化・地域面を読む時間の方が多くなっている。「明日、テレビがない」という状態になっても、おそらく私はさほど困らないだろうと思う。
他方で、インターネットにも大きな欠点がある。誰もがネット上に流すことができる膨大な情報について、その真偽の判断は受け手に委ねられるという点だ。人間というものは、得てして自分に都合の良い情報の方を信用しやすいものであり、その結果、いわゆるネトウヨやちゃんねらーのような集団がネット上を席巻してしまう。また、たとえ自分に都合の良い情報も悪い情報も一度精査してみる慎重さがあったとしても、実際にはそれぞれの情報源を自分の目で確かめることは非常に困難なことだ。たとえば、遠くの場所で起きた凄惨ないじめ事件について詳細を知りたいと思っても、そんな余裕もノウハウも情報収集者としての信用もない。
しかし、テレビや新聞などのメディアにはそれがある。というよりも、それが職務である。職務である以上、財的時間的余裕もあればノウハウもある。信用についてはだいぶ揺らいでいるが、ただの一個人の突撃取材よりはある。こうした、いうなれば「取材力」こそが、テレビがネットに勝る唯一無二の武器であると私は考える。情報源から生の情報を入手し、それらを精査・分析してお茶の間に伝える。それが本来のテレビというメディアの仕事であるはずだ。このプロセスの重要性は、ニュースに限らずドラマやバラエティでも変わらないはずだ。
つまり、「取材力」を保持し強化することこそが、テレビのオワコン化を食い止める最善の道であろうと思われる。強力な取材力を有する英BBC放送などは、グローバル化が進んだ今日、オワコン化するどころか世界中に影響を及ぼし続けている(内容の是非は別として)。
それに対して、日本のテレビ局の取材力の低下は、日に日に顕著になっているように感じられる。そこへ来て、今回とうとう「無取材」という事態が明らかとなった。取材が仕事のテレビが無取材を是とするなど、私は自らの存在意義否定に等しいと思う。今ごろ日本テレビはスポンサー企業に頭を下げて回っているところなのだろうが、自らの「無取材」について謝罪・弁明することがない限り、テレビのオワコン化に歯止めがかかることはないだろう。