塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

富士山世界遺産登録に便乗して :富岡製糸場に行ってきました。

2013年06月29日 | 旅行
  
 富士山が正式に世界文化遺産に登録されてから、初めての週末を迎えました。急激に増加するであろう観光客対策や、前々からいわれていた環境保全対策など課題もそれこそ「山積」していますが、まずは日本の誇る霊峰が世界に認められたことを素直に喜びたいと思います。当初は複合遺産から除外されていた静岡県の三保の松原も逆転登録となり、山梨県へのライバル意識を隠さない静岡県の方々もさぞやホッとなさっていることでしょう。結果的にみれば、すんなり通っていれば三保の松原はここまで注目されることはなかったでしょうから、怪我の功名といったところではないでしょうか。

 さて、これに先立つ先月のことですが、群馬県の富岡製糸場へ行ってまいりました。富岡製糸場は、来年の世界遺産登録を目指して日本が推薦している産業遺産です。今回の富士山登録を受けて、来年こそは我が身と、地元は張り切っているようです。私も、世界遺産に推薦されるほどだからさぞや・・・と楽しみに行ったのですが、結果は期待をかなり裏切られました。

 一言でいうと、「観光地としてとても残念」なところです。もちろん、世界遺産=優れた観光地である必要はありませんが、世界にその名を広めようというわりには、努力が足りなさすぎるように思うのです。

 
富岡製糸場跡


 初めに書いておきますと、富岡製糸場が目指しているのは産業遺産としての世界遺産であり、重要なのは、建物が立派だとか特徴的な技法で作られているとかいうことではなく、日本の近代化を語る上で欠くことのできない産業遺物であるという点です。すなわち、維新直後の日本にとって、外国に勝負できる輸出品目として有力なのは絹糸であり、製糸業の大規模化が日本の近代化にとって不可欠と判断した明治政府によって、富岡製糸場は官営模範工場の最初期のものとして建設されました。

 富岡製糸場の世界遺産登録は、建物以上にこうした歴史がその要件となっています。工場設営にあたっては、フランスからお抱え技師が招かれ、紡績技術も彼国から学んだそうで、こういった欧州とのつながりも、登録にあたっては強みとなるのでしょう。同じ産業遺産である石見銀山が、日本で鉱山といえば佐渡金山が思い起こされるところを差し置いて登録されたのも、おそらく金よりも銀の方が江戸時代の日本の対欧輸出品目としてメジャーだったからでしょう。

 産業遺産という性格上、富岡製糸場に厳島神社や姫路城のような観光性を求めること自体が間違いなのかもしれません。とはいえ、世界遺産登録を目指して町おこしに湧いているところ、というようにもどうしても感じられませんでした。いや、湧いていない訳ではないのですが、内容が至るところお粗末なのです。

 まず最初に感じたのは、駐車場の少なさです。富岡市内に入って驚いたのが、「富岡製糸場には駐車場はありません」と明記された看板を目にしたことです。観光したけりゃ市街に分散している有料駐車場を見つけて止めろ、ということのようですが、あまりに不親切です。結局、道路工事の誘導係の方に訊いて、一番近い(と思われる)駐車場を教えていただきました。目的地など製糸場のほかにあるはずもなかろうに、これまた有料でした。駐車目的がそこしかないのに駐車料と入場料を別に取ることを、個人的に「二重徴収」と呼んでいるのですが、これをやられると金額に関係なくテンションが一気に下がります。

 製糸場の建物は、重厚で歴史感たっぷりで立派です。ですが、見学するとなると、かゆいところにいちいち手が届いていません。一番問題じゃないかと思ったのは、英語が一片もみられないという点です。場内には資料館が敷設されており、立派なパネルが並んでいるのですが、英語はじめ日本語以外での解説がまったくありませんでした。もちろん、我々日本人が訪れる分には何も問題ありませんが、本当に世界遺産に登録させる気があるの??と疑いたくなってしまいます。

 場内はボランティアの方が時間ごとにガイドツアーをしておられますが、こちらも英語には未対応と思われます。そもそも、ガイドさんは地元の有志の方で構成されているようで、当たり外れが大きいようです。というのも、他の方のレビューをみると「ガイドが面白かった」という感想も少なくないようなのですが、私の回のガイドさんは、申し訳ないのですがハズレで、失礼ながら途中で抜けさせていただきました。

 さて、いよいよ繰糸所の建物に入ると、紡績機がずうっと奥まで続いています。ああ、ここが「あゝ野麦峠」じゃないけど、女工さんたちが日がなせっせと働いていたところだなと感慨に浸っていたのですが、どうもよく見ると機械が明治のものにしてはハイテクな感じが…。訊いてみると、私が生まれた時にはまだ富岡製糸場は現役で、今ある設備は当時のものだとか。別に誰が悪いわけじゃないですが、「何だよ~」と拍子抜けしてしまいました。この設備のもとでは、映画や写真で見るようにずらーっと工人が並ぶ必要はなく、長い繰糸所内に2~3人しかいなかったそうです。

 
紡績機が並ぶ繰糸所


 ちょっと気になったのが、製糸場内のあちらこちらで解説して下さる(ガイドとは別の)ボランティアの方々に、「野麦峠」という言葉を口に出すと、条件反射的に「あれは諏訪あたりの工場の話で、官営模範工場の富岡製糸場には関係ない話だ」と叱られます(笑)。「あゝ野麦峠」の女工哀史も含めて日本の近代化の歴史なのだから、そんなに気色ばむこともないように思うのですが…日本の殖産興業を支えた製糸業のなかでも富岡はリーダー的存在で「模範」であるということが、富岡っ子の自負のようです^^;ちなみに、富岡製糸場の最後の所有者は、「あゝ野麦峠」の舞台諏訪の製糸長者である片倉工業です。

 
製糸場内の女工館


 富岡製糸場観光の一番の収穫は、繭玉を手に入れたことと紡績のやり方を資料館のパネルでお勉強できたことです。そのうち自宅で一人糸をつむいでみようかな~と思います。余談ですが、私は小学校低学年の頃、学校のクラスで蚕を飼っていました。当時の担任は女性で、しかも蚕を飼おうという提案はその先生がなさったものなのですが、今思うと結構レアですよね(私の数少ない尊敬する先生の1人です)。学校近くの藪へ桑の葉を採りにいき、もしゃもしゃ食べ続けるだけで手のかからない蚕は結構かわいかったです(笑)。で、いざ繭になったときに、先生が容赦なく「煮て絹糸にしてみようか」と言い放って、クラス全体が「可哀そうだ!」と反対して、結局羽化させることになったことをよく覚えています。蚕の成虫であるカイコガは、蛾とはいっても飛ぶことはできないので、これまた蓋のないケースでウロウロさせるだけで、卵を産んで往生されました。たしか卵は下のクラスに引き継がれたと思うのですが、記憶が曖昧です。

 というわけで、紡績の経験はないけど実は養蚕の経験はあります。で、幼少期からずっと疑問に思っていたことが2つあったので、工場内の方に訊いてみました。1つは、蚕は「煮殺す」のか、という点です。これは、煮る前に保管庫で乾燥させて殺すのだそうで、まぁ殺すことには変わりないのですが、煮殺すよりは道義的にマシなのかなぁと少し安堵しました。入手した繭玉は、振るとカラカラと蛾になれなかった死骸の音がします。もう1つは、糸を紡いだ後の繭の「中身」はどうするのか?ということです。棄ててしまうなんて非道なことは…と思っていたら、これもちゃんと無駄にすることはなく、畑などの肥料になるのだそうです(場所によっては食べることもあるそうですが)。

 最後の方は話がずれてしまいましたが、富士山の勢いに乗って来年の登録を目指すというのであれば、富岡製糸場にはもっと観光面での努力を期待したいところです。盛り上げられるところ、面白いところはいっぱいあるのに、残念でなりません。